阿呆文学(六) 何が欲しい

オイッ、お前達人間共よ、お前達は今何が一番欲しいのか、遠慮なく言ってみなさいと言うと、みんな口を揃えて“手前共は只倖せになりさえすれば、それでいいんで御座りまする”というだろう。若しそう言わない奴があったとしたら、此奴は馬鹿か気狂に違いない。

そこで拙者は面倒臭い事は嫌いだから、大雑把に言ってみると、斯うだろう。先ず、一生涯病気に罹らない事、年が年中ピンピン達者で長生きをする事、食うに困らないだけの金が、チャントと入って来る事、家内中仲良く、嬉し嬉しで暮してゆく事、夫婦は、お前百迄儂ゃ九十九迄、共に白髪の生える迄、というようになる事、マァー其位の欲だろう。

そんな事なんか、此方は朝飯前のオ茶ノコサイサイなんだよと言うと、お前達は言うだろう。そんな旨い事が此世の中にあって堪るもんか、巧い事を言やがって、嬉しがらせておいて、信者にする方便なんだろう。成程メシヤ教という奴、喰えない代物だ、繁昌するのは当り前だよと言うだろうが、そこにそれ問題があるんだ。何故かって聞くだけ野暮だよ。今迄の世の中じゃ、そんな結構な事は出来っこなかったんだから、誰も本当にする訳がないんだ。而も仏教とやらを作った。釈迦牟尼仏という変な名前のオッサンが、言い出した御託宣には、此娑婆は生病老死の四苦という奴はどうしても逃れられないもので、四苦八苦で苦しむように出来ているによって、安楽に倖せに暮したいとか、何かが欲しいなどと思うのは、出来ない相談で、煩悩の犬という奴に迷はせられているんだ、判ったか。

汝元来、枯木の如しじゃない、欲の皮の突張った人間共よ、お前達は金が欲しい、女が欲しい、美味い物を食いたい、いい着物が着たい、立派な家に住みたい、名誉が欲しい、何が欲しい、彼にが欲しいと、欲しい物だらけで、年が年中苦労のし通しなんだ。又百八煩悩と申して、欲しいものが百八ツもあるんじゃから、厄介な人間共じゃ、一切衆生共相判ったかと仰言ったんだ。之が御説教の初りなんだからお有難い話では御座らぬか。だから人間共は、先ず此娑婆に生きている間は、出来るだけ不味い物を食って、インデアンのように六尺褌の長い奴を、体中に巻き付けていればそれで充分生きていられると仰言るんだ。処が、世の中にはその上を越した、親鸞という和尚さんが出て来た。和尚はまだそれでも勿体ないと、紙で作った紙衣(カミコ)という奴を着たんだから、上には上があるものじゃと、感心したんで御座るよ。そういう訳で欲張ってはいかん、欲を捨てよ、欲を諦めよというのが仏教の教えなんだから、吾々の方で欲しいものは何でも叶うというと、怪しからん事を抜かすな、そんな安ッぽい事をいうのは、現当利益の低級宗教なんだから駄目だとくるんだから、全く恐れ入りやの鬼子母神で、斯ういう人達の頭の中の雑作は、アベコベに食っ付いているんじゃないかと思うんだよ。本当の可哀想なのは此人達で御座いと言いたい位だよ。だが之も今言ったような訳としたら、無理もないが、斯ういう御仁こそ、丁髷信仰のチャキチャキなんだから、差詰め丁髷をチョックラチョン切らしておいて生れたてのホヤホヤの、煙の出てるメシヤ教の、美味しい奴を、ウンと食べさしてやるんだ。すると安くて美味くて、頬ッペタが落ちそうなので、こんな結構なものが、此世にあったのかと、手の舞い足の踏む処を知らずで大喜び、何しろ長い間の栄養不良で、骨と皮ばかりのガタガタ共を、ウンと太らして、まだ見た事もない天国へ、手を引いて助けてやるんだから大したもんじゃろう。

之が本当のメシヤ教のお説教なんだとは、何と有難い御説教では御座らぬか。

嗚呼、南無法蓮陀仏アナ畏こ、ポクポクポク。

(栄九十五号 昭和二十六年三月十四日)