阿呆文学(一) 新宗教は軽蔑されてる

新宗教は軽蔑されてるといって、口惜しがるには当らない。全くその通りなんだから仕方がないよ。先ず之から例によって、拙者の見た通り、聞いた通り、思った通りをブチまけてみよう。

先ず手当り放題、片ッ端から取上げてみるが、偖て一番に現われましたのは、勿体なくも天照大神様がお憑り遊ばしたという璽光尊様で御座る。何しろ尊い生神様なので、人間共を下に見下し余ッ程恭々しく平身低頭罷りつんでなければ、お目通りも叶わないという勿体振り、初めはそれでどうやら奉られ、いい気持になっていたばかりか、時の人気者呉清源に双葉山という呼物さえ出来たので天下にパッと知れ亘ったのは御承知の通りだ。処が大神様も少々脱線遊ばされたと見えて、宮様の御家敷へ家宅御侵入なされたり、百姓共に供米相ならんなど、飛んでもない事を仰せられるので、遂々信用零となり、おまけに二人の人気男さえ後足で砂と来たので、其後は岩戸隠れとなったらしい。洵にハヤ御同情申す次第なりで御座る。

次に現われましたのは、之は又素ン晴しく威勢のいい神様で、往来だろうが野ッ原だろうが、遠慮会釈も何のその、大勢揃って踊り狂う有様は奇妙奇天烈、悪く言えば狐に撮(ツママ)れたようで、善く言えば夢幻の恍惚境に陶酔している有様で、愉快極まりないので御座る。だから発展の勢い侮り難く、新聞にニュース映画にヤンヤと騒がれたものだった。而も教祖北村サヨ刀自は“俺の宗教は銭は一文も要らないよ、俺の食うだけは百姓してチャンと穫れるんだから”という御託宣、只より安いものはない世の中とて、一時は老若男女押すな押すなの大繁昌、一躍人気宗教になって了ったんだ。それだけならまだいいが、北村教祖の大言壮語は又フルっている。曰く“今の人間共はみんな虫ケラじゃからどもならん、儂は虫ケラ共を撮み上げて、助けてやるんじゃから、骨が折れるよ”と来るので、大抵のものはウヘェーと頭を下げるか、さもなければ恐れをなして逃げて了うという訳で、此頃はトント噂を聞かなくなったのはどうなさいましたか、まさか御隠退の御年でも御座んすまい。

次は又、皇道治教といううまく宗教法人令を利用して、色々の商売人に合法的脱税が出来るといって、宣伝したんだから堪らない。待合、芸者屋、魚屋、八百屋、乾物屋など色々な欲張り連中が、ワンサワンサと押掛けたのも当然だ。一時は仲々発展したようだが、之はチト変だぞ、宗教だか何だか分らないという訳で、遂々お上から睨まれて、ウンと締め上げられ、ギャフンと参ったらしいが、此頃は細々乍らやっているそうである。

其次に罷り出ましたのは、之は又物凄い宗教で、名前だけは、まこと教というのだが名は体を表わさずで、驚いた事には嘘か本当か知らないが、新聞によれば若い女を素ッ裸にして、殴る蹴る打つのマゾヒズム的やり方なんで、流石の拙者も何と申してよいか、かく事も出来ず、筆を抛げて了ったので御座る。

今度は、アプレゲール新宗教で、名からしてPL教というのだから、実に新時代にもてそうな名前だ。というと“オイッ気を付けろ! お前の方だってメシヤ教なんてイヤにハイカラな名を付けたじゃないか”と言われると、一寸閉口頓首だが、只中味が丸ッ切り違うんだから、よく見て貰いたいんだよ。

PL教の呼物は、御存知の通り当節流行のダンスなんだから嬉しいよ。教義に曰く「男女は心を清らかにして神に祈り、男は女を大切にし、女は男を敬い、仲良く円満たるべし、それにはダンスこそ、最も神様の思召に叶うのである」というんだから、之を作った教祖の頭のよさには、ホトホト感心されるんで御座るよ。だから斯ういう理屈で踊るんだから大威張りだ。何も親父や伜なんかに気兼ねも要らず、天下晴れてのお楽しみじゃない。いとも神聖な行事なんだから、流石の神様も御喜びなされ給うだろうし、人間様も当てられ同志の相見互いで、之も地上天国の一場面であろう。だから吾々も信者になりたいんだが、そうも行かないので、指を喰えているばかり、ホンに羨しい限りだよ。で、諸君も御存知の通り、此教団は元の人の道の教祖御木徳一氏の令息徳近という文化人だそうだから、成程と合点が行くで御座ろう。

先づ以上の如く戦後派新宗教の総まくりを並べた次第だが、斯う見て来ると、どれもこれも確かりした教義もなければ、形式もなく勿論理論もヘチマもない。哲学もなければ科学もなく、只興味本位の手軽さで、俗衆を引き寄せるには持って来いの行り方なんだから誠にタワイない、といって了えばそれまでだが、処がどうしてどうして之が容易ならぬ問題を含んでいるんだ。というのは之を見た現代人の偉方は「なあーんだ、新宗教なんてものは実に馬鹿々々しい、くだらないもんだ、こんなものに騙される奴は余ッ程低級な代物だ、全く戦後人心の混乱に便乗し、怪し気な宗教をデッチ上げ、衆愚から金を巻き上げるんだから、怪しからん。斯んなものは社会の為、片ッ端からヤッツケて了え」と仰言るんだから、迷惑なのは本教だよ。特に本教は地上天国などという金のかかるドエライものを拵えたりするので、新聞雑誌は羨しそうに何十億の資産があるなどとかき立てるので、オッチョコチョイは憤慨し、インチキで巧く瞞して大金を巻き上げ、豪奢な生活をしてやがるんだから癪に障って仕方がない。メシヤ教の奴新宗教の中の一番大物なんだから此奴を槍玉に上げるのが社会の為だ、という訳で、目の仇にされるんだからやり切れない、春秋の筆法で言えば、諸々の新宗教が本教を苦しめるという訳だよ。

処が、盲千人の世の中だから、口車じゃあないデマ車に乗せられて、本教の真の姿を見る事が出来ないのも無理はない。だが本当に可いものは、必ず認められる日が来るに決っている。その時になるとアチラでもコチラでも、引ッ張り凧の大人気で袖が千切れてやりきれまい。何故なれば本教に縋らなければ、命が危ないという大変な事になるんだから、其時だよ、ヘヘンと言ってフン反(ゾ)り返へり、低い鼻でもウンとオヤかしてやるよ、というとメシヤ教の奴、又してもそんな誇大妄想的御託宣で、人を吊ろうとしやがる。怪しからんといって、怒られると怖いから、此辺で先ずは退陣致すとしよう。

(栄光八十六号 昭和二十六年一月十日)