今日迄、観世音菩薩のみは、全く御秘仏とされて、御本体は誰も識らなかったといふ事は、寔に不思議な訳である。随而、多くの仏者は、菩薩の名に迷って、阿弥陀如来や、釈迦如来よりも、下位と思ひ、中には又、阿弥陀が本体であって、観音は阿弥陀の化身などと、途方もない解釈をなし、又、釈迦の脇立であるとさえ説くに到っては、沙汰の限りである。然らば、観世音菩薩の御本体は、如何なる御方かと申すに、実は、畏れ多くも、天照皇大御神の慈悲に依る救世の代現神仏で被在(アラセ)らるるのである。
天照皇大御神は、主神の表現神で被在られ最尊最貴の御神格を具し給ひ、一あって二無き大神で被在られ、天孫降臨の際、畏くも、皇孫瓊々杵尊(コウソンニニギノミコト)に、豊葦原瑞穂国(全大地球)は、天壌と倶に窮り無き云々との御神勅を賜り、万世一系たる天皇に、統治の大権を、永遠に委ねさせ給ふたのである、それより後代に到って、天地経綸上、国津神たる国常立尊に審判の権を与へ給ひ、同尊は幽界の主宰神として、閻魔大王となられたのである。又一方、伊都能売之大神に対し、救世の力を与え給ひしに由り、爰に、同神は観世音菩薩と化現され、絶対の慈悲を以て、一切衆生を救はせ給ふ本願を立てられ、今日に至ったものである、其事を、今一層判り易く申せば、如何に世を救はんとなし給ふと雖も、天照皇大神としては、御神格上、直接、人類を救はせ給ふ事は不可能であらせられるのである、畏れ多き例へながら、一天万乗の大君としては、直接御手を下され、人民を労はらせ給ふ事の難く重臣を代らせらるると同一の理である。それが為、仏菩薩といふ下位に墜ちられ、如何なる卑下階級と雖も無差別的に救ひを施させ給ふのである。之を懐(オモ)えば、天祖大神の大慈大悲なる、洵に感激の極みである。
二千五百年以前、前述の如く、天祖大神より、救世の権限を附与せられ給ひし、伊都能売之大神は、月氏国即ち、今日の印度に渡らせられ、同国の南方、布咀洛迦山に居を構えさせ、当時の諸天善人に、普く法を説かれたのである。
其事に就て(華厳経には、南方に布咀洛迦と呼ぶ山あり、観自在菩薩其処に居ます、或時善財童子(釈迦)が遊行して、山の頂きに登り、観音を訪ねて、面接する事が出来た、そこには樹木生ひ茂り、諸処に流泉と浴池あり、その園の柔かい草地の上の金剛宝座に、観自在菩薩は、結迦趺坐して、多くの聖者達に恭敬され乍ら、大慈悲経を講話されてゐた、其時、観音の侍者として、二十八部衆が居た)。(因に観自在菩薩とは観世音菩薩の別名である)
又支那天台の開祖南岳大師が、昔は、霊山会場に在って妙法蓮華経を説き給ひ、今は西方浄土に在して、阿弥陀仏と名付け奉る。而も、人界普門に示顕(ジゲン)しては、救世観世音菩薩となり給ふ。過現未に渉る三世の利益は、之悉く、観音一体に帰すと。之に由っても判る如く、其弟子の一人たる、善財童子は、その妙説に随喜し、飜然、悟りを開いて、彼の檀特山(ダントクザン)に登って、七年の苦行をなし(此七年の年数は観音よりの霊示である)成道の釈迦として、愈々仏法を説かれたのである。是を以てみれば、真の仏法の開祖は、観世音菩薩であって、釈迦は、観音の御弟子であったのは間違いない事実である。
(観音運動 昭和十年九月十五日)