西洋医学の大誤謬 病気の本体

抑々病気とは何ぞや、言ふ迄なく、人体の一部又は全部に、異状現象が発生し、それに因る苦痛である。然らば、何故に、異常現象が表れたのであるか、之は、現在迄の医学では、未だ判ってゐないのである。之に就ての、私の研究を発表し、世の専門家並びに識者に問ひ度いのである。

本来凡ゆる動物は霊と体から成立ってをり、此両者の密接不離の結合によって生命力が発生するのである。此霊を支配するに、意思想念があり、意思想念を湧起するのが、心魂である。然るに、西洋医学は、全然此霊を無視し、体一方のみを本位として、微に入り、細に渉り、分析研究しつゝ、今日に到ったものである。唯物主義によって、構成された科学である以上、それは致し方の無い事であらふ。然し乍ら、病気の本体、即ち病原なるものは実は体に在らずして、霊に在るのであって、最初、病気は霊に発生し、然る後に、体に移るのである。故に、病気は霊が原因であって体は結果である。

此霊体の関係を発見し得ない限り、向後、幾百年に渉って研究すると雖も、絶対病気は治癒されない事を断言する。とは言ふものゝ科学の進歩が、現在の程度である以上、霊の実在を、器械的に測定し得られないから、止むを得ない事ではある。例えて言へば、恰度現在は、空気の発見以前の、文化と等しい訳である。然し、空気の構成原素を発見し得た科学は、霊の実在を発見し得ないと、言えない事は、勿論である。 空気の発見に因って、科学は、俄然、飛躍した如うに、科学によって、霊の実在を発見されたとしたら、真の医術が、治療が、確立されるであらうし、又、宗教と科学も一致するであらう。今日の如うな、唯心主義との闘争も、茲に、全く跡を絶つであらふ。

此霊を主としての治療の原理によって、現に今、驚くべき成績を、私は挙げつゝあるのである。吾々の、此日々の治病成績に驚いて、誰もが、一大奇蹟と曰ふのである。然し乍ら、此霊を主とした、無薬、無物理療法の原理が判れば、治るのは寧ろ当然であって、些かも、怪しむに足りないのである。之と同一の理によって、体を主とした療法に依って、若し、完全に治癒せらるゝとしたら吾々は、それこそ、実に不思議であるとさへ、思ふのである。

然し、私は、医学の誤謬を指摘してゐるのであって、科学を非難してゐるのではない。何となれば、科学の進歩によって、人類は、如何に偉大なる福祉を与えられたるかは、測り知れないので、将来益々、進歩発達させなければならない事は、勿論、望むらくは、宗教と一致する処迄に、進歩されたいのである。

然し茲に誤られ易い、一大事が伏在してゐる。それは、科学といふ魔法使は、器械を活物の如に働かせる、実際、生きた人間の代りさへして呉れる、それだからと言って、生きた人間をば、器械として取扱ふ事は出来ない。之は、最初に言った様に、器械には、霊がない、意思想念もない、然るに、人間には霊も意思想念もあるからである。

器械は、物質であるから、破損した場合、それは物質である所の、器械や油や薬で、修繕出来るのは、当り前な話である。然るに、人体の破損であると言っても可い所の、病気に対って、器械や、油や、薬で治せる道理がある筈がない。人体は、物質のみではない。血も神経も、生きた細胞も、絶えず流転し、新陳代謝して熄(ヤ)まない。実に、霊妙不可思議な、Xである。言ふ迄もなく、人体は学理によって、物質で造ったものでもない。実に、造らんとして造る能はず、造らざらんとしても造られる処の、一大神秘なる、造化的産物である。そうして、植物でも、鳥獣や魚族とも、全然異る所の、高等霊物である。

(明日の医術 昭和十一年五月十五日)