インテリの悲哀

昭和廿五年十二月十四日「夕刊読売」紙に左の如き記事が載っていた。
画家の惨めさ
中村研一
一日一題
昨日の夕方私は、或彫刻家の未亡人の訪問を受けた。年はもう七十五、六である。約三十年未亡人生活の間、五人の子女を育て上げそれがちっとも、実を結んでいないのである。たった一人の男の子は十年位前に学校を出て、某新聞に勤めていたが病死、長女は私の妻と同級生で画をかいていたが、某洋画団体の会員であるTに嫁した処、彼は極度の貧困のうちに不治の病に倒れ、今方面委員の保護のもとに入院その看病疲れからか、予ての肺病が募って夫の発病の翌々日発病して亡くなった。夫は今にそんな事も知らずにいる。

次のお嬢さんも画家の処に嫁に行き、姑は両三年来寝たきりのところへ、之又肺を病み、子供三人を抱えてストレプトマイシンの費用に事欠いておられる様子である。三番目のお嬢さんは或青年鼓の名手に嫁がれたが、その娘さんがまた病床の由、そして末の未婚のお嬢さんは此老夫人と二人でお茶の先生などして、戦後の荒い世を乗り切っているのであるが、過度の疲労から昔のカリエスが、再発の気味で病床にあるという。

此老婦人が七十何歳で只一人元気であり、珍しく生命力に溢れた人で、何でも次女の為ストレプトマイシンを四十本とか必要な由で正規なルートで買えば、一本三百何十円とかのが仲々手に入らず、大抵一本七百何十円とかするのだそうで今日は、清瀬の病院に、明日はどこの病院にとかけめぐっても工面がつかず、その外に亡くなった長女の墓の問合せとかもあり、一日置きにはその入院中の画家の病院に何か副食物をもっていかねばならぬのだし、次女の世話にいき、三女の孫の世話にいき、そして、家に帰っては末女の世話をせねばならぬのだし、茶の出稽古に行かねば、生計は立たずという具合で、此人自身が要保護者の一人である--云々×××

右の記事を読む時、軽々に見逃し得ないものがある。というのは斯ういう例は今の世の中に案外多いからである。恐らく昔の人間にはなかったであろう事は、話にも文献にも見ないにみて明かであるとしたら実に重大問題である。何となれば昔からみれば、今日の医学の進歩は、比べものにならない程である。而も此記事中の人々は、先ずインテリ層に属する人達であってみれば、衛生思想も充分養われている筈であるにも拘わらず、現代人は斯ういう例を見たり聞いたりしても、些かの疑念も起さず当然のように心得ている。

言う迄もなく、現代医学に盲信し切って、他を省みる余裕もないからであろうから、正しい批判力などは全然失っていると言えよう。よくも之程迄に信じて了ったものと驚かざるを得ない。処が吾々が、右のように病の為、不幸な境遇に陥ったものを救った事実をみせても、新聞にかいてもテンデ関心を有たない、殆んど不感症である。

誰が何と言っても本教は病貧争のない家庭を作り得る力を持っているとしたら、茲に溺れんとする者があり、すぐ近くに掴まる繩を持っている者がいる。そこで早く掴まらせようとしても、両者の間に邪魔物がいる。という訳で其邪魔物を取除く以外、助けようがないのである。では其邪魔物とは何かというと、言わずと知れた前述の如き科学迷信そのものである。

(栄光八十九号 昭和二十六年一月三十一日)