事実自然栽培にした最初の一年目は葉は黄色く、茎は細く、余りに貧弱なので、付近の者から嘲笑慢罵、散々悪口を叩かれ、中には忠告する者さえある。(『栄光』一九八号)
宮崎県 N・T
水呑百姓の名に洩れず、過ぎにし貧乏の明け暮れは、夢多き青年の前途を真暗くしました。耕作面積の狭い上に相当の肥料代を支払っていきますと、食べる丈が精一杯、来る年も来る年も同じようなことの反覆でございました。敗戦と言う冷厳な事の前には「兵隊で飯を食う」とひそかに抱いた希望も、無惨に打ち砕かれてしまったのでございます。如何にして、と日夜悩み続けた私でございましたが、妹の蓄膿症でお蔭を戴き、それに刺戟されて入信さして戴いた私でございました。
その頃はまだ日本浄化療法と言われていた頃で自然農法の事を御教え戴いておりませんでした。暫く経って初めて御教えを戴いたのでございましたが、観音教を極端に嫌い「そうしたことをするなら叩き出す」と父が申しますので、是と信じながら我慢して只管時期を待ったのでございます。と突然父が他界しましたので、母にもよく話しまして、遂に心に画いていた無肥料栽培(自然農法)の試作を麦から始めさして戴いたのでございます。「そんなことをして出来る筈がない」と言う母を辛うじて納得させて播種したのでございましたが、例外なく発芽した麦は真黄色です。「火を点けたら燃えるだろう」と聞えよがしに語り合う村人達「迷信邪教に踊らされる大馬鹿者が、A村には二人いる」(二人は支部長のM先生のこと)酔ったまぎれに家の前でどなられたり「お前のような不孝者はおらんわい、六〇になった母を干し殺すか」等と言われますと、ああこれに一握りの硫安を撒いたら、とどれ程思ったか分りませんでした。「穂が出るもんか」「気が狂ったんだろう」「どら息子」「馬鹿たれ」と罵倒された私でございました。
でも私は頑としてそれに応ぜず、必ずやり遂げると固く心に誓いました。先駆者は叩かれるのが必定、道なき道を踏み分けて進む身には荊あらん、葛も絡まん。でもでも御浄霊の神秘を体験さして戴いている私には、御守護により何物をも恐れざる安心感を戴いていたのでございます。
生きとし生けるもの皆に、御恵を給う神様であらせられるのだもの、農作物にも、ちゃんとお蔭が戴けると御教えを戴いているのだもの、必ずや神秘のあろうことは信ぜられました。若し私が御浄霊の奇蹟を体験さして戴いていなかったら、そして又会長先生並びに先輩諸先生の御激励を賜わらなかったなら、或は私のこの壮挙は挫折していたかも分りません。斯くするうちに容赦なく日は過ぎて小さな麦が穂を出しましたが「肥毒(酷く)やられた」とM先生が笑わせられました。「雲雀が寝て食うわ」「扱ぐことも出来んわ」と人から嘲られたのでございました。なる程人様の半分も穫れないのですからこう言われるのも無理ありません。でも前途には燦々たる光明がある「三年先を見ているがいい」と何の悔むところがありましょう。只管に明主様をお念じ申し上げ、土地の御浄霊を怠りませんでした。「雲雀の寝て食う麦」の辱は次々に飛んで、遂に私は村一番の大馬鹿者にされました。「馬鹿でもいいさ、沢山とれる様に努力研究するのが馬鹿で、肥料代稼ぎの百姓に右へならえするのが利口なら」と、私は馬鹿の尊称を笑って受ける程、心は落ちついて来た自分を見出して嬉しく思いました。「道端作人」と言われた丈に、父は稀代の負けず嫌いで、道路に面した田圃には夜間に、金肥、人糞等をまき散らしたもので、それに対する肥毒の浄化は特に激しいのが当然でございます。
愈々稲の試作となりますと、麦に懲りた母は私の壮挙を思い止らすべく、泣いたり、怒ったりして諫めました。あまり度々のことでございますので申訳なくも母と口論し、家を飛び出すとまで言い放った私でございました。併し「るな三訓」を思い出したり、或は又「如何ならむ事も耐へて時を待つ」の御歌を思い起して、涙をのんで我慢して来たのでございます。
「お前はお母さんが可哀相だと思わないのか。苦労してミルクで育てて貰ったこと等も知らないで」と思います。だから早く沢山穫れるような御蔭を戴いて、一日も早くお母さんに楽をして戴きたいからこそ、馬鹿と嘲られながらも屈することなく一生懸命になってやらして戴くのです。これは決して自分一人で発明したものではなく、神示により、明主様が理論的に我々にまで納得のゆく様にお諭し下さったもので、少しの嘘もなく数多くの体験者もあり、確たる見透しがついていればこそ決行できるのです。黙って任せなさい。私ももう子供でもない。男一匹親を食わせずにはおかないから」と母の進言を退けてまいりました。
稲作は麦のような見苦しさはありませんでした。「昨年の肥料が残っていたからだ」と、その結果をうやむやに葬り去らんとする村人達の卑劣さよ、生育期には何と言った、植付けの苗を何と言って笑ろうた、三年目より本格化すると微笑しながら、じっと堪えた私を何んと罵った。でもいい、私は私なりにこれと信じた道を歩くのだ、と涙と汗と土地の御浄霊を継続したのでございます。
「無肥料栽培」のプリント「自然農法解説」と次々尊い御本を辱うし、自信満々真理遂行に黙々として邁進致しました。
ああ、斯くして三年「なよなよと遠き黄金のうねりかな」誰が詠んだか豊穣の秋を称える名句、ああその中に更に又一際目立って一区を画す曲線は、私の自然栽培田でした。
収穫間際、突如として南九州に上陸したルース台風は五〇米の速さで猛威を振い、倒壊家屋までできた程でございました。嵐の後の静けさの中に何事もなかったようにしているのは、私の田圃でした。「あたりめえだよ」「俺らの田圃は明主様の御守護があるんだもの」「明主様のお蔭」と立札でも立ておきたい衝動をじっと抑えつつ合掌し、御礼を申し上げた私でございました。「天然色の写真に撮りたいね」と仰言ったS先生のお言葉が寔に有難く、明るく、私の耳に響きました。「泣くな」と教えられても涙は溢れます。幾重にも幾重にも厚く厚く御礼を申し上げます。悪口言うた人達の推薦で品評会に出す筈のところルース台風で他の稲が全部倒れましたので、比べる相手がなく出品不能となりましたことはかえすがえすも残念でなりません。私の稲は予想を上廻る収穫で、まだほんの一部しか抜き落してはおりませんが、昨年より籾一俵の増収でございます。
泣いて戴いた母の顔も晴やかです。「無肥料で出来たら首渡す」と言った人々の首も、まだ、あずけた儘でございますが、あれ程悪罵雑言を賜わりながら「それみたことか、いい態だ」とは信仰者として私は言わないのでございます。「一日も早く目覚められ幸福者となって戴くよう念じて止みません」。小学を出たばかりの百姓のせがれであり、二六歳の若僧だから、ああ言った手前真似するのが「それ臭い」と仰言るなら、大いに考え直して戴きとう存じます。私は悪口雑言の代償を求めてはおりません「道の為世の為人の為のみを時非おもふ真人」たるべく懸命の努力をさして戴くのみでございます。
どうか皆様、現実をもっと直視して下さい。少しでも早く、幸福になって下さいと、結果を通して皆様に叫びたいのでございます。「三年経てば吸収されていた肥料が無くなるから減収する」と仰言った人々の理論は考え直す必要が起ったのでございます。
「事実」、「事実」程正直なものはない筈でございます。百姓も何時迄も百姓でなく、二百姓、三百姓にならなければ生涯幸福と言うことは考えられないではありませんか。徒らに税金と肥料代稼ぎの労働に水呑百姓に甘んずる事なく、地上天国御建設の大理想に参画さして戴こうではありませんか。
(昭和二六年一一月二二日提出)
長野県 K・Y
M・R
昭和二六年一二月九日、この日こそ私達にとって意義深い運命を決する日であった。それは待ちに待った、年に一度の農芸品評会である。会場正門に立て掛けられたその立看板に私達の胸はいやが上に高鳴る思いで一杯です。
真に私達信者は苦しくも長かった病床より尊い御力に救われた上、又重ねて自然農法の偉大さを覚り得て、今日此処にその成果を郷土の人々の前に実証する喜びと、そして誇りに思わず同志の人々の顔も共に輝く様子です。
顧みれば、三年前より小さい乍ら次第に実成績を挙げつつある同志の者と相計り、郷土の人々に金肥農法の余りにも労多くして効少きを覚って頂く可く、誠意を以て当るなら吃度村人も沢山共鳴して呉れるものと先ず言葉に依る宣伝と計画し、その第一声を昨年の春三月、O村公民館に多数の参会者を得て開催致してより、各村に於て幾度かの研究会を重ねましたが、村人達は意外にも殆んどが、「金肥をやらずに穫れるなんて信じられんなー」とのささやきが起り始めた。「理論的には信じられるがどうか」との声「要は実行です。一坪たりとも実行して見て下さい」と力説した。しかしその結果は誰一人として試作して見る者さえもなかったのです。私達の勇気も希望も失いそうで毎週集るその研究会にも会員の顔色は全くなかったのです。そこで、「良いことでも言葉だけで納得させることは中々至難です。お互に協力実行して事実に依って証明し、村人に理解して頂く以外に道はない。皆様もっと頑張って下さい」と力強く諭して下さったH先生の声に一同は顔見合せ無言の誓いに領きあった。そして愈々昭和二四年春の来るのを待って新発足をしたのでした。信者の中にも家の人の理解が得られず、全員とはいかぬが、MさんとBさんは耕地全部を切替えてその準備に取りかかりました。
「我々少数なり共一体になって行こう」と誓い合い、自然肥の準備に整地に自他の別なく手伝い、先生も御浄霊の合間合間に、草刈りや馬耕に、又田植等に協力致しました。
しかしその稲の生育中の状態のみじめさに自分達が度々溜息する始末で、全く六、七月の生育状況は村民の嘲笑の的となり、果ては村農業協同組合の心配の種とまでなり、Mさん宅に詰めかける技術員は、「こんな稲では半作もむずかしい。早く肥料をやり給え。君達は食べる物さえなくなるぞ」といっておりました。村民達は「可哀相に、邪教の狂信とはあんなものだ」と嘲弄しました。
明主様には申訳無いが、私達もいささか不安で、毎日眺める稲面も一向に良くならず、お互に悲観しておりました。この上は只管神様にお縋り申し上げる外無く、と唱え始める善言讃詞の声は寂しく夏空に流れて行きました。色は黄色く草丈は短かく分蘖は少く稲は一入衰れに見えました。「併し私達には神様の御守護が必ずある」そう思って見直すと小さな稲にも何と一種の輝きを増した感じがします。「人事を尽して天命を待つ」これで良いのだ。との先生の声に皆も元気を取戻すのでした。
そんな皆の一喜一憂を余所に、日を経て八月に入るや次第に色も出、丈も伸び、欲目なのかどうやら一寸小さい恰好が世間並の稲らしくなって来ました。今更乍ら神様の御守護には誰の胸にもほの温い喜びが湧き出る思いで、秋を迎えました。
その穫入れは信者達平均一割の減収では有りましたが、立派な成績となって現われたのでした。
あの可憐な茎の一本一本が、恐ろしい肥毒と闘い乍ら、その生命力を半ば失った土よりかかる偉大なる収穫を挙げ得て一同喜びに浸ったのでしたが、この事実も村民達には「普通作より減収」の言葉に葬り去られて仕舞いました。
しかし私達はよし「もう疑うことはなし」来年こそは「素晴しい成果を挙げて見せよう」と誓い合ったのでした。
斯くして三年目を迎えた自然農法の結果は明主様の御教え通りとなって現われ、「二月九日」今日こそ大衆の前にその成果を知らす時となったのでした。
場内は村全体より出された収穫物に見入る人々で一杯でした。然るにその中に、輝く様に目にとまった金紙の「一等賞」の三字でした。凝っと眺める私達の背を叩く村人の一人「お光様が一等だね」「大したものだ」等の声を背に眺めれば、村全体に唯一つ唯一人のみが金賞を獲得したのでした。最終日に村民代表として、「褒賞」を受け、答辞を述べることを命ぜられたMさんは、救世教を代表するかの如き感激を以てその責を立派に果したのです。
長野県農業協同組合S支部長より送られた数々の賞品を前にした私達は感無量でした。そして教会の大光明如来様の前にその賞品をお供え申し上げ、今こそ声高らかに善言讃詞を奉唱致したのでありました。
この事実の前には村人達も遠からず目覚める時が必ず来ることと信じております。
今冬はこの実績を持って布教の御手伝いをさせて頂くべく大いに張切っております。
明主様この様な尊い御蔭を頂きました事を、一同謹んで御礼申し上げます。
(昭和二七年一月七日提出)
栃木県 F・K
茲に私が自然農耕法を営みおりまする近況を御報告申させて戴きます。
私は今日迄農業栽培法に一大誤謬の潜在を痛感し、近き将来に農業の一大恐怖時代の切迫を覚り、大自然の偉大なるを農業指導者並びに農民諸君に一言を呈する者であります。抑て今日の生産不振の原因たる病虫害が何故起ったか、今こそ一歩も二歩も深く掘り下げて検討に検討を加える必要に吾々は迫られている。生産の不振は独り化学肥料の使用労力の不足が原因でございましょうか。又一面病虫害は何故起って来たか、之も独り気候の異変ばかりが原因ではない。今日迄長い間病虫害の予防に消毒にも努力を傾倒して来た。だが果して完全に防ぎ得たでしょうか。依然として病虫害に悩まされている現状ではないか。何故吾々は今日迄この大きな欠陥に疑いの目を向けなかったのであろうか。余りにも盲目過ぎる吾々であった事を今更乍らあきれるのである。私の現在営まして戴いている自然農法を今日現実の効果の前に一入声を大にして叫ばなければならない事がある。私は明主様の御教えによる自然農法を行い、初めて今日迄の農業栽培が如何に大なる誤りであったかを覚ったからであります。化学肥料が人糞尿が、化学という理論の裏付と相俟って一時的著効があった。その一時的著効の前に吾々は眩惑されて来たのである。右の結果として土壌の力は衰退し、肥料中毒を起し、年々肥料を多く施さぬ限り減収という悲惨なる憂目に遇って来たのである。
若し自然農法が今日迄の化学肥料も薬剤も人糞尿をも用いずして増収を得るとしたなら、否増収を得るのであるから、これに勝るものが何処にあるでしょうか。当事者は検討を加えるべきが当然である。それなのに世の中には実に想像に絶する奇蹟あり科学あり、又空想の実現もある。今後、今日の世を荷負う処の世人にして右の実態をも検討もせず、一笑に付して白眼視して置いて良いでしょうか。宜敷く検討に検討を加えて吟味すべきだと私は思います。時代は刻々日に月に進み、進歩発展を遂げつつある。発展を重ねつつ今日の科学文明は生まれたのである。勿論それには破壊と創造とが繰返されて来た事は言う迄も無いが、作物の栽培は特に然りであると思う。今日迄長い間、化学肥料に消毒剤の使用にと研究を尽して来たが、果して増収を得たでしょうか。よしんば又増収を得たとしてもその反面如何に大きな犠牲が払われているか実に測り知られないものがございましょう。それには膨大な国費と大多数の人費を使役して生産された肥料を消化する事に於て、農業者の経済負担は実に大きく収穫の幾割をも消耗している事実である。若し一割の増収を得たとしても二割の消耗をしたとすれば何の利益があるであろうか。即ち骨折損と言うだけの事でございましょう。茲に明主様御指導の下に幾多年の研究と実地施行により、増収の確証を握り、発表なされたる自然農耕法を行う事により、増収を得るとしたら、世の皆様方は何れを御選びするか、判断の余地はありますまい。
愈々私が自然農耕法栽培実施に於ける体験心境と成績の一端を申し述べさせて戴いて今後の農業栽培に些かなりとも裨益する処がありましたれば幸甚と思います。
私は自然農法の偉大なる御教えを中教会長先生より承り、人体の病源は薬毒にある。その原因は即ち農作物に含有せる肥毒に依るものが、如何に吾々人体に悪影響を及ぼしているかということと、それをなくすには自然栽培に依り、最も清浄なる作物を作り、多くの人達に食わせることが即ち一般社会の人々が幸福を得られ、肥料無くして増産を得、美味であるとのことを教授され、又教師達の指導のもと自然農法実行を決意しました。そうすれば今日のこの食糧不足問題を解決出来得るということが、再建日本の前途に如何に大なる光明を齎すかは表現の仕様もないでありましょう。然も労力は半減するし、世界的有名な日本農民の労働過重も一挙に解決するのみか、肥料代その他薬代の経済も加わる以上、農村の一大福音というべきでございましょう。
それで私は二四年麦作の栽培より始めさせて戴き、昨年は全耕地を自然農法に捧げさせて戴きました。私の耕地は水田二町一反二畝歩、畑地七反六畝でありまして、妻と息子(長男二二歳)の三人に依る経営にて、家族は一二人の大家族でございます。それで皆入信教修も受け、尊き大光明如来様をも御奉斎させて戴いております。
土地は村最高の反当二石五斗の割当でございます。これには深き感情問題もありますけれども、此処にては発表をおゆるし下さいまして御想像下さい。併し御蔭様にて初年度でさえも平年作の御利益を戴きました事は、これ即ち何でありましょう。自然の偉力に外ならないではありませんか。それにもかかわらず、神を信ぜざる指導階級にある者、一般農民は信じようともせず、「土地が良いからだ」「前年の肥料があったから」と言うて一笑に付す者、且又邪教だ迷信だとののしる如きに及んでおります。
私は「世の人よ笑う者は笑え、今に分る時期が来る」と言うて益々一大奮起してやっております。偶々自然農耕法座談会が開催されましたその結論として「農村の合理化は現在の畜力のみにては望まれぬ、一歩飛躍的に機械化でなければ合理化は計れない」とのことで私は一大心境の変化を見出させて戴きまして、これが本当の農業であると痛感致し、初めて光明を見たる心地が致しました。それで昨年暮長年家族として親しみ飼育せし馬を手放しまして、機械化に依る経営トラクターを購入致しました。なんせ農事一切トラクターにて行うことでありますから、無経験の私等にも並々ならぬ苦労と努力がございまして、水田代掻の場合本当にこれを使用せる者は僅少とのことなのに、私如き者にて易々と使用部品農具一切私等の考えせし農具を製作し、水田作業に馬の半分労力にして、つつがなく田植を終了させて戴きました。その後は運搬作業にも使用致し、馬が無きためか衛生的に良く清潔なることこの上もありません。作物に就いて申し上げますれば、本年は本当に自然のみの堆肥にして他の不浄物一切使用せざりしに、なんと形容して良いか言うに言われぬ自然の形を現しております。集団浄霊も四回程奉仕させて戴き、日に増して黄金の穂波が頭をたれつつあります。
併し「自然栽培はだめだ」と見極めもせず否定して私をして止めさせるべく、村の有力者、農業委員の方達が、「救世教は邪教である。自然栽培は世の為にも不利益だ。営農視察だ」と言うて見学に行って批判をして考え直させて仕舞おうと、村農業委員会席場にて合議し、「去る九月三日に訪問するからお家におられる様に」との通知を受けましたので、私は「それは良いことである、皆さん方是非大勢御出下さる様に」と連絡を取りました。村長以下八名の名士のみ御出を下されまして稲作見学、各人共に「稲は病虫害がないから立派であるが分蘖が足りない、本数が少い」と言うておられました。水田全部視察は終り、一時家に着いて座談会を催す如く出て来ましたけれど、一人として自然農法の真理を聞こうとする者無く、唯「肥料を施行すれば分蘖もあるから収穫は多いだろうから使用したらどうか、宗教に依る農法は考えられない」と邪教の如く解しておりまして、私の話なんか耳にしません様でございまして、私が多年精農家として指導されて来たにも拘らず又村の要職を捨てて今日の農法を経営せりと