二 山上の垂訓と自観師

1 「垂訓」の真理性

キリスト教に於ける「山上の垂訓」は福音書中の魂魄とも称せられ、アメリカ第一六代の大統領リンカーンは、田舎の一弁護士時代より此の聖訓によって南北対立問題に根本解決を計らんと決意したと伝えられ、大統領に就任後も、一切の政策は殆んど此の聖訓に根拠を置いていたと言われて居る。

殊にリンカーン未だ三〇歳前後、イリノイ州の新進政治家時代、奴隷存続を可とする南部諸州と、それを不可なりとする北部諸州との対立愈々激しく、将に政治的大波瀾が起らんとする形勢に当面せる時、彼リンカーンは敢然起って奴隷解放を主張し、而もその問題の根本解決の論旨が、聖訓の趣旨に基づけるが為めに、強く民衆の胸琴をかき鳴らし、遂に一世の衆望を一身に集めて、有力なる政敵ダグラスを破って大統領の栄冠をかち得たることは、余りにも有名な話である。即ちリンカーンは聖訓より「平和」「忍辱」の深趣旨を把握し、常に、「すべて分れ争ふ国はほろび、分れ争ふ町また家はたたず」(マタイ伝第一二章)の一節を口にして衆人を説得したと言う。

思うに深遠なる教訓も、偉大なる人物によってのみ始めて深く理解され、広く実行され人を益し、世を利するのである。が、一知半解の徒は、兎角批評、批判をこれこととし、以って自ら高しとなして、其の真髄に触れて実行に移さんとする肝要事を忘却するのである。已ならず、自己の智識をほこらかしげに、得々と愚論を羅列し、果ては聖者の教訓を冒潰し、人を惑わし、世をあやまる。

そは古今東西人類共通の一大欠点で、ために聖者にして誤解されざるなく、迫害されざるなく、其の生涯は忍辱、苦難の連続である。されど真理は永劫に滅びることなく、絶えず人心を覚醒し、広く世に伝播される。これ畢竟、宇宙の根源そのものが真理であり、従ってそこより発生する一切万物も皆奥底に真理を包蔵するからである。

恰も、むら雲のかからばかるるままにして、おおぞら高く澄む月の如く、悪業悪因縁の迷雲にとざされて真理を悟り得ずとも、真理は万物の根底に常に光を放っておるのである。唯、凡夫は解せず、聖者のみよくこれを解し、時に応じ、人の機根を見てこれを説く。故に聖人の言葉は真理である。真理の何ものかを知らざる者も、聖人の言葉によって始めてこれを知ることが出来る。

時代により、対象となる人々の機根に応じて説くためにその表現に多少の相違はあれ、その根底を一貫する真理は同一で、達識者のみよくこれを看破し得るのである。かの禅者が看破了の大鳴も這般の消息を自得せしめんとする手段に過ぎない。

ともあれ、山上の垂訓は、四福音中の圧巻と称せられ、天国建設の構図なりとも評せられ、トルストイ翁も「聖書の真価は、山上の垂訓によって発揮されている」とまで評しておる。

抑も山上の垂訓は、イエスが一日弟子達始め、イエスをしたいて集い来れる人々を伴い、山に登り、嶺雲去来する山嶺に安坐し、音吐朗々、一場の大説教を試みたその要旨である。即ち、

「幸福なるかな、心の貧しき者。天国はその人のものなり」

「幸福なるかな、悲しむ者。その人は慰められん」

「幸福なるかな、柔和なる者。その人は地を嗣がん」

「幸福なるかな、義に飢ゑ渇く者。その人は飽くことを得ん」

「幸福なるかな、憐憫ある者。その人は憐憫を得ん」

「幸福なるかな、心の清き者。その人は神を見ん」

「幸福なるかな、平和ならしむる者。その人は神の子と称へられん」

「幸福なるかな、義のために責められたる者。天国はその人のものなり」

「我がために、人なんぢらを罵り、また責め、詐りて各様の悪しきことを言ふときは、汝ら幸福なり。喜び喜べ、天にて汝らの報は大なり。汝等より前にありし予言者等をも、斯く責めたりき」

マタイ伝第五章(三-一二節)がそれである。金玉の慈言側々として人の心をうつものがある。

2 自観師の理念と「垂訓」の包摂関係

先ず心の貧しき者といいて、驕慢を斥け、己を空うして、虚心坦懐、只管神意に従わんとの態度こそ、天国建設の必須要件なることを明かにされておる。

自観師が、われこれをなすに非ず、大慈観音わがうちにありて一切を指示し、われは唯だその御旨の儘に計り、命のままに行うのみ。との告白は、自我を捨てて己を空うし、凡てを神意に委ぬる信仰の極致を示すものにして、これこそイエスの教ゆる心の貧しき者の真の姿である。

此の境地に立って、地上天国の建設に精進する自観師の姿を眺めながら、この金言を味わう時、そこに深き因果関係の存することを思わざるを得ない。

悲しむ者とは、現世の有為転変に疲れ悲しむ者を指すのであろう。有為転変を悲しむ者は、軈て神を知り、神に救われ、そこに大なる慰安を得ることが出来る。自観師の詠歌に、

浮草の処定めぬ我心愁れと救ひませし観音

と言うがある。これこそ這般の消息を最もよく道破した名句と言うべきであろう。

今更に過ぎにし事ども言はざらむ我愚さの尤にありせば

力なく杖なく灯火有たぬ身の神の御幸に救はれし今

も自観師の作である。これ等を通して見るとき、自観師が如何に悲しみの極み、その救いに浴せるか、また、救われし結果、如何に大なる慰めを有するに至りしかを窺うことが出来る。

柔和なる者についても、自観師の著『信仰雜話』の「怒る勿れ」古の格言「なる堪忍は誰もする、ならぬ堪忍するが堪忍」及び「堪忍の袋をつねに首にかけ、破れたら縫え、破れたら縫え」の道歌をあげ、自分の修行は、忍耐と借金の苦しみであったと告白されておる。

而もイエスが柔和なる者は地を嗣がんと山上の垂訓に説かれし如く、今、師は地をついで、そこに天国を建設せしむとしておる。この一事を見るにつけても摂理の妙に胸うたるるのである。

幸福なるかな、義に飢ゑ渇く者……。自観師の『信仰雑話』中、「悪の追放」、「善を楽む」の二章は、師が如何に義を重んじ、義を求めしかを、如実に物語っておる。而して今は神の恩寵に浴し、神意を体して義を行いつつある。

自観師が憐憫の情に富み、これを実行に示せる例は多くの人の見聞せるところ、師の著述中にも数多散見することが出来る。この師が今は神の憐憫を満身にあびて、神力を発揮して益々憐憫の救いを万人に行いつつあることも周知の事実である。

幸福なるかな、心の清き者。その人は神を見ん……。自観師の見神は四三歳であったと言う。師が生来悪を厭い、善を好めることは師の著『信仰雜話』中の述懐によって明かである。悪を厭離し、善を好愛するは、心の清きが故である。

唯だ而し、単に悪を厭い、善を好む者悉く神を見ると思うは速断である。日常坐臥絶えず清き心を持し大慈悲心を有し、大慈悲行を励み、善言善行に終始する等人聖者の域に達して始めて見神も可能であろう。勿論常人と雖も絶えず善心善行に努力する時は、そこに自ら神霊との感応道交行われ、不知不識のうちに、為さざる可らざることは神意により指導され、為す可らざることは神意によって拒否され、安泰と幸福の生活を営むことの出来ることは、心霊研究家の等しく認むるところである。

幸福なるかな、平和ならしむる者。その人は神の子と称へられん。……自観師が、病、貧、争の除去を第一として、その実践にいそしむ所以のものは、世に平和を招来せんがためである。師が企図する地上天国も、平和なる神の国を地上に建設せんとするに外ならぬ。師の平和に対する熱情は、その著『信仰雑話』及び『讃歌集』の全面に躍動しておる。

苅菰の乱れたる世を打断りて美し此土にならせますらむ

石の上古事記にも未だ見ぬ地上天国生れなむとすも

大神は天地諸を澄み清め水晶世界を打樹てますらむ

冬の世ははや過ぎ去りて花笑ひ百鳥歌ふ春は来ぬめり

等の諸詠は何れも師が平和を希求する、真情の発露であろう。師が観音菩薩の恩寵につつまれ、菩薩は師を通して聖業を遂げんとなされつつありとし、全国二〇万の信徒より、菩薩の化身として崇拝されつつあることも、げに宜べなりと思われるのである。

「幸福なるかな、義のために責められたる者。天国はその人のものなり」及び「我がために、人なんぢらを罵り、また責め……」云々の二句こそは、恰もキリストが自観師のために語られた言葉とさえ感ぜられるのである。

即ち目下、自観師ほど道のために責められ、罵られつつある人はあるまい。誣告、中傷、讒謗より、騙り、ゆすりの類に至るまで、あらゆる悪奸が、あらゆる手段を弄して師を責め、その納れざるや忽ち罵言を散布し、飽くなき有様は、よその見る目も痛ましき程である。

が而も、師は平然として、人類の幸福を招来し、世界平和を祈念し、地上天国の建設に孜々として努められつつある。師ほど坦懷、山上の垂訓の趣旨を体得し、且つそれを実行せんがために苦難の道を歩める者、世界に果して幾人かある、此の事実もまた、キリストと自観師が、神によって結ばれ、神意に従い、神意を表現せんとする証左と見らるるのではなかろうか。

次でキリストは、「汝らは地の塩なり、塩もし効力を失はば、何をもてか之に塩すべき。後は用なし、外にすてられて人に踏まるるのみ。汝らは世の光なり。……灯火は家にある凡ての物を照すなり。斯のごとく汝らの光を人の前にかがやかせ。これ人の汝らが善き行為を見て、天にいます汝らの父を崇めん為なり。……」と教訓して、その弟子達を激励しておる。

自観師が数多くの弟子達を全国につかわし、塩となって病菌を殲滅し、光となって貧、争等の暗黒生活を照し、幸福なる生活に人らしめんと懸命の努力を傾倒し、着々効果をあげつつある事実と、世の人々が此の事実を見て、観音の大慈大悲に感動し、全国に宇宙大愛心の透徹漸く顕著ならんとするものある、これキリストの教訓を実際に具現するの最も偉大なるものと見るべきであろう。

3 自観師の立場と「五戒」との対照

自観師は、人間はもとより、万物みな神即ち宇宙の根本精神たる大愛心によって生ずと説き、一度神の親心にかえりみる時は、何れも一視同仁である。兄弟相せめぎ、相争う如きは、最も神の親心を苦しむるものである。

換言すれば、親心として、兄弟相睦み、相助け、共に天与の幸福にひたる程嬉しいことはないのである。これ神の念願である。神の経綸の真主旨もここに存すると、教えるのである。

これを山上の教訓に「……………………………………………しおき、先づ往きて、その兄弟と和睦し、然るのち来りて、供物をささげよ……」とある一節と対照する時、古今東西、聖者の説くところ皆一つにして、真理に二つなきことが知らるる。

尚お此の一節は五戒中の第一戒「怒る勿れ」の教訓として有名である。然るに前にも述べし如く自観師の著『信仰雜話』の中にもまた「怒る勿れ」の一章があり、両者の教訓恰も符節を合するものあるは一入吾等に感銘を覚えしむるのである。

現世界に於ては一般に行為が重要視されるのであるが、而しながら、心にもなき慈善的行為の如きは、尚お偽善行為なりとして擯斥されるのである。

然るに人一度死して、幽体と化し、幽界の居住者となるに至っては、その生活は念のみの生活であるがために、念の善悪によって下落もし、向上もするのである、即ち念の正邪のみがそれぞれの運命を左右し、そこに現界の肉体生活の如く、ごまかしの余地は微塵もあり得ない。それが向上して霊界に入り、神界に達する程、透徹浄化されたる念の世界となって、益々念力の重要性を感ずるのである、されば、過去、現在、未来の三世にまたがる教えを説く宗教家が、念即ち心に重点をおくのは当然のことと言わねばならぬ。

山上教訓中の一節「姦淫するなかれ」と云へることあるを汝等きけり。されど我は汝らに告ぐ、すべて色情を懐きて女を見るものは、既に心のうち姦淫したるなり。もし右の目なんぢを躓かせば、抉り出して棄てよ、五体の一つ亡びて、全身ゲヘナに投げ入れられぬは益なり。もし右の手なんぢを躓かせば、切りて棄てよ、五体の一つ亡びて、全身ゲヘナに往かぬは益なり……」の言葉も、心を第一義とし、肉体的行為を第二義とする宗教家として、精神第一主義を強調せんがための教訓なりと見るとき、キリストの真意に触れるのではなかろうか。

果して然らば、自観師もまた、重視すべきは精神にして、形式的行為にあらずとするものなるが故に、その精神第一主義なる点に於てはキリストと所見を同じうするのである。唯だ現在の社会は、イエスの時代と異り、人文進み常識発達せるが故に、機根に応じて説く聖者の常套手段として、キリストの如く激越、極端なる説教は、時世に適合せずとせられるものと思われる。

尚お此の聖訓の一節は五戒中の第二戒「姦淫するなかれ」の教訓とされておる。

山上の聖訓中の「……古への人に「いつはり誓ふなかれ、なんぢの誓は主に果すべし」と云へる事あるを汝ら聞けり。されど我は汝らに告ぐ、一切ちかふな、天を指して誓ふな、神の御座なればなり。地を指して誓ふな、神の足台なればなり。エルサレムを指して誓ふな、大君の都なればなり。己が頭を指して誓ふな、なんぢ頭髪一筋だに白くし、また黒くし能はねばなり。ただ然り然り、否否といへ、之に過ぐるは悪より出づるなり」の一節は、五戒中の第三戒「他と誓ふ勿れ」の教訓であるが今自観師との関連性について検討するに、そこにもまた、共通点を発見するのである。

即ち師は、私が観音菩薩に依頼したのではない、観音菩薩が自ら私を通して、その御旨を実行されるのであると言われる。また師の詠歌にも、

魂機張る生命は神のものにあり神に叛きて栄え得べきや

世を救ふ時の力は惟神神の御旨にありとこそ知れ

力無き身にしあれども蒙ぶれる観音力に世人医さむ

等があり、何れも神意に従い、神意のまにまに言動する以外に所作なきことを明かにされておる。

自力を信頼し、誓をたててその功力によって神力を得んとする如き態度は、毫もこれを認むることが出来ない。唯だ、神の指命をうけては唯々としてその命に従い、神の拒否に遇えば、諾として自己の欲する処も放棄して惜むところなき、自然法爾の生活が、即ち師の二六時中の全部である。されば師に、自分は斯くなすべしかくなす事を誓う等、一般俗人の如き、小賢しげな自我的振舞のないのは当然である。

五戒中の第四戒「悪に敵する勿れ」、第五戒「敵を愛せよ」に対しても、自観師は根本悪を認めず、神即ち普遍大愛心より発生せる人間の本質は善なりと見、人間が幽体、肉体等によって個性化さるるが故に、遂に個性の一面にのみ囚れて、自己の根本たる、普遍愛即ち神の姿、神の心を忘却し、我他、彼此の差別観念に終始する結果、他を害しても自己を利せんとする所謂罪惡が生ずると説き、時に破邪顯正の手段をとるも、これ畢竟根本愛たる神の心をさとらしめんがためにして、決して憎悪、怨嗟の念を以ってするにあらずと教えるを以って見るも、その根本観念に於てはキリストと異るところなく、ただキリストは飽までも無抵抗主義を唱うるに対し、師は、時に慈悲的破邪の手段を採用するも止むなしとする、対応方法に相違があるのみと解すべきであろう。

(自観叢書十五 昭和二十五年一月二十五日)