一二 結論

人間は五感の感覚機関のはたらきを通じて外界を認識します。つまり知覚によって外界を認識し、そしてこれと交渉するのであります。そして先ず吾等のために有利であるか、はたまた有害であるかを判断して、有利なものはこれを取り入れ、また有害なものはこれを斥けるのであります。知覚というのはこの様に自己の生存のためには是非なくてはならないものであります。それだけに最もこれを尊重しますが、洵に当然なことであります。

けれども知覚するものだけが全部であって、それ以外には何物も存在しないと思うのは大きな誤謬であります。知覚によって知ることが出来たものは、宇宙の全体ではありません。自己を中心として、物理的に交渉する部分だけであって、それは全宇宙から言えば、自己が感覚器官によって交渉することが出来るほんの小部分に止るのであります。このように自己が交渉する部分だけを抽出するのが知覚の役目でありまして、宇宙全体から知覚され、亦抽出された部分を「知覚世界」と言います。ですから、ただ吾等の生存と物理的な関係を持っていない大部分の世界は知覚世界には現われてきません。そしてその大部分の世界は知覚世界外の全然別の世界なのであります。

宇宙そのものには空間的な差別も、また時間的な制約もありません。けれども吾等は東西南北の方向をたてたり、上下左右とか前後遠近とかいった区別を定めます。知覚世界はこの様に人間によって規定され、またその規定の下で研究され、そして説明されるのが常識であります。でありますから、常識によって宇宙の本体を知ろうとするような努力は痴人の夢であります。宗教や哲学が、常識一点張りでは解決しかねるなどということは当然過ぎることと言わねばなりません。

このように人間は知覚を主とするために、一切の学問も知覚世界の研究から始まるのであります。ギリシアの古代哲学が自然哲学より出発したのが好個の例でありましょう。ギリシア時代の自然哲学者は、知覚世界を唯一の宇宙と考えておりました。その内から機械的な法則を抽出して、それによって宇宙全体を説明しようと企図しておったことは哲学史が証明しておるところであります。

ヘーゲルやベルグソンの言うように、元来人間の理智と言うものは、全体者の内から一部分を抽出して、その抽出した概念を偶像化してしまい、そして他の部分を無視して、それによって全体を説明することを求めるものであります。そしてこの理智の要求が「学者」を作り出すのであります。

中世哲学においては、キリスト教が其の権力を以って学者を圧迫し、また理智の自由を阻止したために、其れに対する反感が遂に復古運動となって現われたのであります。一七世紀にはベーコン、ホップズ、デカルト、ガリレオなどの学者が輩出しまして、経験主義、機械主義、唯物主義を強調しました。その結果として科学が成立されるに至ったわけでありました。

つまり、知覚世界を唯一の世界と決めて、機械的な法則を偶像化し、それを絶対的な法則であるとし、これによって一切の現象を説明しようとして、具体的に形式化したものが科学なのであります。科学の領域は知覚世界であります。またその仕事は知覚世界の現象間にある相互関係を研究することに限られております。ですから知覚を超越した世界のある無しとか、知覚を超越している出来事については、彼等科学者には言葉を差しはさむ権限はありません。

ところが一七世紀以後に於ける科学者達はその領分を逸脱し、踏みはずしてしまいました。そして人間の知覚する世界のみが唯一の世界なのであって、これ以外に世界はない。つまり知覚世界が宇宙の全部である。だから機械的法則が宇宙を支配する唯一の法則であって、これ以外に法則はないと主張するようになってしまったのであります。このようにして神の実在を否定しました。そしてまた霊魂の存在を認めないで、人生を唯物的に、また機械的に解釈する、所謂科学万能の人生観を世界に宣布したわけであります。

心理学ですらも、また科学万能の影響下に発達してきているために、知覚を超越している透視とか天眼通とかも、心理学者は変態的だとか、また病的な現象だとして排斥してきたのであります。

ところが、近代科学は分析に分析を重ねてきて遂に原子不壊説は誤謬であることを発見したのであります。原子の構成は、従来科学者達が原則としていた固体、液体、気体などの何れにも属しておらず、しかも精神的なるものに突き当りました。それを科学者は電子と命名しました。ともかくも、宇宙の根本が霊的実在であること、従って知覚世界の外に霊界の存在することなどを肯定しなければならなくなってきたのであります。そればかりでなく、心霊研究は長足の進歩発達を遂げて、霊界の消息すら漸次判明するようなところまできたわけであります。

イエス・キリストは神よと呼び、わが父よと叫び、また聖霊と言う言葉を度々使っております。またイエスは病気も治しており、その他の奇蹟も現わしております。イエスが霊覚者であったことに疑いをはさむ余地はありません。けれども『新約聖書』は、イエスの昇天した後少くも数十年位い経ってから誌されたものが最古のものだとキリスト教研究家は見ております。しかも前に述べたように、ユダヤ思想、ギリシア思想等が混合しており、その為めに仔細にイエスの霊覚に触れることは大変困難であります。

釈迦についてみましても、最古の経典が阿含経であると言い、また九部経であると言い、更に十二部経であるとも主張するものもあります。また阿含経についてすら、雑阿含経、中阿含経、長阿含経、増一阿含経のうちで何れが先きであったのかも諸説が一定しておりません。そればかりでなく、その何れにしたところで、釈迦が入滅してから一〇〇年後に始めて成立した経典が最古のものであるとされております。従って釈尊の内観を十分に把握することは不可能な業であります。

ただイエスについては、『聖書』によって、また釈迦については仏典によって、見る人達がそれぞれ僅かにそれを心に画いてみるより外に方途がありません。イエスにしろ、また釈迦にしろ世界屈指の霊覚者であった点については何人も異論はないと思います。今日でこそ科学者も物質万能論を放棄しなければならなくなってきましたし、また心霊研究が発達しまして霊界のことを説く者も次第に多くなってきたとは言いながら、ともかく二、三千年の昔において、霊界を探り、霊言を語り、また霊能を発揮しましたことは大変な偉観だと考えなければなりません。

この点岡田自観師においては、現存の人でもあり、また親しく謦咳に接することも出来るのでありますから、師の霊覚についても、また師の宇宙観、人生観はもとより、霊界の見方にいたるまで詳細に検討することが出来るわけであります。また奇蹟をも目のあたりにこれを見ることすら出来て極めて痛切に渇仰の念を催さしめられるものがあります。

前にも少し触れましたように、キリスト教においては、全智全能の唯一神を信じ、人間はその唯一神の造り給いしものと教えております。イエスは神の一人子であると説き、そして人間は神の禁ぜしエデンの樹の実を喰べた為めに罪悪を行う様になったものだと申しております。そして神は人間の罪の償いとして、一人子イエスを十字架にかけたのであるから、吾等人間は創造の唯一神を信じ、イエスを通して願うことによって各自の罪は赦され、そして死後天国へ行くことが出来るのであると主張するのであります。

仏教は各宗によって諸説が区々であります。けれども大別して自力門と他力門の二つに分けることが出来ると思います。自力門に属するものには天台宗、華厳宗、禅宗、真言宗等があります。浄土真宗は絶対的な他力門であります。自力門諸宗の説く所は極めて多岐且つ広汎でありまして、今これを叙述する紙数を持っておりません。

ただ他力門の真宗について簡単に述べてみますと、阿弥陀仏の誓願は衆生の済度にあるわけでありますから、それを信じて、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と唱え奉れば、死後に阿弥陀仏の来迎をうけて弥陀の浄土へと往生できるのだと説くわけであります。

岡田自観師においては、宇宙大精神である普遍愛、つまり主宰神の分霊であられる観世音菩薩を信仰し、恭敬し、また感謝して、自らまた大愛の心にかえり、善言を語り、善行、つまり慈悲の行いを励んで、地上天国の建設に参加するようにと教えるのであります。

師の地上天国建設というのは、病なく、貧なく、また争のない平和的な世界を建設するということであります。しかしながら、先ず信徒相互の間、一家一門の間に、また朋友知己の間に、さては自己の住む社会及び国家の間に、病貧争を除いて次第次第に全世界へと及ぼそうとするのでありまして、目下信徒が孜々汲々となって病貧争滅消に東奔西走しておる現状も皆そのためなのであります。

しかもそれが主宰神の経綸に参加するものなのであると信じて、神意に添うことによって現世の御利益は勿論のこと、死んで後霊界に入っても速かに高い位置に昇って、そして神の経綸の重要任務に服し、益々恩寵に浴することが出来ると説くのであります。

文学博士林屋友次郎氏は、その著、『仏教及び仏教史の研究』に於いて次のように説いております。

「出家修業法は、所定の修業に服してこの世界及び人生の真相を如実に観察し、その観察から、五蘊の皆空を照見して、現法に涅槃を証するためには、大悲行に依らなければ、それを得られないことを、自知自覚せしめんとすることに主力が置かれて居る……在家修業法は、それと反対に、布施行に依って大悲行を模倣して行く過程上に、自然に世界及び人生の如実相を把握せしめんとするものである云々……又言う、大乗経典は本来在家を対象としておるものである、……大乗仏教によって修業せんとするものは、唯だ布施さえ実践しておればよいのである。そうして居れば、布施が大悲行になって行く過程上に、自然に般若の智が得られ、かく般若の智が得られる云々……」

慈悲行が如何に重要なものであるかを喝破しております点が非常に痛快であります。慈悲行の模倣ですらも仏智を獲得出来るところの因縁となるのだとされておりますことは注目しなければならない点であります。

これを見ましても、自観師が神の大慈悲に感謝して、そして各自もまた慈悲心にかえり、善言を語り、そして慈悲行を励げめと教える所以のものが了解されるでありましょう。師が自ら率先して地上天国の建設に邁進しながら、信徒に向ってもその参加を望まれるわけは、実に慈悲行の徳を積んだときの効験について十分に知っておられるからなのであります。

(自観叢書七 昭和二十四年十月二十五日)