一種の罪悪

お蔭話中にも沢山ある如く、重難病がどうしても治らず、生命の危険に晒され、此儘病苦に喘ぎ乍ら死んで了うより、いっそ自殺した方がいいとさえ思うようになり、今日死のうか明日死のうかと迷っている瀬戸際、偶々本教を勧められるが、其儘素直に言う事を諾(キ)き、助かった人は、真に幸福を掴み得た人で、斯う言う人の例は、常に本教刊行物に多く載せてあるから、読者はよく知っているであろうが、茲に見逃す事の出来ない重大事がある。というのは其様な危機に追い込まれ乍らも、仲々言う事を諾かない人がある。何しろ平常から幾多の新聞雑誌のデマや、悪口等の為本人は固より、周囲の者迄も本教を迷信邪教と思わせられている為、何程勧められても容易にその気になれないで、グズグズしている間に、遂に最期となる者が如何に多いかである。

右の如く、本教の真相も碌々知らず、触れてもみないで、只人が悪くいうから悪いのだろう。新聞雑誌がああかくのだから、何か悪い点があるに違いないと思い込んでいるので、偶々熱心に勧める者があっても、反って反対にとり、その人は邪教に巧く騙されているに違いない。実に気の毒な人位にしか思わないのである。然し之も実際無理はない。何となれば、世間にはインチキ邪教が余りに多いからで、十把一紮的に本教もそう見られるのである。恰度砂利の中の真珠のようなもので、砂利を掴んだ盲は、真珠も砂利の一粒としか思えないと同様であろう。

処が、それだけの事なら大して問題にはならないが、大衆を此様な心境にして了う動機其もので、それは全く新聞雑誌のデマからである。現代人は誰でも不思議な程活字の魔術に掛り易い、それが為、折角助かるべき命も、助からないで死んで了うという事になる。それも一人や二人ではない。天下何万という多数の者の生命が、其犠牲になるのであるから事は重大である。従って結果から言えば、間接的殺人行為の犠牲にされたと言っても過言ではあるまい。とは言うものの、実際彼等と雖もそんな重大な結果を生むなどとは夢にも思うまい。それ処か、彼等に云わしむれば、本教の如き迷信邪教があるから、社会に迷信が絶えないので、斯ういう邪教は大いに筆誅を加え、国民の目を醒まさねばならないと思っているのであろうが、事実は其逆である事を茲に警告するのである。全く善と信じて行う事が、悪になるという事程、馬鹿々々しい話はあるまい。何しろ事人命に関するに於てをやである、としたら碌々調査もしないで独善的に記事をかくその軽率さである。之が想像もつかない程の大きな罪悪となるのであるから、之によってみてもジャーナリストという使命の、如何に重要であり慎重でなければならないかを知るであろう。インボデン新聞課長が、報道機関の虚偽や捏造を、特に戒めているのも故ある哉と思うのである。

之を一般のジャーナリスト諸君に提言する次第である。

(栄九十五号 昭和二十六年三月十四日)