大光明世界の建設 病貧争絶無の世界

病貧争絶無の世界などと言へば、それは、理想であって、到底実現し得らるるものではないと世人は謂ふに決まってゐる。然るに、我運動は、その可能を確信して憚らないのである。然らば、病貧争を絶無ならしむる、その根本は、何であるかと謂へば、それは、何と言っても、病気の絶滅である。先づ、人が病気に罹るとする、其為の費用と職務に就けない損失と、二重の負担は、病気が長びけば長びく程、弥が上にも累(カサ)んで、大抵の財産は失くなって了ふ、長年汗で貯めた貯金も費い尽し、親戚知人からは、借りる丈は借り尽し、去年迄はいとも饒(ユタ)かに、平和に、楽しく暮してゐた家庭も、今は、見る影もない、ドン底に陥って終って、貧と病苦に喘いでゐるといふ実例は世間余りにも少くないのである。併も、一人の重病者が出来た場合、其本人のみかは、その家族全体が、無限責任を負はされる。親戚知人は固より、時に依っては勤め先までさへに、大なり小なりの痛手を蒙らせるのである。故に、病人一人が苦しむ計りか、四人も五人もの家庭から、外部の者に迄打撃を与へるといふ結果は恐ろしい事である。死ぬ程の病人が、二三人も続いたとしたら、先づ万以上の財産家と雖も、裏長屋へ引っ込むの止むを得ない境遇になるのは、数多くの実例が示してゐる。

人々が貯蓄をするのに、二つの目的がある。一つは、財産を造らふとするものと、一つは病気の場合の治療費に充てる為とである。前者は、積極的で、後者は、消極的であるが、此消極的貯蓄の方が、断然多い事は、誰でも知ってゐる。

故に、貧乏の最大原因は、病気であると断定しても否定は出来まい、次いで、争であるが、国と言はず、人と言はず、其最大原因は、経済上からである事も、又悉知(シッチ)の事柄である。故に、病貧争を絶無ならしむるとしたら、先づ、根原である病気から解決付けてゆくのが本当の順序だ。病気のない人間、是が先決問題である。如何なる救ひと雖も、それより外にありやう筈がない。而して之を実現する力こそ、観音力を措いて外に、絶対にないのである。故に、斯んな素晴しい事業は、釈迦、基督と雖も、夢想だもしなかった事であって、之を信じ得る人こそは、未だ嘗てない幸福者であると言へやふ。

(観音運動 昭和十年九月十五日)