東洋文明は已に没落し、西洋文明は全く行詰ってゐる今日-世界は、如何なる方向に転換せんとするや、之が全人類の根本的悩みである。然し「此姿こそ」今や-新しく生れんとする真神文明の産みの悩みのそれである。次々起る戦争、革命、事件、夫等は陣痛の苦悩でしかないのである。然らば、新真文明とは何ぞや、雌伏三千年-万世一系の皇儲(コウチョ)の国、我日本から今や、呱々(ココ)の声を揚げんとしてゐるそれである。視よ! 六十余年間に西洋文化を、一千有余年間に支那文化を咀嚼(ソシャク)して、余す所なき斯国は、今や! 恒天の使命に飜然(ホンゼン)と目覚めんとしつつある。
否、進んで全世界を目覚めしめん自覚の下に、動き初めたのである。皇軍の偉容を、産業の躍進を、其他芸術に、教育に、スポーツに、凡ゆるものを視よ! 一旦摂取せられ-醇化せられて、茲に再び、新鮮なる文化形体となって、外に向って迸出(ヘイシュツ)せずんば熄(ヤ)まざるの概(ガイ)を示してゐる。而も斯国の大調和の伝統精神は、赤化も終に旗を捲くの余儀なきに到り、フワッショも施すに術なし、宛(アタカ)も-大海原が各川より流入する汚濁を呑んで、悠々乎たるの状其儘である。
此秋(トキ)に当って、斯国の民が、唯一の生命を託すべき医術其ものは、実に-二千有余年以前の支那人の創成せるものと、数百年以前に-猶太人(ユダヤジン)の科学者が創始せるものとの、二種のみである。此両者の医法に依って、我等日本人の健康と齢(ヨワイ)は、左右されてゐる現状である。昔人は曰ふ、人間僅か五十年と、然し-悲しい哉、昔人が曰って僅か五十年すらに、此医学は届かせて呉れない事を統計は示してゐる。年々壮丁の体格低下と、嬰児死亡率の驚くべき高率を如何にするか、諸君、今日-知人の家庭を訪問して、一人の病者無き家が何軒あるであらうか? その大方は、一人や二人病床に臥し、又は病院への入院者の無い家は稀だと言っていい位である。今日の日本人の体格を厳密に診断して、完全なる健康体は、三分の一は無いであらふ事実に気附かなければならない。
然るに飜って、我三千年以前の国史を観よ、其処に-驚くべき事実を発見する。神武天皇の御寿(オンコトブキ)を初めとし、十数代の帝(ミカド)の御寿の-大方百歳以上に渉らせらるる御事である。武内宿禰の三百六つは言はずもがな、而して其頃、現代の如(ヨウ)な医学や、生理衛生は全然無かったのである。人或は曰はん-今日の文化生活と、古代の生活とは比較にはならないではないかと、それも一応は尤もである-が、儻(モ)し、今日の文化生活の雰囲気に在って、尚百歳の寿を保つ事が可能としたならば如何(ドウ)であらう-人類にとって之程驚異すべき事があらうか、将に一大奇蹟である。大事件である。然し、私は断言する。それは正に可能である事を。
茲に先づ、現代医学を検討してみやふ。西洋医学は、西暦一八五五年に彼のウィルヒョウが提唱した、細胞病理学を基礎となし、唯物主義の堅塁(ケンルイ)を守り、微に入り細に渉って、今尚、研究を続けつつあるのである。故に、外観上-如何にも進歩発達せるが如きも、惜しい哉、枝葉末節に拘泥し、学理に偏して、実際的治病効果の挙がらない事、拾年一日の如しである。日々に新薬が現はれるといふ事は、前の薬剤の効果のない事を、実證して余りある。随而-今日、医界の識見ある士は、西洋医学の行詰りに歎声(タンセイ)を漏し、有名なる某大家の如きは、公開の席上に於て、医学では病気は治癒しないものであると、明言して憚らない事実を、私は確聞してゐる。是に於てか、世人は既に捨て去って一顧だもしなかった、漢方医法を復活するの止むなきに至ったのである。
絢爛たる文化を誇り、西洋医学の進歩に、随喜渇仰して来た現代人も、其医病力が、他の科学的産物と其効果に於て、余りにも隔絶せる事を知って、二千余年以前の支那人の所産に係り、幕末期頃までを、僅かに余喘(ヨゼン)を保って来た草根木皮療法に再び-貴重なる生命を委ねるの余儀なきに立到ったのである。一旦墓穴に埋めた形骸を、復び掘り出だすの悲惨事と等しい業である。
其筋の峻厳なる取締りに拘はらず、電気、温灸、鍼灸(シンキュウ)、指圧、掌、或は何、或は何々療法といふ、実に千差万別な民間療法が、簇出(ゾクシュツ)しつつある現状は、何を物語ってゐるのであらふ乎、又邪教視せられ、迷信扱ひされつつも、尚駸々として発展しつつある-新興宗教の実状を、其処に何等か理由がなくてはならない筈だ。一概に、盲目的に、新興宗教は総て邪教であり、迷信であると断定して了ふ事は、因襲的感情に支配されての独断だと言はれても、弁明は出来ないであらふ。何となれば、卿等(ケイラ)が尊信歇(ヤ)まない、既成宗教と雖も、其創めは、パリサイ人から、吾々のそれと等しく新興宗教として軽侮され、邪宗迷信として、凡ゆる迫害を享けた其事実である。それは余りにも雄弁に、法難史が物語ってゐるではないか。
考えてもみるがいい、若し現代医学や既成宗教によって、適確に治病効果を奏するならば、何を好んで不安なる民間療法の門を潜(クグ)り、又は親戚知人等の侮蔑と漫罵を浴び、周囲の迫害に坑してまでも、新興宗教へ趨(ハシ)るであらふか、其処に止むにやまれぬ、あるものがあるからである。併も夫等の人士は、意外にも、老後の安楽や死後の浄土を希ふ爺婆よりも、寧ろ新教育を受けた青年や、インテリ層が多数を占めてゐる皮肉である。勿論、民間療法や新宗教に依って、医師の見放した重患が奇効を奏した実例を、少からず知ったが為である事は言ふまでもない。
故に、私は言ひ度いのである。現代医学に携はるの士は、暫時-民間療法から眼を逸(ソ)らし、只管治病専一の医術を研究されん事である。其結果-真に効果ある、治る医学を創見されて、普く世人を救ったなら、民間療法は人の手を藉らずして、忽ち淘汰されて了ふ事は、火を睹(ミ)るよりも瞭かである。
一体、世間多数の病患者が、新興宗教に、民間療法に趨るといふ事は、誰がそうさせたかと言ひたいのである。
日々、我々の許へ愬(ウッタ)えて来る患者の言ふ事を、聴いて貰ひ度い、彼等は一様に言ふのである。最初病気に罹るや、例外なく、医師又は病院に行くのである。旬日にして治ったものは幸ひであるが、不幸にして長びくとなると、医薬費、入院料等が嵩むばかりでなく、職業にも就けないといふ拍車が加はるから、長年汗で貯めた貯金は使ひ果し、親戚知人から借りる丈借り尽しても尚病治らざるのみか、病長びけば、衰弱も加はり-悪化するのが当然である。
斯うなる以上、最早-医療を受けたとて、何時治るか見当は付かぬ、併も経済の行詰りは、医療継続を不可能ならしめ、進退爰(ココ)に谷(キワマ)るといふ、その状態は涙なくしては聴き得られないものがある。
其際-此人達の冷え切った心を温めて呉れるものは、何と言っても、新興宗教の信者達であらふ。それは、新興宗教の常として、教線を拡げる熱があるからである。此熱と誠によって、又神の霊護によって難病が治るといふ-奇瑞も有り得る筈である。天理教等の発展も、それを実證してゐる。
次に民間療法に就て、詳しく言ひ度いが、医師法に触れる懼れがあるから言へないが、差支えない範囲丈を言はして貰ひ度い、それは罹病後、吾々に直ちに来る者は稀であって、大多数は医療を先へ求める。不幸にして快くならない-終に種々(イロイロ)の療法をやる。それでも治らないので、来るのだから-夫等患者を治すのには、二倍も三倍もの治病力を要する訳である。然るに、其成績たるや-六七十%以上の治病率を挙げてゐる。之を読む人は、信じ難いであらふが、事実だから致方(イタシカタ)がない。故に-疑ふ人があったら、何時でも実證するに吝(ヤブサ)かないのである。
医学の終極点は、人類から病気を無くする事であるのは言ふ迄もない、それが為の-基礎医学も病理構成も、動物試験も細菌学も勿論必要であらふ。然し、それ等基礎的研究のみに-偏し過ぎはしないだらふ乎、例へば、今家を建築しやふとする。その基礎工事は、基礎工事其ものが目的ではなくて、地上何十尺高く「偉容を現はす建築」其ものである。言はば、建築の為のそれである。無論重大な役目ではあるが、基礎工事が長過ぎて、家が何時になっても建たなくては、用を為さない。
専門家が、顕微鏡下に細菌の活動を凝視してゐるその一方に於ては、幾万の病者は呻吟しつつ、治る医学を、如何に渇望してゐる事であらふ乎、故に-吾々は誰でもいい、一日も早く、人類から病気を、無くして呉れればいい、それ丈である。
一切は時期である。時期は絶対者である。之に抗する事は神にも出来まい、それは、西山(セイザン)に舂(ウスズ)く太陽を、東の空に呼び戻す事の出来ないと同じ様に。我大日本帝国が、世界の地平線上に其雄姿を現はしかけたのも、矢張時期である。
日本に、日本人の手によって、日本人の頭脳によっての医術が生れたとしても、不思議はない、唯物主義を本質とする西洋医学が、絶対とされてゐたとしても、それ以上の医術が現はれないと、決める事は出来ない、如何なる学理も、事実の前には無力である。新しいものは、古いものを清算する。それは、新しいものが優ってゐるからである。
人類から病気が無くなり、延命するといふ事は、驚くべき事である。斯んな事を言へば、気狂(キチガイ)にされて了ふであらふ事は私も識ってゐる。コペルニクスの地動説も、ニュートンの引力説も、ダーウィンの進化論も、其初めは、そうであった如うに。
日本人が、世界最優秀民族である事は、漸くその全鱗(ゼンリン)を顕はしかけて来た。
自分の国と民を、優秀づける癖は、外国にも乏しくはないが、それとは全く異ってゐる事を、識者ならずも判る筈だ。苦悩の文明を、愛と平安の文明に飛躍さすべき使命は、吾等に懸ってゐる事を、認識しなければならない。
此同一の目的の為に、私より他にも、種々(イロイロ)の力の人が出るであらふ事も信ずる。
観世音菩薩が、私の様な、浅才微力の者を選んで、日本医術を創始されるのは不思議な宿命であると思ってゐる。そうして、私の霊体を通して、揮はれる観音力が、社会に拡充されたならば、数年ならずして、病人は-今より三分の一以下に減少する事を、断言し得るのである。其暁、現在-日本人の平均寿命が四十五歳であるのを、六七拾歳に延長される訳である。統計によれば、日本国民の寿命が、一年延びれば、三拾億の国富を増すといふ事である。故に、拾年延びれば三百億、二拾年延びれば六百億の富を増す事になる。
病人が減ると言ふ事は、病人自身の幸福のみでない事は、前述の如く、国家経済に対しての、驚くべき大利益であり、国防上に於ても、其威力は、想像も付かない程のものであらふ。勿論、一切の国難は解決されてしまふ。
日本人の寿命が二拾年延びて、六拾五歳になるとしたら、どうなるであらふ。日本は、断然-世界第一の国家となるのは知れ切った事である。故に-日本医術の拡充運動こそは、軈(ヤガ)て、日本に由って、世界は救はれ、日本天皇の大御稜威に光被されて、爰に大光明世界は、建設さるるであらふ。
私は徒(イタズ)らに、大言壮語するのではない。設(モ)し、疑ふ人があるとしたら、実地を体験して貰ひ度い、それは、観世音菩薩を信奉し-日本医術による、生理衛生を行へば、半ケ年乃至一ケ年を経て、一家からは病魔は駆逐され、病気に対しての不安は、除去されて了ふのである。
終に臨んで、天下の医学専門家諸士に希望する。それは、観音力が、如何に絶大であり、如何に驚くべき治病力があるかを研究されん事である。私は喜んで材料を提供する。
(観音運動 昭和十年九月十五日)