宗教即奇蹟

昔から、宗教に奇蹟は附物とされているが、全く其通りである。此点自画自讃ではないが、我救世教程奇蹟の多い宗教は、恐らく古住今来例があるまい。然らば、何故本教がそれ程奇蹟が多いかという事を、簡単にかいてみるが、それは本教の主宰神である神様が、最高最尊の御神格を有せられるからである。

世間では、神様とさえ言えば、それ程差別はないものとして、同一に見て拝む傾向がある。処が単に神様と言っても、上中下の階級があって、最高の神様から段々下って、産土神から天狗、龍神、稲荷等までもあるのだから、此点をよく認識しなければならないのである。だから神様の階級について詳しくかきたいが、そうすると他の宗教の神様を暴露する事になり、どうも面白くないから、遠慮してかかないのである。前述の如く、本教主宰神の御神格が如何に高いかを、一つの例を挙げてかいてみよう。

本教浄霊の、如何に素晴しいかは、今更言う必要がない位だが、日を経るに従い、段々世間に知れるにつれ、それが発展の一大要素となっている事も勿論である。そうして又此浄霊による病気治しに就て、誰でも不思議に思う事は、疑っても、物は試しだと思っても、斯んな事で治るもんかと思っても、思わなくても、同じようによく治る。今迄の信仰的病気治しは、殆んど初めから信ぜよ、疑ってはならない、というのが通例であったから、それに馴れ切っている人の頭では、前述の如く不思議に思うのも無理はないのである。依って之はどういう訳かをかいてみよう。

先ず、何もない内から信ぜよと曰うのは実は己れを偽る事である。何等実證も見ない内から、信ずるなどは出来ない相談である、としたら之は間違っているのは言う迄もない。

然し乍ら言われた通り、一生懸命信じようと努めるのは、疑うよりも幾分の効果はあるにはあるが、それは神が下されたものではない、全く自力でしかない。然らば、何故此間違った事が、当然のように、今迄思われて来たかというと、つまり其神様の力の足りない事を知らなかったからで、その足りない分を人力で補うという訳である。此意味に於て本教の如く、疑っても治るという事は、他力の力が大きいから、自力を加へる必要がないからである。従って治病力が足りないという事は、其神仏の位が低い為である。

又、斯ういふ事もよくある、それは思うように御利益がないと其教師なり先輩なりが決って言う事には、あなたの信仰がまだ足りないからと言い訳をする。恰度御利益なるものは、神様から恵まれるというよりも、人間の努力で引き出すように思うらしい。本来神様は大慈大悲であるから、御願いしただけでも、必ず御利益は下さるものである以上、人間が一生懸命になり、度を越すと反って、本当の神様ならお嫌いになる。特に断食とか、茶断ち、塩断ち、水を浴びたり、お百度参りするなどは、最も神意に添わないのである。何となれば、神様の大愛は、人間の苦しみを厭わせ給うからである。考えてもみるがいい、人間は神様の子であるから、子の苦しむのを喜ぶ親はないではないか、故に苦行によって仮令御利益があっても、それは本当の神様ではなく、邪神に属する神様である。何よりもそういう御利益は、必ず一時的で長く続くものではない。処が、本当の神様の御利益というものは、信仰すればする程段々災いは減ってゆき、安心立命の境地に到達し、幸福者となるのである。

要するに、御利益を得たい為、無理に信じようとするのは、低級宗教であって、疑っても信じないでも、神様の方から御利益を下さる、之が高位の神様の證拠である。

(栄九十九号 昭和二十六年四月十一日)