懐疑

懐疑とは一寸聞くと、どうも面白くない響きがするが、実をいうと之程尊いものはない。全く懐疑とは文明の母と言ってもよかろう。新しい哲学も、論理も、科学も、之から生れると言っても間違いはあるまい。支那の碩学朱子の言われた「疑いは信の初めなり」との言葉は、実に千古の名言である。

例えば、救世教という新宗教は、何故短期間にアレ程発展したのであろうか。お蔭話にあるような、彼んな素晴しい奇蹟が、どうして起るのであろうか。地上天国の模型などという、未曽有の大構想の下に、どしどし造営しつつあるのはどういう訳であろうか、というような懐疑は、第三者としたら当然起らなければならない筈である。

然し懐疑そのものだけでは何等意味をなさないが、之によって誰でも此謎を解こうとする意欲が起るであろう。それが尊いのである。何となれば之によって真理を掴み、智識は進み向上されるからである。従って懐疑の起る人程進歩的で、将来性ある人と言わねばならない。処が運の悪い人は懐疑が起きても真理を教える処が見つからないので、一生涯迷路を辿り、懐疑は懐疑を生んだままで終って了うので、そういう者が殆んどである。中には本教が説く真理を鼻の先で笑って、雲烟過眼して了う人もあろうが斯ういう人はよくよく不幸な人である。

現在、本教に入信し救われ歓喜に浸っている人も、嘗ての懐疑者であった事を憶えば、懐疑程結構なものはないであろう。

従って、人間は懐疑を起す位の人でなくては駄目だと共に、一歩進んで懐疑を暴くという勇気も必要である意味も判ったであろう。

嗚呼、懐疑なる哉、懐疑なる哉である。

(栄九十六号 昭和二十六年三月二十一日)