神秘家としての岡田自観師

一 自観師の見神前後

自観師は目下偉大なる霊能力を発揮し、病気治癒の恩沢に浴する者全国に渉り、其の数既に二〇万人に垂んとすると称せられ、更に無肥料栽培を提唱して着々その効果を挙げ、また地上天国の模型を熱海及箱根強羅に建設しつつ、軈ては此の理想を全国、全世界に実現せんと、満々たる自信の下、不断の努力を傾倒しつつある。

かかる偉大なる霊能力者も、かのマホメットが霊界の声を聴くまでは、商品を積んで砂漠を往来せる所謂キャラバン(隊商)に過ぎざる如く、霊感を得ざる以前に於ては普通一般の実業人に過ぎなかったのである。已ならず、師はもと全くの無信仰者であり、神社、仏閣を無用の長物なりと罵倒せるなど、此の点、神の声を聴き、神の姿を拝するまでは、一ユダヤ人の反キリスト徒として、盛にキリスト信者を迫害せるパウロに酷似するところがある。

古今東西霊感に導かれ、 天声を感受し、 偉大なる霊能力を発揮せる大神秘家は殆んどもとは普通人に過ぎなかった。但し釈迦のみは王家に生れ、太子として育ち僅かに異例とされておる。

思うに、偉大なる霊能は、現世の名誉や、位地や、権力や、富とは全然没交渉で、其の心情の高潔なる、慈悲心の充溢せる善行の顕著なる等、人格の高きものほど霊界の最高霊、即ち神、仏の寵児として霊能力を授与されるようである。

尤も俗に神がかりと呼ばれる者、または巫女の類、或は単なる霊媒者は、それと波長を同うする低級なる帰幽霊、若くは動物霊に憑依され、偶ま偶ま奇蹟的現象をあらわすことあるも、かかる類は神秘家と称すべきではない。世上往々かかる種類を直ちに神仏の作用なりと盲信するが故に、玉石混淆してその識別に当惑せざるを得なくなるのである。而してかかる混淆は畢竟心霊学上の智識に乏しきがためである。

前にも触れし如く、心霊学上よりせば、霊能力は現世の地位や名声と何等のかかわりもなく、反ってその浄念、有徳、善行等が霊界居住の高級霊と念波相調和して、そこに高尚なる霊能力の発揮を見るわけであるが、更に考察をめぐらせば、苟も大神秘家となって偉業をなす程の人物はその普通平凡とのみ見ゆる時既に、神が或る使命、任務を授く可く、意図されていたと思われる。

神霊学者の多数の見解によれば、人各々何等かの使命を有して生れ来ると言う。されば偉大なる神秘家は、寧ろ霊界より特種の使命を果たさすべく選定されて、現世に呱々の声をあげるに至ったと解するも、必ずしも飛躍的断定ではあるまい。

そは兎も角、無信仰なる普通人と見られた一個の岡田氏が、商売上の失敗によって信仰に入り、更に大本教に入って心霊的陶冶を経るに従い霊感頻りに起こり、次いで奇蹟的現象続出するなど、霊能力益々加わって、齢四三歳遂に見神の境地に達し、茲に一大霊覚者自観師の獅子吼と活躍が展開さるるに至った。のみならず、師は神より地上天国建設の使命を享受したというのである。

パウロや、マホメットは、神の声をきき、神の御旨に従って行動したと告白しておる。然るにソクラテスは神の拒否は自覚したが、神の命によって行動したとの自覚はないようである。釈迦は別に神意を感受したとの自覚はなかったと思われるが成道途上に於て、また成道後に於ては屡々霊界人と語り、天眼を開いて霊界の各層も観察されておる。かくの如く各々多少趣きを異にするところが窺われる。

自観師に於ては、唯だに神より地上天国建設の霊感を享受したばかりでなく、常に神意を感受しまた神意によって自己の行動を拒否さるることもあると言う。要するに、パウロ、マホメットの積極面と、ソクラテスの消極面の両面を感受し、自観師の心身は神意によって動かされ、神意によって拒否され、殆んど自我の働く余地はないようである。この境地こそ、所謂神人合一の境と言うべく、仏教に小我を捨てて大我に没入すと説くは、かかる境地を指したのである。

普通霊能者と称せらるるものは、雑念を去り、意念の統一を行い、無我的精神状態を持続して、始めて霊界との交渉を得るのであって、 常住坐臥絶えず神仙と交通し、 神意を感受し、 神意のままに生活することはひとり大神秘家に於てのみ可能で、普通霊能者の到底及ぶところではない。ここに至れば、貧富も自在であり、運命の開拓も意の欲すが儘であり、病を癒やすことも出来るのである。即ち「我これをなすにあらず、神われにありてなすなり」の境地にあるからである。

二 自観師の治癒霊能力

自観師は自己の腹中に直径二寸位の珠があると言い、それは、観世音菩薩の如意宝珠より神霊放射能によって、絶えず霊能力を伝達されておると言う。また、その腹中の珠より、霊線によって無数の光素を放射する、其の光素は光の極微粒子で強力なる殺菌力を有すると説明する。即ち人体保有の水素中に発生する毒菌-恐らく数百万倍の顕微鏡でも見えない程の極微粒子-が、殺菌力ある光素によって駆除され、病は自ら治癒されると言うのである。

ここに於てか、如意宝珠について一瞥するであろう。真言密教には、「如意宝珠法」と称え、如意宝珠を本尊として修する法があり、此の法は密教に於ける最極深秘の法で、常には此の名を秘して、如宝、如法、如玄と言い、また駄都法ともとなえておる。而して此の法を修するには、舎利を本尊とすることもある。即ち仏舎利を(五粒-三粒-一粒等)を金壺に盛って之を安じ、本尊として修法するのである。仏舎利は言うまでもなく、釈迦此の世を去りし時これを荼毘にふし(火葬)て得たもので、仏の分身なりとして非常に珍重され、我国に於てもシャム国よりおくられて安置せるものが、名古屋と東京にあり、仏徒の渇仰をあつめておる。舎利は独り釈迦のみに存するのではない。一般の人々にも存する筈であるが、高徳善行の人ほど顕著でないようで釈迦仏の舎利は、恐らく世界一のものであろうとされておる。

仏典に、「如意宝珠即ち舎利なり」とあり、また「宝珠即ち舎利の種子なり」とも説かれて舎利と如意宝珠とは一体とされる。更に「吾人本具の菩提心を如意宝珠となす」とも言い、「金剛不壊本有の自然の仏舎利なり」とも説き、「此の如意珠只是阿字門と釈す」とも説かれる。阿字は本不生と言い吾等の生るる前より自然に具足するものとされておるのである。また、 宇宙活動の徳は、是れ如意宝珠和合能生の徳なり」とも説いておる。

要之、如意宝珠は現象世界の生滅を超越し、無始無終、本然として吾等に具備しておる根本的なものを指すのである。 これが吾等の肉体に具象されたものが舎利で、 而も此の如意宝珠和合能生の徳が宇宙活動の源泉であるが故に、吾等が活動し生活するのも、また如意宝珠和合能生の徳によると言うのが真言密教の神秘的解釈である。

今この密教の解釈を、前に叙述せる、自観師の如意宝珠と、その腹中に有する珠との関係に照合して考うる時、実に奇々妙々にも、そこに分つ可らざる同一原理系体を発見するのである。

別言すれば、観世音菩薩本具の菩提心にして、能生の徳-宇宙活動の源泉-である如意宝珠から、自観師の肉体に具象されたる舎利宝珠に、 能生の霊力を賦与し、 更に師の宝珠より他にこれを分与することの可能なることは、密教の解釈を否定せざる限り当然承認されねばならぬ道理である。

かく観じ来れば、従来頗る難解とされた師と如意宝珠との関係も、それによって生ずる師の治癒的霊力も、釈然として氷解されるのである。

三 傾聴すべき自観師の霊界転換観

キリストは「天国は近づけり」と言い、天国の近づく事を予言せるも、未だ天国を建設すとは宣言されなかった。釈迦は成道後、その智覚せる真理が極めて稀有難解の法であるために、これを説くも、衆生の解しかぬるをおもんぱかって、そのまま黙して涅槃に入らんと考えたと言う。これ等は何れも、未だ時が来なかったからである。現象界に昼夜の交替がある如く、霊界にも昼夜の交替が行われる-勿論長年月の間に極めて稀れに-従来夜であった霊界が昭和六年六月一五日以来漸次昼となりつつある。昼は日の世界であり、夜は月の世界である。日の世界は神々の支配する世界であり、月の世界は仏の支配する世界である。今や神の世界となり、十分に神の威力を発揮することが出来る時代が熟しつつある。軈て正は邪を制し、善は悪に勝ち、世に病、貧、争等の不祥事は漸次あとをたち幸福のみつる平和なる地上天国が出現する。 吾はその地上天国建設の使命を授けられたのだと自観師は言う。 寔に驚異的一大宣言である。

此の一大宣言に対しては、霊能乏しき者の、完全なる解釈は到底不可能であるが、現象界について考察すれば、二百有余年世界を制圧した原子不壊、 物質万能論は近代科学によって完全に覆滅され、 宇宙の根本は物質にあらずして霊なることが判明するに至って、ここに宇宙観に一大革命が行われんとしておる。

他面また原子爆弾の製造は、世界に、有史以来未曾有の一大センセーションを惹起して、戦争を嫌悪して、平和を希求する声は、 全世界に充満し、 あらゆる角度より世界平和の道を拓かんとする計画が進められておる。更に人類の最も苦痛とする、 病気についても、 霊的治癒が世界に拡大し将に物理療法を駆逐せんとする勢いを示すに至った。此れ等の諸現象は何を意味するであろうか、霊界といい、現界と言い、畢竟楯の両面であり、不可分関係にあることは心霊研究によって明かにされておる。然らば現象界に渦巻く以上の諸現象が、霊界転換と表裏関連を有する、と見るも不当ではあるまい。此の意味より推理して霊界の一大転換を想像しながら、自観師の宣言を聴く時、吾等は示唆さるるところが少くないのである。

四 自観師の霊的芸術眼

自観師が、地上天国の模型を熱海及び箱根強羅に建設しつつあることは前にも述べたが、其の場所の撰択より設計の巨細に至るまで、 悉く神意に導かれて、 自己は只その命のままに動くに過ぎず毫も自己流の工作を施さないと言う。而も撰択されたる場所のそれぞれが、或は幽邃静寂仙境の趣きを有し、又は展望千里、山水の美を抱擁し、更に鬱蒼たる雑木と、亭々たる杉檜との配合。起伏長短の自然美等見る人をして恍惚たらしむるのである。かかる撰択が、何等自己工作を用いず、恰も偶然の如く極めて容易に行われる事は不可思議千万と言うの外なく、霊界の導き、-神意-によるものと思わざるを得ない。

其の設計、設備についても、師の頭脳に自然に浮び来るままに振舞い、毫も他人の指図によらずして、よく方位に叶い、 精緻、 巧妙玄人をして舌をまかしむると言う。

師は言う、神の御業は大芸術の極致であり、真、善、美の大調和であると。故に神意を体すれば真善美は自己の胸奥より滾々として湧き出で、 思想も、 行動も皆芸術化すると見るようである。 結局、 宗教と芸術は表裏一体にして、宗教を離れて芸術なく、芸術の極致は宗教なりとの見解に基くのである。

五 奇蹟連続の自観師

自観師が病気治癒について、奇蹟的霊能を発揮せられつつあることは、前にも述べし如く、全国二〇万に近き、被治癒者の信仰によって証明される。元来霊能治癒は、キリスト以来、内外にその例乏しからず、また今日進歩せる心霊研究者も、その可能を認めておるのであるが、その治癒能力の偉大なる点に於て、自観師は燦然光彩を放っておる。

已ならず師は、ただに自ら偉大なる治癒的能力を発揮するに止らず、多くの弟子達にもよく霊能力を発揮せしめ、彼等をして多くの難病者を治癒せしめつつある。こは実に古今東西独歩の特異的霊能力というべく、最も注目に値すべきことである。即ち師自身の筆になる文字「光」を授け、弟子達がこれを懐中して第三者の病気治癒に当る時、よく治癒能力を発揮するのである。かかる例は未だ世に匹儔を見ないであろう。

自観師はこれについて、師が観世音菩薩より享受せる霊能力が、師の腕を通し、文字を透して弟子達に伝わるものと説明する。この卓越せる霊能力こそ、奇蹟中の一大奇蹟と見るべきではないか。

その他自観師の奇蹟が、余りに多く余りに顕著なるに驚かざるを得ない。師の背後に観音の像が現われて、霊視能力者の眼に映じ、また師の写真にもその像現れ、実に師の写真には金龍の像すら現われたのである。-それ等の写真は現に師の手許に保有されておる-金龍神は観世音菩薩の守護神であると言う。

師は昭和元年以来観世音菩薩が始終師に懸られ、絶えず指導されるとの実感を有しておる、而して観世音が師を一個の機関として衆生済度の任に服さしむるものと確信を有しておる。また前にも触れし地上天国の建設も、観世音よりの霊感によるもので目下進行中の地上天国模型もその御旨に従い、御旨の儘に奉行しておるといい、土地の撰択より、設計、造設、費用に至るまで、自然に運行され、自然に具現されるという。かかる不可思議なる神秘的事実は心霊学上より見れば師の背後霊-霊界より指導する霊-の御業と見るほかはない。即ちかのジャンヌ・ダルクが、妙齢なる一婦人の身を以ってよく三軍を指揮し、味方の頽勢を挽回し強敵を撃破せる偉業も、実は霊界よりの支援による。この事実に徹するも、高級霊の加力を享受する時、常人の夢想だも能わざる大偉業を而も容易に遂行し得ることが明かである。されば今、自観師が、平然として偉業を成就しつつある事実も、高級霊の力(神仏の力)によるものと解するが最も妥当と思われるのである。

要之、自観師に於ける奇蹟は、枚挙に遑がないのである。而し既に師の自著『奇蹟物語』を始め同教団の発行による諸種の刊行物に掲載されておるのでここに之を省略するが、悟境と奇蹟は不可分であり、奇蹟が多く且つ顕著なることによって悟境の程度を知ることが出来るのである。故に以上の事実は、以って師の悟りの如何に深淵なるかを証明するに十分である。

師は、その悟りの究極については、未だ発表の時期にあらずとして黙して語らない。

何れは発表されるであろうが、発表の暁は世に一大感動を与うることは想像に難くない。刮目して待つのみである。

(日本観音教団編集部客員 須江孝雄)

(自観叢書十三 昭和二十四年十二月五日)