霊界の審判

抑々人間は、現世に於て各々その与へられたる天職使命を完全に遂行すべきであるに拘はらず、大多数は事物の外観的方面のみをみて判断し、目的の為に不知不識悪に属する行為も敢て為すので、それが長年月に渉るに於て、相当の罪穢となって霊体に曇が堆積するのである。之は、霊界の存在を知らなかったから止むを得ない事であらう。従而、人間が死後霊界人となるや、その罪穢の払拭が厳密に行はれるのである。それ等に就て以下詳説してみよう。

私は幾多の死霊から霊媒を通じて霊界の事象に就て、出来得る限りの詳細なる調査研究を行ったのである。そうして死霊の言説に就ても誤謬や虚偽と思ふ点を避け、幾人もの死霊の一致した点を綜合して書くのであるから大体に於て誤りはないと思ふのである。

人間一度霊界に入るや、大多数は神道で唱ふる中有界又は八衢、仏教でいふ六道の辻、基督教でいふ精霊界に往くのである。然し、茲に注意すべきは日本の霊界は立体的であって、西洋の霊界は平面的である。私が研究したのは日本の霊界であるから、そのつもりで読まれたいのである。そうして右の八衢とは霊界に於ける中間帯である。それは本来霊界の構成は九段になってをり、即ち天国が三段八衢も三段地獄も三段といふ訳である。

死後、普通人は八衢人となるのであるが、極善の者は直ちに天国へ昇り、極悪の者は地獄に堕つるのである。それは死の状態によって大体判るものである。即ち天国へ復活する霊は死に際会して聊かの苦痛もなく、近親者を招き一人々々遺言を為し、凡そ死の時を知って平静常の如き状態で死ぬのである。それに引換へ地獄に往く霊は、死に直面して非常な苦痛に喘ぎ、所謂断末魔の苦しみを為すのである。又右の孰れでもなく普通の死の苦しみの者は八衢に往くのである。言ふまでもなく八衢へ往く霊が大部分であって、死体の面貌を見れば大体の見当は付くものである。それは天国行の霊は生けるが如く、時には鮮花色さへも呈し、平安些かの死の形相もないのである。又地獄行の霊は、顔面暗黒色又は暗青色を呈し苦悶の形相を表はし、一見慄然とするやうなのもある。又八衢行の霊は一般死人の面貌で、濃淡はあるが大体黄色である。

右に就て先づ八衢行の霊から説明してみるが、先づ死後直ちに八衢へ行くや仏教で唱ふる如き脱衣娑なるものが居て、それが着衣を脱がせるのである。そうして三途(サンズ)の川を渡るのであるが、其際普通の橋を渡るといふ説と、橋がなく水面を渡るといふ説とがある。但し、後者の説は川に水が無く、龍体が無数に河中に紆(ウネ)ってゐて、それが水の如く見へ、龍の脊を渡るといふのである。又一説には、脱衣婆は娑婆からの着衣を脱がせて、霊界の白衣と着せ更へるといふのである。それは橋を渡り終る時、白色は種々の色に染るのだそうで、罪穢の多い者は黒色であり、次が青色、次が紅色、次が黄色、罪穢の最も少いものは白色といふのである。それから仏説にある閻魔の庁即ち審判廷に行き、そこで審判を受けるのであるが、それは娑婆と異ひ、絶対厳正公平で、些かの依怙も誤審もないのである。其際閻魔大王の御顔は見る人によって異るそうで、悪人が見ると御眼は鏡の如く口は耳下まで裂け、舌端火を吐き、一見慄然とするそうである。然るに悪の量が少い程御顔が優しく見へ、善人が拝すれば寔に柔和にして威厳備はり、親しみと尊敬の念が自ら湧くそうである。又審判の際浄玻璃の鏡に映写したり、閻魔の帳即ち生前の経歴を控へてある等によって下調べを行ふ等は事実のやうである。そうしてその調べ役は冥官が行ひ、其監督は神道によっては祓戸の神が行ふと謂はれてゐる。

右の審判によって罪穢の量が定まれば、その軽重によって、それぞれ天国又は地獄の、霊相応の階級へ行くのであるが、神の御目的は罪人を造るにあらず、天国人たらしめるのであるから、地獄行の霊は大抵は一時八衢に於て修行をさせ霊の向上を計られるのである。それは八衢に於ては現界に於ける説教師の如きものがあって、それが改善に向はしむべく努力するのである。その説教師なるものは現界に於ての各宗教の教誨師等が死後そういふ役を命ぜらるるのである。そうして八衢に於ての修業期間は三十年としてあり、それ迄に改心出来得ないものは、地獄へおつるのである。

(明日の医術 第三篇 昭和十八年十月二十三日)