宗教なるが故に

私は、いつも不思議に思っている事だが、私が創成した病療法によれば、どんな病気でも実によく治る。自分としては甚だ言い難い話だが、恐らく人類史上曽てない素晴しい医術であろう。何となれば此医術によって、医師が匙を抛げた病人も助かり、一生涯無病息災の人間となる事も出来百歳以上の長寿を保つ事も、敢て不可能ではないからである。又今最も恐れられている結核なども、薬を余り沢山身体へ入れない内なら、十人が十人全治させる事が出来るのであるから、結核菌など、些かも恐れる必要はない。何故なれば、よしんば感染しても、雑作なく治るからである、又各種の伝染病なども、健康上必要な浄化作用という事を知るから、寧ろ喜ぶ位である。赤痢も、疫痢も、チフスも、脳炎も、ヂフテリヤも、天然痘も、麻疹も、何等手当を加えない内なら数日間で、必ず全治するのである。

特に言いたい事は、感冒を歓迎するというと現代人は驚くであろうが、吾々からいえば、感冒は体内の清浄作用だから罹る程浄血者となり、健康が増すからである。従而、近来結核始め、種々の病気の多いという事も、その主なる原因は感冒を恐れ、感冒に罹らないようにするのが原因である。だから我療法を知ったなら、病気は浄化作用であるから結構という事も判り、必ず治るに決っているという事も判るのである。勿論黴菌なども問題ではなくなる。ヤレ消毒、ヤレ含嗽、手を洗えなどという面倒臭い事は、一切必要がないから、生活は実に気安くなる。此様に大なる幸福と安心感は、到底筆舌では表わせない。処が此様な有難い話をしても、病気に対しビクビクしている現代人には想像すらつかず、全く別世界の話を聞くような感がするであろう。

而も、之程の驚異的新療法を聞いても見ても、現代人特に智識人などには、殆んど通じないらしい。素通りして頭の中に止どまらないのであろう。吾等から見れば実に解するに苦しむが、つまり宗教なるが故と思うより考えようがないのである。

処が犬の心臓を人間に移植が出来たとか、死人の眼玉をクリ抜いて、その網膜を生きた人間に移植すると、盲者が見えるようになったとか、ヤレ斯ういう新薬を発見したとか、斯ういう療法が成功したとか言って、時々新聞にデカデカと発表するが、吾々から言えば、まるで子供が何か出来たといって喜んでいるようなものとしか思われない。斯ういう事をいうと、自観という奴、又例の脱線的大言壮語と思うかも知れない処か、反って逆に吾々の頭脳を疑うかも知れないが、それ程彼等の頭脳は、既成文化の虜となり、化石となり切っているのであろう。何よりも吾々の言いたいのは、果して脱線か、気狂か、法螺かを充分検討して貰いたいのである。否、そういう意欲が彼等に起らなければならないと思うが、今日迄そういう事はない。勿論吾等の方は何時でも、心から納得のゆく迄実證を、いくらでもお目にかけるつもりである。処が彼等はいつまでも沈黙してそういう態度に出ないのは、全く宗教なるが故であろう。

今一つ言いたい事は、我新医術の論文中から、一項目を抜いただけでも、ノーベル賞位の価値は、充分ありと信ずるし、又若し、全部の理論と実證とを知ったなら、ノーベル賞処か審査員は驚嘆して、判定を下す事は不可能であろう。何となれば、暗夜に電燈を有難がっていた人達に、夜が明けて太陽の光りに合うようなものだからである。従而、之程の大発見としたら、人類破滅の力をもつ原子爆弾とは反対に、人類甦生(コウセイ)の力をもつ原子爆弾といっても過言ではなかろう。然し乍ら恐らく此文をみても、まだ仲々心を動かすまい、相変らず智識人の大部分は眼を外し、関心を持たないであろう。言う迄もなく宗教なるが故である。

噫々、余りに偉大な発見であるが為反って啓蒙の至難なる事を痛感するのである。

(栄光百四号 昭和二十六年五月十六日)