一 緒言

松井誠勲

二〇〇〇年の昔、パレスチナのナザレに生れしキリストは、「天国は近づけり」と叫び、今また生を日本にうけし岡田自観師は、「天国を建設す」と称え、「時已に熟せり」と説く。古今につらなり、東西相呼応せる此の二大獅子吼こそ、 果たして何を意味し、 何を示唆するであろうか。 思いをひそめて、 深き考察をめぐらす時、 そこに尽きせぬ因縁関係を発見し、驚く可き神の摂理を汲みとることが出来るのである。

牽強と評する勿れ唯物論者よ、付会と言う勿れ非神秘者よ。宇宙に森羅する万象の悉くは……、人の身体も、その心も……、物質よりなり、物質より生ずとの一大錯覚より未だ醒めやらぬ唯物論者の目には、一切を偶然なりと見、そこに因果の妙諦を悟らず。また神秘の世界に背をむけて、遂にその扉を開らかんとせざる非神秘者には、神秘世界の大経綸も、神の摂理も知るよしなければ、自己の盲目と無智を以って総てを律せんとす、洵に止むなしと雖も、またあわれむべき事と言わねばならぬ。

見よ、近代科学者は、夙に、従来唯物論者の金科玉条とせる、物質不滅の原則を、科学者自身の手によって転覆し、粉砕せるにあらずや、而も宇宙の根源は、物質にあらずして、霊と言うべきか、精と呼ぶべきか、兎に角、非物質的存在、即ち精神存在なることを肯定せるにあらずや。

然るを小科学者群は、かかる科学陣営の実状にすら盲目にして、今も過去二〇〇年に渉り、世界に暴威を逞ましうせる、物質万能主義の惰眠さめやらで、頻りに霊の存在を否定し、努めて神秘を侮貶し、肥呀の声を発して自ら快となす。

されど、南洋孤島の巌窟にかくれ、故国敗れて四年、未だ故国の敗北を知らざる一部の人々を見ては、彼等物質論者も、非神秘者も、憐憫の情を催すならん、されば、既に崩壊せる、物質不滅の巣窟より脱出し得ざる自己に対しても、また軈て、憐憫を感ずるの時が來るであろう。吾等は只管、その日の一刻も速かならんことを希うのである。

さもあらばあれ、キリストの「天国は近づけり」との叫びも、自観師の地上天国の企図も、共に神意にあらずして何んであろう。詳言すれば、時未だ熟せざるに於て、キリストは天国の近づきつつあることを予告し、時漸く熟するに至って、自観師は地上天国の建設に着手す、この因縁関係は、相隔たる三千里の空間を超越し、相去る二千年の時間を一貫せる玄妙不可思議なる神意の発現と見るべきではなかろうか。

更に、キリストも、自観師も、病を癒やし、盲を治し、跛行を立たしむる等、治癒霊力の顕著なる。また此の病気治癒によって先ず多くの信徒を集め得たる等、幾多の類似点を有するのみならず、キリストにかの有名な山上の教訓あって後世に至るまで、珠玉の金言として人口に膾炙され嗚仰さるるが如く、自観師もまた卓越せる宇宙観と人生観を発表し、人間に指針を示して、その雄渾なる思想に識者の注目を集めつつある。

奇蹟についても、キリストに幾多の奇蹟あって『聖書』を飾る如く、自観師にも多くの奇蹟あって信徒の目をそばだてしめつつある。就中キリストは奇蹟によって鬼を追い出したと伝えらるに対し、自観師には浄霊による悪霊除去があるのも注目すべき対照である。

キリストに「審判の日」の教訓あれば、自観師には原子爆弾の発明と、原子核と電子関係発見についての深甚幽玄なる教訓がある。

要之、キリストと自観師について検討するに、その類似点の余りにも多きに一驚を喫すると共に、両者の特種因縁関係を彷彿せざるを得ないのである。前にも触れし如く、世に偶然と言うことはない。唯物主義者は、あらゆる現象を見て、これを偶然なりとし、不問視する傾向あるも、苟も霊に目醒め神秘を窺う者に於ては、散る木の葉にも流れる星屑にも、一つとして偶然はないのである。況してや卓越せる大思想を有し、且つ一世を驚倒する底の宗教的大業を残す人々の間に、何の因果関係もなくそれぞれが、てんでんばらばらの出来事に過ぎずとなすが如きは、これ神秘の尊厳を冒潰し、神意を貶視するものと断ぜざるを得ない。更に況んや、キリストと自観師の如く、類似点極めて多く、その説くところ、指示するところ軌を同じうするものあるを見るに於て、到底これを単なる偶然の発生なりと見ることは出来ない。寧ろそこに深き因縁関係を凝視し、神秘の玄妙と、神意の広大無辺なるに感動せざるを得ないのである。

(自観叢書十五 昭和二十五年一月二十五日)