阿呆文学(七) 新宗教は嫌われてる

今の世の中で、嫌われているものの一つに新宗教が御座る。新聞雑誌など、新宗教とさえ言えばサモサモ憎らしそうにかくんだからヤリ切れない。成程、殺人強盗や詐欺や掏摸万引なんかの物騒な奴等なら、いくら憎んだり嫌われたりしても当り前だが、之は又大違いで不幸な人を倖せにしたり悪人を善人にして、安心して住める世の中にする吾々様を、本来ならば有難くて手を合せて拝んでもいい位なのに、嫌うなんていうのは飛んでもない話で、頭がどうかしてやしないかと、口惜しがるには当らないよ。世の中には随分如何わしいアプレゲール宗教が、後から後から出るんだから、マァー仕方がないと諦めて了いたいんだが、ドッコイそうもゆかない事があるんだ。外でも御座らぬ、ヤレ伝染病だ、結核だ、何だ彼んだと抜かして、ビクビクし乍ら青い面をして、朝から晩まで体温計と首ッ引で、天井の節穴を勘定しているのが能という、まるで生きた屍どころか作りつけの人形同様なんだから、見ては居れない態だよ。本来なればピンピン威勢のいい若者共がそうなんだからテモサテモ哀れ憫然(ビンゼン)八百屋の天秤で御座るよ。

処が、少し年を取ったのになると、中風などと来て、手足がブラブラ、涎をダラダラ、気の抜けたビールのような目玉で糞小便も垂れ流しと来るんだからヤリ切レないよ。そうかと思うと、癌というその名の如く、頑固極まる奴で、何れは此世のオサラバは決っているんだから可哀想なものだよ。その外何だ彼んだと病の問屋が多すぎるんだよ。処が此問屋はまだ品物が足りないと見えて、ヤレ新薬、注射、手術などと箆棒(ベラボウ)に高い品物を仕入れるんだから大変だよ。こんな仕入の金に比べたら税金なんかは屁のようなものだ。いくら税金屋でも金さえ払らやー命までもとは仰言る気遣いはないんだから、屁の河童さ。

そんな病の苦しみを、着物一枚位の金で助けてやるメシヤ教なんだからウッカリ嫌いだなんかいうと、天罰覿面(テキメン)、どんな罰が当るか判らないんだから、御用心御用心と言いたいね。斯んな有難い信仰だから、今に世の中に判って来たら、猫も杓子も、アチラからもコチラからも引ッ張り凧の大繁昌で、飯食う暇もない事になるよ。処が気の利かない奴はポカンとして、人の尻馬に乗って、ワイワイ騒いでいた野次馬共も、時節到来尻に火がつき、こりゃ堪らぬと悲鳴を上げ乍ら、オタ、オタオ助け下さいと泣きついて来ても後の祭りで、天国行のバスは車庫に入って了ってお気の毒様、仕方なくなく金ピカづくめの葬式車に乗せられて、十万億土行というのだから、何とマァーお気の毒でも何でも御座らぬ、身から出た錆で、自業自得の次第で御座る。

(栄九十六号 昭和二十六年三月二十一日)