病気は、自然浄化作用であるといふ事は述べた通りである。故に、人間は、病気といふ、浄化作用があるから、健康を保ってゐると言っても可いのである。であるから真の病気治療とは、病気を外部へ排泄する事であって、内へ押込む事ではない。例へば、腫物が出来やうとする場合、それを散らさうとするが、それが、大変な誤りである。肉体自身の自然浄化作用が、折角、内部の汚物(膿(ノウ))を排除しやうとして、皮膚面にまで、押し出して来たのを、再び元へ、押込めやうとするのであるから、若し、その目的通りに内部へ還元したなら、其汚物は、内臓へ絡んで、内臓の病気を起す事になる。故に、飽迄も、外部へ膿を排泄し、残余の無いやうに、しなければならないのである。
膿の排泄である処の、浄化作用が起るといふ事は、それは、其人がより健康で、生活力が、旺盛であるからである。それが不純物である膿を、排除しやうとする。其現象としての病気発生であって、それに伴ふ苦痛である。故に、苦痛があればある丈け、肉体は浄化されつつある訳である。随而、其場合として余病などは、決して、起るべき筈が無いのである。然るに、実際は、医療中、よく余病が起るのであって、甚だしいのは、幾つもの余病が起るといふ事は、排泄さるるべき汚物を、押込めるからである。例えば、或一部に病気が起るとするとそれを散らさうと、氷冷法などを行ふ、それが為、其処への膿の集溜運動は、停止されるから、膿の残部は、他の方面へ、方向転換をする。それが他の部分へ余病となって表れるのである。其一例として中耳炎を氷冷するとする。熱に因って溶解された膿が、中耳に向って進行し、其処から外部へ出やうとする、それを氷冷によって、停止をさすから、膿は忽ち、方向転換をし、小脳へ向って、進行する。その結果が、脳膜炎である。手当をしなければ、中耳炎で済むべきものを、手当をして反て、脳膜炎といふ余病を併発さすのである。医学の誤謬は、実に、及ぶべからざるものがある。
故に、今日迄の凡ゆる療法は、病気を治癒しやうとする場合、薬剤や其他の方法に依って実は、血液を汚濁させうとするのである。それは、血液は汚濁すればする程、浄化作用の力が、弱まるからである。浄化作用が、弱まっただけは、病気現象が衰退するのは、理の当然である。即ち、病気が一時引込むのである。それが恰度、病気が治癒されるやうに、見えるのである。動物の血や、牛乳を飲むとか、蝮、蛇等を呑むとか、注射で、薬液を血液に注入する等は、何れも悉、血液を汚濁させるのである。それに由って、病気を引込ませるのであり、それを、軽快又は、治癒と誤認するのである。故に、一旦、治癒の形を呈するも、時日を経過するに於て、再び、自然浄化による、病気発生となるが、今度は、本来の病気以外、血液汚濁療法の、其膿化の排泄も加はるから捲土重来的に病勢は強まるのは、当然である。
斯の如く、今日迄の療法は、根本的治癒ではなく、一時的逆療法であって、其根本に気が付かなかった事は、蒙昧であったとも言える。人類を短命ならしめた真因は、茲にあるのである。今日の殆んどと言ひ度い程膿と毒血によって弱体化しつつある現状は、之に外はないのである。而も、それに気の付かない、近代の日本人が、益々、薬剤や動物性食餌を求めやうとするのは、全く戦慄そのものである。之を他の事で例へてみよう、或一国に、敵が侵入したとする。其侵入した敵を、味方の軍勢が段々、国境附近にまで、追詰めて、今一息といふ時、別の敵が、他の方面から侵入して来るのである。其新しい敵の、後背からの脅威によって、国境にまで敵を追詰めてゐた味方の軍勢は、後退するの止むを得ない事になる。そこで、国境に追詰められてゐた敵は、俄然として踵を返し、再び内部へ侵入して来る。それと同じ訳である。之を以て、真の治療としては、味方に声援を与えて、一挙に敵を国境外へ放逐して了ふ事でなければならない。
此道理を考える時、今日迄の治療方法は、如何に誤ってゐるかといふ事が、判るであらう、故に、世間よく効く薬といふのは、最もよく血液を溷濁させる力のある訳である。彼のサルバルサンが、一時的にも卓越せる効果があるといふ事は、元来が、恐るべき毒薬である砒素を原料として、作られるからである。今、自然排除によって、黴毒が発疹等の現象を呈するや、サルバルサンを注射する時は、前述の理に由って、其現象は速かに、引込むのである。サルバルサンの効果が一時的であるといふのは、此様な訳である。昔有名なる漢方医先生の著には其事が書いてある。元来病に効くのは、薬ではなくて、毒である。毒であるから効くのである。それは、毒を以て毒を制するといふ訳であると、いふのであるが、実に其通りであって、私の言ふ、毒素療法の意味である。
斯様に、今日迄の間違った治療が、段々人間の血液を汚濁させ不健康ならしめ、終には、生命をまで短縮したのである。病気が起れば、毒素療法をし、又、病気が起れば、毒素療法をしては、兎も角も一時的安易を得て来たのである。言ひ換えれば、汚物を排除しやうとすれば、それを引込める。又、排除されやうとすれば引込めるといふ手段を、執って来たものであるから時の経過に由って免る事の出来ない最後の自然大浄化に由って、殪(タオ)れるのは当然である。其時は、加重されての多量の猛毒であるから、肉体が浄化作用に堪えられないからである。吾々が、今日の人間が、膿塊毒血であるといふのも、此理を知れば、能く肯けるであらう、世間一旦、病に罹るや、治癒後相当長い間虚弱であるのは、毒素療法の為である。彼の窒扶斯の如き、薬剤を用ひずして治癒されたものは、予後、頗る健康になるのも、此毒素療法に依らないからである。
今日の人間体内に、堆積しつつある膿毒に対って、新日本医術による、不思議な光波を放射する時、完全に浄化作用が行はれるのである。そうして現在、此光波以外に血液を浄化すべき方法は、全世界に無い事を断言して憚(ハバカ)らないのである。
(明日の医術 昭和十一年五月十五日)