大光明世界の建設 序論

昔から、聖者として、大宗教を弘められたのは、何と謂っても、釈迦、基督、マホメットの三者に指を屈する。然し、其中で、マホメットは回々教(フイフイキョウ)を起し、中央亜細亜を中心として、数億の信者を有して居るが、吾々日本人には、殆んど関係が無いから、茲では、述べない事にして、兎も角吾々日本人に、密接の関係ある宗教を、検討すると共に、何故に、観音運動なるものが、又観音会なるものが、創成されたかといふ理由を、天下に発表するのである。

我日本に於ては、現在、神道十三派、仏教十三宗五十六派、基督教廿余派あり、其他、新興宗教類似宗教等、無数にあるが、何と言っても、仏教が其主体をなして居り神道では、天理教が頭角を現はし、基督教は割合振はない状態である。

古来、三千年間、聖者賢哲が雲の如く輩出して、道を説き、愛を唱へ、慈悲を諭し、善を勧め以て不幸の無い世界、即ち人類の理想たる。地上天国、五六七の世、甘露台の世、義農の世等を建設すべく、如何に努力した事であらふ乎、然るに、未だ以て、実現しないのみか、反って、前途愈々遠きを想はしむる現状は、何が故であらふ、視よ、苦悩の叫びは到る処に充ち、強国は、強者は其権力を増大して、益々自己本能の満足を得んとし、弱国は、弱者は、愈々困憊窮乏(コンパイキュウボウ)のドン底に沈淪(チンリン)し、一人の満足者あれば、一万人の絶望者があるといふ惨状である。

国際間に於ける、軍備競争を、経済難を、政治の行詰りを、思想の混乱を、会議外交の失敗を、生活難を観るがいい、そこに見出すものは、絶望と溜息と、自暴自棄とである。暗黒其ままの世界である。

斯の様な、光の無い世界に在って、宗教は一体、何をして居るのであらふか、各宗の開祖等が予言と使命を下した理想世界は一体何時になったら来るのか多くの聖者達が発行した手形の決済は如何(ドウ)なるのか、もう全部が不渡になるではないか、嗚呼、人類よ『お前達は何処へ行くのだ』?

以上述べた事は、誰も知ってゐる事である。宗教家も、為政家も、操觚者(ソウコシャ)も、インテリも知り抜いてゐる。然し、知って居ても、如何する事も出来ないだけなのだ。

それは、何が故か、案が無いからだ。指導者が無いからだ、力がないからなのである。設(モ)しも、其案を持った指導者が、そして、想像も付かない力を有った人間が、現はれたとすれば、一体如何なる事であらふ、その力の持主を、仮に超人と言って置く。

此超人が、昭和十年一月元旦から、人類救済事業を創(ハジ)めたのだ、それでは、其超人の揮ふ力とは、一体何であるか、それこそ、観世音の力なのだ、是を約(チヂ)めて観音力と言ふのだ、此超人が、之から行はんとする、事業の概略に就て、超人から聞いた儘を、項を分けて、記(カ)いてみやふ。

断ってをくが、之から記く事は、主に前人未開の説が多く、寔(マコト)に突飛とさへ思はれる事が多々あるので、之を読んでも、直ちに信ずる事はむづかしいであらふ、故に、些かなりとも疑ふ人があったら、実地を見るより仕様がない。実は、此本を書く位、難しい事はないので、実地を書けば信じられ難いし、信じいい位に書けば、実際とは違って来る、恰度、徳川時代の人間に、飛行機とラヂオの説明をするような、否、それよりも、困難であるからだ。

(観音運動 昭和十年九月十五日)