序論 人類救済の根本

人類救済といふ言葉ほど、極めて大きく広い-又、温い響を与えるものは無いであらふ、昔から、人類救済の為に尽した聖者賢哲は、無数であって、其孰れもが多少の貢献と、相当の功績を遺した事は、否めない事実である。然乍ら今、私が言はんとする事程絶大な救の事業はあるまいと思ふのである、それは何か、他でもない、人類から病苦の悩みを、除去しよふとする事である。

如何なる人が、如何なる批判を下すとしても、病気を治すといふ事程、素晴しい救は無いであらふ、宗教でも、医学でも、如何なる方法でもいい、病気を無くする事が出来れば、それは、未だ曽つて地上に顕はれた事のない絶大な功徳である。飜って今日の社会を凝視してみる時、何と悲惨なる世相ではなからうか、今仮に一人の難病者が出来たとする、大抵は入院をする、手術をする、少くとも、それに数百金は要するであらふ。それで全治すれば可いが、なかなか治らない、遂に一年二年三年にも及ぶ時、最早、数千金を費消し尽されてしまふ、其際、子女なら未だしも世帯主である場合、勤先は馘になるのは、知れ切ってゐる、又、妻子である場合、家政婦か下女を、傭はなければならない、それやこれやで長年の貯蓄や積立金も費消し尽して、猶、病気は治らないといふ例は余りにも多いのである。そうして病長びけば、生活の心配や、煩悶により、益々衰弱悪化するのは当然である-金は使ひ果し、職は失ひ、借金は出来、家賃は滞り、進退全く、爰に谷るといふ悲惨な例は随所に見受くるのである。そうして此場合、兄弟親戚知人等も連帯責任の止むを得ない場合が、往々あるのである。又-其勤先の会社、又は主家に迷惑をかける場合もあらふ、間接には、国家社会に対しての損失も蓋し、尠くはないであらふ、又万一の場合もあれば、本人のそれ迄の教育費や、修業の損失も少くはないであらふ-子女である場合-養育費の損失も、相当なものであらふ。

従而一人の難病者が出来た事に由っての個人的苦悩と社会的損失は、蓋し軽々ならぬものがある。そうして、幸にして全治されたとしても、其時は既に、金は無し職は無し、債鬼には責められ、新に職業を求めよふとするも、それは一大難関である。又相当な資産家であっても、二三人の難病者-又は、死亡者を出す事によって酷い零落をした実例も、よく見るのであって、折角、大学まで入れた子息も、女学校へ通ってゐた娘も、涙を揮って、退学の余儀なきに至る事もよくある。広荘な家から見窄らしい家に、転落した気の毒な人も、幾度となく、私は見たのである。

是等の実例は、世間到る処に、今、有過る位であって、珍らしくもないのである。故に当局も、社会政策上、是等を救はふとして、生命保険、健康保険、済生会、実費診療所等-相当な犠牲を払ってはゐるが、容易に所期の効果は挙げ得ないばかりか、或は-漸増する傾向さえ見らるるのである。

是等今日、余りにも多数に起りつつある、不幸の原因は、抑々何が故であらふ乎、それは一言で言へば、西洋医学の「治病能力」が、余りにも薄弱であるからと言へるのである、医学がドシドシ迅速に病気を治して呉れたら、それで解決して不幸に迄は到らない筈である-又、此事に就て既成宗教に於ても、そうである、最早神力や仏力がないから、病気は更に治らない「治らないから」病苦の儘諦めさせやうと努力するのみである。そうしてそれが、正しい信仰と錯覚して了ってゐるといふ実に情ない状態になってゐる-故に、医学と同じく、宗教も解決しては呉れないのである。

然るに茲に我療法による時、如何なる難症と雖も、発病後直ちに、ツマリ医師に掛らふとする時来るならば、それは容易に治癒されるのである。先づ、速きは二三回、重症でも十回以内と見れば可い、そうして、予後、殆んど再発が無い事である。従而-費用も時日も、実に僅少であるから、不幸者が出来やう筈が無いのである、之程の「大医病力」が創成されたるに係はらず、今日迄-余りにも治らない西洋医学の現実性が、頭に染著いてゐる現代人は、容易に信ずる事が出来得ない、夫等の人達へ対して本療法を受ける気にならせることは、療病よりも困難であるとさへ思ふ事が-よくある、併し、新しい運動には例外なく有るべき、困難事ではある事も、吾々は覚悟してゐる。とは言ふものの難病苦が全癒されたばかりか、永久-不幸の発生が無いといふ-確信を得た処の体験者が、日に激増しつゝ、夫等の人々が自分と同じである。多数の不幸者を熱心に導く其事は貴い事で-何よりも喜ばしく思ふのである。

次に最近、社会局の調査によれば、都会の小学児童の四割迄は、結核性虚弱児童であるといふ、実に寒心すべき報告であって、国家の前途に対し実に由々しき大問題である、然るに、之等も、本療法を行えば、一ケ月以内の時日に依て、生れ更った様な健全児童に変って了ふ事は常に実験してゐる処である。

故に若し、此の驚くべき治病の事実が、一般に知れ弥った時、如何に大いなるセンセーションを起すであらふ-それと共に、如何に多くの病者が殺到する事であらふ、随而、其時に応ずる為の治療士も養成しつつあるのである、無論、此療法が、世界的に迄発展する事は、火を睹るよりも瞭らかであるが「其時代」我「療病術の偉力」を知った-彼等白人が、如何に随喜し拝跪するであらふ事は、今から、想像に難くないのである。

(明日の医術 昭和十一年五月十五日)