阿呆文学(三) ヘンドンナモンジャイ

抑々、此頃何だ彼んだと、噂に上るメシヤ教とは、一体全体どんなものじゃい。名前からして救世教と漢字でかくんだから、東洋的と思ったらナーンだ!片仮名でメシヤ教とあるんだから、どっちが本当なんだか、サッパリ判らないと仰言るだろう。成程御尤も千万それに違いは御座らぬが、今の世の中をよく見給え、和服も着れば洋服も着る、味噌汁沢庵で茶漬も食えば、ビフテキにパンも食う、正宗にビール、舞踊にダンス、歌舞伎に新劇、振袖にストリップ、いくらかいても切りがないが、之で堪能がいったで御座ろう。

だから名なんかどちらでもよろしい。何より中味が肝腎なんだよ。では一体それ程立派なものなのかと仰言るだろうが、手前味噌じゃ御座らぬが素敵滅法大安売じゃない。奴偉い代物なんだから吃驚仰天しなさんな、と先づは毒気を抜いておいて、ボツボツ口から出まかせの誤多苦を並べてみようわい。

芝居モドキじゃ御座らぬが、先づ口上は此位にしておいて、偖て、此世の中を隅から隅迄ヅーイッと見廻してみると、之はこれは何とマァー汚ねえ臭い娑婆だらう。何処も彼処も埃だらけの糞だらけ、泥へ棒を突込んだような奴だらけ、夜も碌々寝られない、強窃盗や土蔵破(ムスメシ)が、いつ忍んで来るかは判らない。昼間は昼間でコソ泥や、空巣狙いにチョックラ持ち、汽車や電車にウッカリ乗れば、掏摸(スリ)、巾着切りに掻払い、バスに乗ったら之は又、衝突、顛覆、崖落ちの、川へ嵌まって大往生、テモ物騒な世の中じゃ。そうかと思や家の中でさえ、詐欺、強請(ユスリ)やらハッタリ、騙(カタ)り、タカリ、コワモテ、押借、脅喝など次々とやって来る。又近頃はチンピラ迄が大人顔負の凄さ振り、そうかと思や人身売買、パンパンガールに不良青年、与太者、ヤクザに町のボス、いくらかいてもかき切れぬ、だから此位にしておいて、之から本当のアラ探し、睡気醒ましをかこうとしよう。

外でも御座らぬ、世の中で一番頭痛の種はと言えば、言わずと知れた病気という奴、ウッカリすると一つよりない命迄、召上げるんだからオッカナイ。オマケに普段から人は病の器などと脅かされている人間共だから、血気旺んな若者でさえ、一寸風邪でも引くとすりゃ、直に青瓢箪のブラブラ病、ヒョロヒョロするともう君は、結核という命取りなんだから気を付けろ。そうかと思や近頃は油切った赤ッ面のドッチョイでさえ、危ないぞ、君も結核があると言われ、心細い処の騒ぎじゃない。そうかと思や熱が出て、ゴホンゴホンと来りゃもう肺炎、腰がフラつきゃ早やカリエス、ゼイゼイ言えば喘息で、ゲップが出ると胃何々、ドキドキすると心臓病と来ちゃ、花恥しい乙女子は先づ慢性心臓病とはチト悪口がすぎますか。親父は親父で中風という半身不随のフラフラ病、其又女房は女房で子宮何々、卵巣何々、子供は子供で麻疹に百日咳、猩紅熱にヂフテリヤ、疫痢、脳炎と切りがない程世の中は、病神様大繁昌、油断も隙も出来はせぬ、テモ恐ろしい娑婆の態。

そうかと思やお偉方は、ヤレ涜職、ヤレ賄賂、やったとか取ったとか、水掛論の五月蝿い事、文書偽造や贋手形、財産横領に使い込み、隠匿物資、闇屋、カツギヤ、贋札使い、上から下迄、下から上迄鼻もちならぬ娑婆世界、之がホントの末の世か。昔の人の言う通り、犬猫同然、虫ケラ同然の人間ばかり。処が糞壷にいる蛆虫は慣れっこになっちゃって、別段汚ないとは思わないのと同様、お気が付かないんで御座んしょう。どうです皆さん、斯んなにも思い切っての扱下(コキオロ)しに、呆れ返ったで御座んしょう。そこで此奴怪しからんと、堪忍袋の緒を切って、文句の一つも言いたいだろうが一寸待て。自体拙者は生れついての正直者、只アケスケにありのまま、見たまま言うので、痛い御方も御座ろうが、脛傷だらけじゃ仕方があるまい。頭掻き掻き、腋の下の汗をフキフキ苦笑い、フフンと言って横向けば、それでお仕舞い。それっきり、後白波と消えちまい、浜の松風音ばかし、などといい気な拙者で御座る。

ザットかいても之位だとしたら、御世辞にも結構な世の中とは申せまい。処がお偉方達は真ッ赤になって仰言るだろう、“貴様の目玉は節穴か、田螺(タニシ)同然の明盲、之程結構な世の中を、悪く言うとは怪しからん”奴というかも知れないが、拙者はそんな御託宜、百も承知の助なんだ。処がまだまだ今少し、御耳障りでは御座ろうが、聞いて貰いたい事がある。外でも御座らぬ、抑々拙者は先祖代々の江戸ッ子で、口から先へ生れた阿呆、口車ならば直に乗り、滑り出したら大脱線、停めて止まらぬ威勢のよさ、之が江戸ッ子の持前で、もしも森の石松君、生きて居たなら、オイ、お前(メエ)寿司食はネエかと言うだろう。アプレゲールの江戸ッ子は、拙者で御座ると言いたいね。低い鼻をば拳固で擦り、啖呵を切って之からかき出す様々はオッタマ気ないよう褌を、確かり締めてお聞なせえ。セパートのワン公じゃ御あせんが、三角耳をオッ立てて、ドイツもコイツも耳の穴よくカッポジってお聞きなすっておくんなせえ。今度愈々汚ねえ娑婆を、綺麗サッパリ石川で、尻洗ったよう洗い浄めて了うんだ。何と小気味よいでは御座らぬか、というと拙者を市役所の清掃人夫と間違えちゃ困るが、実はブチまけて言えば、天の神様此度愈々地に降り、掃除万端拙者にお委せなすったんだから、何と素晴しいじゃ御座んせぬか。ヘン、ドンナモンヂャイと言いたいが、それ処か、よし来たと捻鉢巻に尻引ッパショリ、ウンと気張って、愈々之から躍り出すという寸法と来ているんだから面白い。

処が、今度の大掃除は、春秋二回の縁の下の掃除なんかとは、月とスッポン程の大違い。虫けら共を撮み出し、火で焼き灰の粉にして、西の海へとさらりと捨てりゃ水の泡、消えて跡なくなりにけり、だとしたら大変だ。ウッカリしては居られまい。そこで神様可哀想だから、助けてやれとの仰せだが、それそこが問題なんだよ。何しろ普段から勿体なくも大神様に、悪口雑言並べたり、尻を向けたりした罰が、溜り溜ったドー屑人足、仕方泣くなく閉口頓首、逆さになってお詫びすりゃ勘弁して下さるか、下さらないかは分らない。先づ何よりも今直に、メシヤ教へと来る事だ。すれば拙者はお前等の、罪や穢れのお詫びして、助けてやらない事もない。何と有難い宗教では御座らぬか、どうじゃ、恐れ入ったか、人間共よ。

(栄光八十九号 昭和二十六年一月三十一日)