医学の盲点 二つの反対の例

現代医学が如何に誤っているかは、常に吾々の警告を与えている処であるが、言う迄もなくその原因は、学理に囚われすぎて、実際を無視する為である事は、余りに明白である。それに就て反対である二つの報告を読む時、如何に頑固な唯物主義者でも、兜を脱がない訳にはゆかないであろう。

療養所の名物男
医者の言を守らぬ男

鹿児島県H・K

私の入院したのは、元の傷痍軍人療養所、今は国立病院の看板のかかっている所であります、入所当時昭和二三年には、五〇〇位の収容人員でしたが、 現在は六〇〇名以上も収容していましょう、それでも収容し得ない程の大繁昌振りで、有難くない結構な事です。

私が入所して半月位してまだ知らない男が、私のベッドの側に来て、用件が済んだ後の話に花が咲きました、此道の先輩なのです、この療養所開設以来の家付患者で、最早一〇年生なのであります、「貴君が治りたいなら、医者の言う事を聞くな、熱も計るな、脈もとるな、安静もするな、病気は気からだ、気にかけずに暴れ廻れよ」と申すのであります、私は暴言に驚きました、又感心させられました、尚続けて申しますには「自分は医者の言う事を聞かずに、この通りに元気になった」一度は危篤の公電まで打ったのが、今ではこんなに元気に生き返った、公電打って生き返ったのは此療養所始まって以来、二人だ、自分は其中の一人だ。喀血も血痰等も問題でない。自分は痰壺抱えて、血痰吐きながら、碁も打ち、畠も打った事がある、今一番元気な奴は皆医者の言う事を聞かない、暴れん坊ばかりだ、一〇年位見ていると、医者の注意を守る奴は皆死んだ、元気になったのは暴れる奴ばかりだ、だから貴君も医者の注意は聞かない方がよいよ」と言う訳です、成程と感心する所が多かったのですが、全面的に実行するだけの勇気はありませんでした、一部まねて、一部は医学尊重でした、後で判りましたが、此男は俳句を得意とし、ホトトギスの二句欄にも載る程の実力らしい、福岡県直方市の野見山朱鳥の菜穀火の同人でした、碁もやるし歌も唱うし中々の芸術家でした、 私も此男位の勇気があったら、 もっと早く全快していたでしょうにと、今では憶います。

此他に療養生活中に色々と珍らしい事、医学で説明の出来ない実例に接しました、或者は医者は危険だからと、自重安静を勧めるに反対して、 家事の都合で、 退院して野菜の仲買、所謂カツギ屋をやって元気になって、医者は驚いた、此男は既に五号菌を出していた要保護患者であったのであります、或るものは卵大の空洞が出来て、現代医学では絶対に駄目だとされているものが跳び廻り、暴れ廻ってから、全治してしまい医者は判らんと、驚き不思議不思議と言っていたものです。

前記の名物男は、絶対安静は絶対にするな、と言葉を残して、全治退院して、福岡県飯塚の一炭坑の採炭夫として、働いている様です、此男は何も宗教を信仰しているのではない様子でしたが、兎に角私の印象深いものがあります、御道を知った今では、殊更に思い合して、微苦笑を禁じ得ないものがあります。

五年間の闘病生活より救われて
日々希望に満ちた光明世界へ前進

愛知県I・M

私事A教会に入信させて頂き、一信徒として此道に同行させて頂けました事を、まず第一に御礼申上げます。有難うございました。

顧みますれば、昭和二一年五月より、足掛け五年間、病苦の為に只管医学を信じ、何時か迎うる全快の喜びを唯一ツの希望に、医者を命の親と頼り、薬を療養の友と親しみ、栄養食を養生の対照として、一途に専心して参りました。

果して此処に仕上げられた成果は如何なるものでございましたでしょう、それは余りにも悲惨な第三回目の発病でございました、この時の私の心境、悲しみ、どうぞお察し下さいませ、療養中は医者の言葉を厳守し、何一ツ怠る事なく、又周囲の忠告を守り、世間から良いと言われている、ありとあらゆる治療法を、健康になりたい一心で続けて参りました、

此間思えば二年三年と、年月は過ぎて参りますが、病の方はすっきりと癒り切らず、相変らず一進一退の有様、家の者も私の病気には、ほとほとあいそをつかし、この病気に掛るとほんとに長いんだからと、溜息をするのみでした、そして相変らず注射内服薬と、一生懸命続けました、医者は此頃診察する毎に、もう後暫くの間体を大事にしていれば、良くなるでしょう、 と言われ自分でも、 そんな気持がしていました。

月日は早くも過ぎて、昭和二五年の新春を迎えました、今年こそは医者に御厄介にならない様にと、希望を新にしました、 二月頃より又どうも体の具合が悪く気管支の一部で、痰が引掛っている様な感じがし呼吸する毎にゼイゼイする音が聞え、 咳ばかり出るので、不愉快でたまらなく、 新年の覚悟も儚な消え、又医者を訪ね、以後五月迄色々医療を加えながらも、 何故か病気は反対に悪化するばかりでございました、医者も、だんだん苦しくなって行く私の状態に困ってしまわれ、ほとほと手の下し様がないと、顔をしかめられるばかりでございました、五年間の長い間一度も医者を変えず、唯一人見込んだ医者を信頼して来た私、其故に失望の言葉を聞かされた私の心の打撃は大なるものでございました。

とうとう五月二〇日頃には再び床につく身となってしまいました、肋膜炎疾病を癒す為に、費やした五年間の血と涙の苦しい苦しい闘病生活は、はからずも、こうして肺病になることだったのかと、泣けて泣けて夜昼泣きました。

御報告させて頂いている今も泣き乍ら書いているのでございます、悲しみの二、三日が過ぎました、医者は最後の手段に、ストレプトマイシンの注射、パスの内服薬等すすめられました、而し此頃私の気持は何故かしら、医者をたまらなく憎く思い、或一ツの反感の湧くのをどうする事も出来ませんでした、 医者を離れる勇気はなく、 全く路頭に迷っていました、折も折全く奇遇ではございませんか、或女の方が尋ねて下さり、救世教の有難いお話を色々と親切に聞かせて下さり、之が御縁で、光明如来様にお救い頂きました、思えば生死の境に到り、漸く神様の救いの御手がさしのべられたのでございましょう。

初めの中は、浄霊の意味がさっぱり判らずに、半信半疑で受けて居りましたが、日一日と楽にして頂けるのに唯驚き、感謝、唯感謝あるのみでございました。

五月二五日より光明如来様を知りまして、余りにも尊く、偉大なる神様の御力を知り、六月には母と二人御守を御拝受、入信させて頂きました、以後日もまだ浅き今日此頃、私の体は非常に楽にして頂き、そして又、家族の者にも数々のおかげを頂きまして、毎日ほんとに喜ばせて頂いて居るのでございます。

此三月一六日には、光明如来様の御神体もお祭りさせて頂きました、この上は大御恵みに万分の一も酬ゆべく、私と同じ運命に悩める人達を、一人でも多く救う様お手伝いさせていただく覚悟でございます。

命の親と頼みし医学を去り、唯一筋に大光明如来様にお縋りさせて頂く様になった私、拙なき筆にて感謝の一端を御報告させて頂きました。嬉しさの余り長文に亘りました事をお詫び申上げます。

(栄光百十一号 昭和二十六年七月四日)