預言者マホメット

一 イスラム教と教祖マホメット

最早誰でも知っているように、イスラム教はその中国名を回教と言い、また別にフイフイ教とも呼ばれている唯一神観に立つ宗教であって、所謂教祖マホメットの教えであることはここに改めて新しく言うまでもないことである。

その教祖マホメットは、西暦第六世紀後葉、即ち五七〇年頃にアラビア半島の中央、紅海の沿岸都市メッカに生れたとされている。マホメットは四〇歳頃、宗教的回心によって神アラーの啓示に接し、それから新興宗教としてのイスラム教を説き始めたのである。

若しマホメットの「使命」が開始されるに至る前の約四〇年間の履歴について、明らかに荒唐無稽なものや殆んど無価値としか思われないものを取除くとしたら語って差支えないものとして残るのは驚く程少いのである。けれども、マホメットが未だ年齢一〇代の頃に頻々として勃発していた数多くの戦争に際しては、 マホメットの叔父ズバイルに武器を供給するなどして一廉の助力者として立廻ったということは議論の余地が無さそうである。

イスラム教と戦争。マホメットと闘。それ程回教と戦いとは不可分の関係にある。実にイスラム教が伝播していたのは、武器をもっての戦いの中からであり、戦いを通してであった。「右手に剣左手にコーラン(イスラム教のバイブル)」といわれる所以である。

西暦五九四年の或る頃、メッカの富裕な婦人の商品を積んだキャラバン(隊商)がボストラの町へと安全に向って行き、そしてその仕事に伴った危険に相当するだけの利潤を得て安全に再びメッカへと帰っていった。このように遠征するキャラバンの仕事に必要な資格は有能な将軍のそれと少しも異るところがない。 規律を励行させる能力、 敵を避ける力、敵に出会ったときの勇気、虚偽と真実の情報を見極める力、また他人の計画を洞察する力、等々皆必要な資格である。

だがそれだけに尽るのではない。目的の市場に安全に到着した後、キャラバンの指導者、乃至代理人が最高の利益を得るようにと托されている商品を売却しなければならないときには、別の資格が役割を果たさなければならない。即ち彼の使用人に対する誠実がそれであり、また忍耐と敏捷も不可欠のものである。

ボストラへの遠征キャラバンの指導者、アプダーラの孤児マホメットは当時二五歳の若者であったが、以上の如き必要な資格を十分備えていたし、彼の主人であるメッカの富裕な未亡人ハディージャにも覚えが目出度かった。このようにしてマホメットがメッカのキャラバンを率いて、この町からあの町へと、様々な場所へ出向いていったことは疑いないところであった。

当時メッカの指導的な人達は皆絶えずこのようなキャラバンの仕事に従事していたのである。従って前述の如き軍人のような資格や能力が多く必要とされていたわけである。もともとアラビアは工業国ではなかったから、このようにしてキャラバンは普通シリアやイエーメンにも出向いていったし、また屡々エジプト、アビシニア(エチオピア)、ペルシアなどもキャラバンにとって良き市場とされていた位である。

マホメットの聖典『コーラン』に拠れば、マホメットは陸を越え、海を渡って行くこのようなキャラバンの遠征旅行には精通していたようであった。従ってこのようなキャラバンの旅行を通じて、マホメットが各地の外国人と友好関係を開き、また文物風土に接した結果、次第に彼の知識は増加し、広汎な常識が蓄えられていったことは容易に推察できるのである。

マホメットが接触した各地の外国商人の中には衣服などを交易するユダヤ人も明らかに居った。彼等から後年の預言者マホメットは多くの寓話を引出したようでもあるし、また不思議な表現法をも沢山手に入れたようである。

ところが、このように数々の旅行から得られる知識を以って発達した常識家であったマホメットは正規の教育らしい教育は受けていなかった。読み書きの術はメッカの人達には勿論知られていたのであるが、マホメットが子供の時には教えられていなかったのである。商業国アラビアのキャラバンの都メッカでは此の読み書きの術が非常に重要であったことは言うまでもない。後年マホメット自身その重要性を強調している位である。ところがそのマホメットがそれを学びそこねてしまった原因というのは、 恐らく孤児が一般に辿らねばならない運命から来ているのであろう。

だからアラビアの美術とか詩歌についてはマホメットは全く耳目を持たなかった。 また当時の教育の型は氏族の物語り歌を暗記するというところから始ったのであるが、これとてもマホメットにはなかったと考えられる。

乍併、それでもマホメットの知識を吸収してゆく勢力的な力は全く失敗しはしなかった。というのは、伝統というものが預言者マホメットの空想を特に引きつけた詩を暗唱させていたのである。 荘厳なときとか乃至歓喜の場合に引用された物語り歌の内、 若干の詩歌はマホメットの記憶に密着し、 軈て後年の宗教的回心の形を造る素地となっていたのである。

しかし、かかる事実にも拘らずマホメットは詩歌の類を徹底的に嫌っていた。これは恐らく自分の教育の不足に或る意味で復讐していたのであろうといわれている。ところが一方迷信については可成りの程度にマホメットはそれを吸収する態度をみせていたようである。特に名前にまつわる縁起には大きな重要性を見出していた。また呪文の効力も決して疑ったことはなかった。

或る時マホメットの従者が、 日蝕はマホメットの息子イブラヒムの死に帰因させたいと言ったとき、 マホメットは、日蝕はどんなに重要な人物であろうと単なる個人の幸運、不運と関係はないと言った。けれども、マホメットは尚お特殊な「祈り」の形式を要求する重大な自然現象として日蝕を考えていたようである。

キャラバン・ボーイとしての経験はマホメットに偵察の技術を教えた。ほんの一寸した徴候や形跡で敵の所在や人数や装備を洞察できる力は、マホメットがメッカを追われ、また逆にメッカを奪い還すに至るまで山賊の首領をしていた時期に、十分の役割を果たさせてくれたのであった。

しかし、斯かる経験もさることながら、自然はマホメットに羨むべき一つの天恵を与えた。それはマホメットが人間を隅々まで悉く知っていたということである。彼の部下については勿論のこと、一般の人々について下す彼の直観的判断は間違っていたことが殆んど稀れであったのである。

最後に宗教的回心を経た中年期の預言者マホメットの外形的風貌を伝えて、イスラム教理解の一つの準備にしよう。彼は中背であり、一種青味を帯びた色をしており、真直ぐでもなく、カールもしていない髪毛で、大きな頭、大きな眼、濃睫毛、赤味を帯びた眼、濃い髭、広い肩、そして厚い手足をもっていたといわれている。また一説には、大きな口、切れ長の眼を持ち、踵の肉は薄かったとも言われている。更に他の説によると、マホメットの手は異常な程に柔軟であったとされているが、手相見の立場からいうと、「神秘的なものへの自然な傾向」を意味しているそうである。マホメットがメッカを奪還したときは黒いターバンを頭に巻いていた。

イスラム教というのは、このマホメットによって西暦第七世紀初頭から、アフリカ、スペイン、西南アジア、トルコ、中央アジア、インド、中国等に伝えられた唯一神的宗教であることは前述したところである。

イスラム教の「イスラム」という言葉は「服従」の意味を持っている。またイスラム教信徒を「ムスリム」と言うのであるが、それは、「服従せる者」即ち「神の僕」を意味している。服従とはマホメットの教えに従って神アラーに帰依し、その誡めを絶対に守る事であって、これが此の宗教の真髄をなしている。服従が信仰であり、信仰は又神意に従って生活することを意味していたのである。

神アラーというのは、全能にして世界の創造者であるのみでなく、使者または預言者を通じて人類に律法を与えて之を支配するものである。 だから、 その誡めというのは、 神アラー以外に何者をも神として拝せず、 且つマホメットをその預言者として敬うべしとの教えの外に、毎日の祈祷及び潔斎であり、施与、断食とか其の他の祭り、殊に聖地メッカへの巡礼の規程が厳守されている。

またその他に社会的、道徳的の慣習も定められており、更に神アラーの信仰を護り、それを拡めるために戦争も神聖なる義務として認められているのである。

イスラム教はその聖典『コーラン』(啓示の意)以外に本来教理というものを持っていなかった。けれども近世に入ってから、信仰問答書とか信仰規範とかいわれる「カテキズム」が成立した。また一方、既にギリシア及びキリスト教的学問に接してからは、神学的問題を論ずる所謂「ムタカリムーン」が生じてきた。それはイスラム教の伝統的信仰に論弁を加え、思弁的な解釈を施した神学のことをいうのである。

西暦六三二年六月八日、月曜日、神アラーの預言者マホメットは、約五日間続いた熱病のために死んだ。その六十有余年にわたる政治的宗教的、 闘争生活の幕は降ろされたのである。 回教信徒と直弟子アブーバクルが彼等の預言者マホメットの死顔に最後の目礼を送ったとき、その顔は恰も聖典『コーラン』の「永遠の一頁」のように見えたといわれている。

人里を遠く離れたような国アラビアに、 長い間生き残ってきた古いもろもろの信仰はマホメットの称えた新興宗教によって決定的打撃を与えられたのである。そして、「マホメットは死んだ、しかし、マホメットの神は死なぬ」のである。

二 神アラーとマホメットの入神

マホメットがアラビアに誕生した頃、 そこには大小無数の氏族が群雄割拠していた。 個々の氏族は夫々固有の神、乃至守護霊を信仰していたし人々はそれから凡ゆるものを期待していたのである。そして数箇の氏族が同盟を結んでいるような場合には、守護霊乃至神々の間の関係もまた友好的なものであった。マホメットの生誕地メッカ近辺で信ぜられていた神々の数は非常に多く、その内の或るものには老木や巨石もあった。

ところが、マホメットはこの偶像教が行われていた頃を「無智の時代」と呼んだのである。とも角、メッカの人々にはマホメット以前、何等の啓示も現われていなかったし、従って預言者もなく経典もなく、また何の指導者もなかったことは確実である。 人々が実行してきた祭礼はただ単に自分達の親達が行っていたから、 その同じことを真似ているだけにすぎなかったわけである。

アラビア半島には実に氏族の数だけ神々がいたのである。 かかる氏族の中に、 マホメットの属していたクライシュ族があった。マホメットが唯一神教的崇拝の対象と認めるに至った神アラーはこのクライシュ族の氏神であった。それは男性神であった。従ってクライシュ族の人々はこの男性神アラーの氏子だったわけである。メッカの人々はどんなものでも何か困難に逢着するようなときには、きまってこのアラーに訴えた。ところが一方安寧と平穏のときには多神崇拝に逆戻りする傾向があった。

アラーは天地創造の神と考えられ、他の神々はアラーに従属するものと考えられていたのである。しかもこれ等の神々はアラーの娘である女性神とされていた。ここに、娘を持つことを不幸の一つなりと考えていた当時のメッカ人達の抱いていた信仰に矛盾があるわけであるが、ともかく、このような背景の中に、キャラバン・ボーイの経歴を持つマホメットが預言者として出現してくるのである。

さて、凡ゆる国の国民的英雄は、多くの場合彼等が英雄的役割を演ずるには先ず明瞭な動機というものがあり、大きな転換点があり、またそれを指摘することも不可能ではない。或る危機が発生し、英雄がそれに応えるわけである。ところがマホメットの場合、そのようなはっきりした事件を指摘するのは困難である。何時か知らぬまに大きくなっていたのである。

マホメットが宗教的回心を経るに至るまでの長い期間は、 尊敬さるべきメッカ市民としての生活を送っていたし、また卓越した交易商人でもあった。またマホメットが四〇歳のときは、彼が全社会組織の再建を目的とする或る秘密結社の中心人物となっていたのを見出す。

この秘密結社の中心理念は、神アラーの唯一神観に立って、全アラビアを統一し、社会機構を全く再編成しようとするところにあったらしいことが推察されるのである。

一般に或る人が霊界からの通信を受けると言う場合は、何等かの方法でその通信の種類と方法とを不可思議な源泉に対応させなければならない。従って霊媒に課せられた問題というのは、 霊媒が自分で提供するようなことなく通信を受けるということである。

マホメットとても近代の霊媒と同様この問題を解決せねばならなかった訳である。 いずれにせよ秘密結社のヴェールに閉されていたので核心的なことは推察する外ないが、それでも、マホメットは霊感をはっきり感ずるような場合、彼は凡ゆる時代の預言者に共通のプロセスを本能的に採用したようである。

マホメットは霊感に打たれて激しい昂奮状態に陥込むのが常であった。顔面は蒼白になって、毛布にくるまり、やがて夥しく汗をかき、かくして通信を受けたのである。またときには、全く言葉になっていないアルファベットの字で不明瞭な通信が、言葉になっている通信より先に現われたりしたこともあったようである。それは奇妙にも占板の最初の動きに極似していた。マホメットがときどき癲癇性の発作を現わしていたと信じられる材料もある。これは鼾をかいたり、顔色が赤くなったりする現象を伴うのであるが、それが軈てはっきりと霊界との感応道交の普通の形式と認められるようになった。そしてその通信は全然準備なく受けることができたのである。

マホメットは食事をしているような時でも、 問われた質問に直接答える際、 その霊界からの通信を受取っているし、受取った通信を以上の如き方法で発表してからまた中断した食事を終えるなどしたといわれている。また説教壇に立っているときに、 問われた質問に答える或る啓示がやってくることもあった。 こんな風にマホメットに現われてきた啓示、霊感のために、彼は「毛布を着た男」とか「包まれている男」などと呼ばれていた。

ともかく、マホメットは斯かるプロセスに、言い換えると憑霊現象に対応する状態が、どんなものであったにせよ、それを最初から最後まで保持したようでもある。 マホメットは受取らされる霊感が場合によってどんどん量を増してゆき、しかも此の安全な方法に従う時などには、「私が全然読んだことのない経典の内容に精通させられるのは実にこの奇蹟によるのだ」と言明することができた。

また、マホメットがキャラバンの指導者として各地を遠征旅行していた頃、多くの宗教心振興を称える僧侶に出会っていたのであるが、彼等からいろいろな説教を聞き知っていた。その主なるものは世の無常なること、世界の諸現象から宇宙の創造主を洞察することの可能であること、審判の日のこと、地獄の業火のこと、偶像よりも寧ろアラーを崇拝することの必要なこと、などであった。

いずれにせよ、偶像崇拝の考え方に対立するものとしてこのマホメット教が持っているはっきりした特色は、徹頭徹尾、 来世の信仰であり、 また神の統一の信仰であった。

当時のメッカ人達はタハンヌス(一種の苦行)と呼ばれる祭りを行っていた。これは一カ月続くのであるが、この期間になるとマホメットは、メッカから約三哩ばかり離れたヒラー山にある洞窟の中に隠れるのを習慣にしていた。この禁欲的な儀式に捧げられた一カ月は、通常の偶像崇拝よりも更に一層精神的な宗教形式を渇仰するには特に適したものであった。この月のうち或る時期に、マホメットは峡谷の中へ独りで降りていった。その時、霊界からの使者としてマホメットを出発させるに至った神の顕現があったものと思われる。

コーランに記載されている神の顕現の問題は、此の時降りてきたのは神自身であり、五、六百メートルの彼方から預言者マホメットに呼びかけたのであるとされている。そして二度目に現われた時には、忘憂樹(その実を食えば至楽の夢を結んで憂世を忘れるという)の端を「悦びの庭」に見たともいわれている。マホメットがこのようにして霊界との交通を開始するに至った経緯については、この漠然とした話以上のものは知られていない。

ともかく一説によると、マホメットはこの心霊体験によって非常に驚き、且つ自分が偶像崇拝の亡者や詩人になることを非常に怖れた為め、俄かに自殺を企てたとすら言われているほどである。ときにマホメットは四〇歳であったとされている。預言者マホメットにはハディージャという妻があったが、この妻女と彼との間にはいろいろな伝説がある。先ずマホメットが自殺しようとしたときハディージャは彼を発見して、マホメットが将来国民的な預言者ナビになる確信を告げて慰めたといわれている。ところが面白いことには、マホメットの妻は「預言者」などという言葉を全然聞いたこともない位、それについては何も知ってはいなかったのだそうである。

そして又、彼女は彼女の学識ある親戚の一人で、ナウファールの息子ワラカにこの事を相談すると、彼もまたマホメットを励まして、「聖なる哉、聖なる哉、これは偉大なノモス(法)である」と言ったと伝えられている。こんなことがあってから後、彼女は夫マホメットに、偶像崇拝者であった両親が地獄へ行ったかどうか尋ねたところ、マホメットは、地獄へ行ったと答えた。けれどもマホメットは彼女の顔が苦痛にゆがめられるのをみて、若し彼女が両親の本当の性質を見ることが出来さえすれば、両親を嫌いになるであろうといって保証してやっている。次に、彼女が死んだ子供達も地獄にいるかどうか質問したとき、預言者マホメットに一つの霊感が現われて答えた「信ずるものは誰も、また信仰において子孫に継承される者は誰も、吾汝等に子孫を与えん」と。これによって子供を失った母親は、彼女の死んだ子達の永遠の幸福が彼女の信仰程度の深さを条件としていること、また彼女が信仰することによって子供達が甦るばかりでなく、子供達を「法悦の庭」に入れさせることもできる機会になるのだということを確信することができたのであった。

またマヅ・ウンの息子で禁欲的な心情の持主であったオットウマンが或る日マホメットを訪ねて一緒に坐っていた。そのとき、マホメットは俄かに空を振り仰ぎ、天の一角を凝視し、その方へ行き、還ってきてから再び空を振り仰いでいたことがあった。この行動の意味を尋ねられて、マホメットは、「神の使者が訪ねてきて、正義、親和、純潔などを説け、といった」と答えた。

かくするうちに、信者の数は次第に増加していった。それに伴い、『コーラン』の在り方も最初は、「霊媒者」のような通信であったものが変貌して、強力な説教へと発展していった。けれどもマホメットに心霊現象が現われ始めた初期の頃には、他の偶像崇拝の氏族に対する警戒等のいろいろな関係から、昔ながらの古い祭りに取って替るべき唯一神アラーの礼拝は非常な隠密裡に実行されている。マホメットが中心人物となっていたアラー信仰の秘密結社が、どの程度までその潜在勢力を自覚していたかは明かではないが、ともかくその発生初期の数年間極秘裡に活動していたところから得られた利益は大きかった。斯くの如く、 アラーの使僕としてのイスラムの秘密結社が強大になってゆくにつれて、 その秘密結社の一般規則が認められて支配力を持つに至ったのである。それに一度入信したものは、永久に入信するのであって、脱出すれば命はなかったのである。今日に至るも尚おマホメット教信者の改宗を殆んど不可能にしている規則というのは、実はこの秘密結社の性格と非常に密接な関係があるわけなのであって、マホメット教の周囲に立ちこめる一種神秘な靄がそこに源泉をもっているとも考えられるのである。

斯くして、唯一神アラーの預言者マホメットは、その心霊体験を通じ、霊界からの指導によって入神後二三年の政治的、宗教的闘争生活を経て、嘗つてはキャラバン・ボーイであったメッカの一商人の地位から世界をも一呑みにせんとさえした一大宗教帝国の王位に上っていったわけである。

(自観叢書十三 昭和二十四年十二月五日)