五月三日
“仲人を致します場合、結婚する二人に対し責任を持てない事がありますが、かゝる際にはどの様に致すべきでせうか。
“常識的にやればいゝですよ。十分に責任を持てない様だったらよせばいゝし、責任を持てそうだったらやればいゝでせう。
“昔から、仲人をする様にならねばいけないと申しますが、私自身どうも仲人がつとまらぬものですから、身が至らぬ為かと存じますが――
“そんな事ないですね。身が至ってゝも仲人をやらない人はありますよ。――私はしませんね。何故って、この青年とこの娘なら大丈夫だっていふ様な人がないんでね。(笑声)だから殆どやってないんです。頼まれたんで二、三度はやりましたがね。それも頼まれたからやったので、こっちから積極的にやったんぢゃないんです。それが良心的ぢゃないんですかね。私の役目はね仲人やる役目ぢゃない、もっと一遍に多くの人を仕合せにするのが役目なんですからね、仲人をやらなくたって何とも思ひませんよ。だから、あんたも責任を持てない様だったら手を出さない事にして、それよりも信仰によって一人でも多く救ふ様にするんです。その方が大きいですよ。仲人なんて事をやっても知れたもんです。そんな事は信仰のない、世間の人にやらせとけばいゝんですよ。
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“色盲や夜盲症は御浄霊によりましても相当永くかゝる様に存じますが、どの様に致しますれば早く御救ひを頂けませうか。
“之はいろいろあるんです。之も前世の曇りが残ってるんですが、それが軽いのと重いのとあるんですよ。つまり、少ししか残ってないのと、沢山残ってるのとあるんです。治る時日ははっきり言へませんね。先づやってみて、それから判断するんですね。いくらかづつは必ずよくなるからして一週間もやってみれば見当がつきますよ。
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“老人になるに従って耳が遠くなるのは矢張り毒素の為でせうか。
“毒素の固結ですよ。毒素は何時も言ふ様に使ふ所に寄るんです。耳を余計に使ふ人、声を発する人なんかはどうしても耳に毒素が固まるんですよ。ベートーヴェンが聾になったっていふのはそういふ訳なんですね。丁度そういふ職業の人がそういふ所が悪くなるっていふのは皮肉の様ですが、仕方ないですね。
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“二十八才の娘、十年程前に中耳炎と眼を患ひ、その頃より両耳共全然聞えなくなりましたが、鼓膜さへ異状なければ聞える様になりませうか。
“治りますね。中耳炎の時に中耳に膿が固まったんですよ。耳が聞えるっていふのは鼓膜からの振動が中にある水に響いて、それが聴神経に感じるんで聞えるんですが、その水の所に膿が固まってるんですからね。浄霊すればそれが溶けますから、それで聞える様になるんです。
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“三才の女児、マッチの先の硫黄を喰べたがり一日に大箱一個位も喰べてしまいます。少し位のマッチでは泣き出して喰べません。之は何故でせうか。
“こういふのはいろいろあるんです。線香の好きな子供もあるし、壁土の好きなのもありますしね。やはり動物霊ですよ。マッチの硫黄なんか喰べたがるっていふのは、鼠か何かそういったもんでせう。浄霊すればだんだんに治りますよ。
“よく蛔虫がわくと壁土を喰べたりすると申しますが――
“そんな事はありませんよ、他の原因ですね。今は大抵の人に虫がゐるんです。十人の中九人まではゐるでせう。そうすると世の中の人はみんな壁土を喰べなくちゃならない。(笑声)
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“当年廿一才の女性、十二才の時盲腸炎の手術をしましたが、結果悪く、三年間に四回手術をなしその後時々に痛みます。「結婚して妊娠すれば御産の際大変だ」と医師は申しますが、結婚しても影響ないものでせうか。
“唯、盲腸の手術だけとすれば影響はありませんよ。たびたび手術したって言ふのは、手術した口が塞がらない為に、膿が口から出るんで、何回もやったんでせうからね。そこがすっかり治ってしまへば差支へありません。妊娠は子宮が膨脹するんだし、盲腸の手術は虫様突起をとるんですから何も関係はない訳です。たゞ然し、手術した傷が固まらない、なまの間は、妊娠すると口が開きますからいけません。口がしっかり塞がって、くっつく位になって二、三年も経てば差支へありませんよ。これは十二才の時手術して今廿一才だから大丈夫ですよ。
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“「前頭部の奥と臍とで天地になってゐる」との御言葉でしたが、之は前頭部の奥にある本霊と腹部に宿る副霊とで天地になってゐるといふ意味でせうか、それとも別の意味からでせうか。
“之は副霊許りぢゃないんですよ。やはり本霊があるんです。本霊が二つになってゐるんです。何でもそうで、一方ばかりっていふ事はないんです。天に日月がある如く、片方があれば必ず反対の片方があるんです。この調和によって一つの活動が続けられるんです。だからすべてに陰陽があるんですよ。そういふ訳だから腹にも本霊があるんで、之が一つの活動の元になってるんです。で、こゝの前頭部の奥が理性、智慧で、記憶や考へる事をするんですよ。だから考へる時には額に手をやるでせう。それで煙草を吸って、煙草の煙が口から鼻へ抜けると、前頭部の中を刺戟して活動を促進するからいゝんですよ。つまり神道の方でいふと、こゝは奇魂(クシミタマ)ですね。それに対して腹は荒魂(アラミタマ)ですよ。勇気、胆力ですね。よく「あの人は腹が出来てる」とか言ふでせう。つまり前頭部の奥で考へて、腹で実行する訳なんです。それから後頭部は感情なんです。喜怒哀楽ですね。この三つが綜合して人間の考へになり活動に表れるんです。そして、それが一致する場合と摩擦する場合と両方が始終あるんです。感情ではやらうとする、所が理性は止める、それをすると怒られるとか、罪になるとか何とかだからっていふ訳でね、然しどうしても感情ではやりたい、とこんな風に始終闘ってゐるんです。そして、それを実際に行動に表すのは腹なんです。腹が命令する様なもんですね。そういった具合に天地になる訳です。だから副霊と天地になるといふのとは違ふ訳ですね。
“霊界に行くと 正副守護神はやがて離れるとの御言葉でございますが、そう致しますと、「霊界で楽しんでゐる」とか「再生する」とか言ふ場合の霊とは本守護神そのものを指すのでせうか。或は本守護神が守護する霊体なるものが別にあるのでせうか。
“「霊界で楽しんでゐる」っていふ場合は本守護神ですがね。一度人間に生れたものは副守護神や正守護神の感情が残ってゐるんです。だから、全然本守護神ばかりとも言へない訳です。今話してゐるのは天国の場合ですが、本守護神はいゝ事をするのが楽しいんで、人間界に対していろいろいゝ事を働くんです。いはゞ神様になって天国に行く訳で、神様であり、或は本当の仏様だと言へるんです。地獄にゐる場合は、副守護神が離れないでくっついてゐるんです。副守護神は地獄を好むんですが、然し副守護神でも改心すれば天国にも行けるんです。狐でも龍神でも天国に行くのがあるんですよ。正守護神は、その人が天国に行く場合でも、地獄に行く場合でも、人間が死ねば大体離れます。そして人間界で人間を守護した功によって霊界で一段も二段も格が上る訳です。然し正守護神の中でも働きがあるのと、極く怠けてるのとありますからね、いろいろですよ。
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“生後一年二ケ月の子供、三月二十一日より浄化し始めて劇しい下痢、嘔吐を伴ひ、その吐物はひどい臭味がありましたが、二、三日して幾分よくなり、以後眠り続け、時に目を覚まして泣く以外には別に変った症状はありません。食慾は余りなく一日に粥半分位です。何処を主として御浄霊したら宜しいでせうか。
“之は毒らしいですね。浄霊は第一は背中、腎臓部、それから胃と腹です。それで、衰弱はどの程度なんです?
“さっぱりはしませんが、顔色は宜しうございます。
“ぢゃ、大丈夫ですよ。赤坊は随分衰弱してゐても治るもんです。声も出なくなって、やせて骸骨みたいになったのでも治りますからね。
“とても大きい声で泣きます。
“えゝ、大丈夫ですよ。
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“只今御寺の一室を借り教導所と致して居りますが、此の度そこを出ねばなりませんので親類の家の土蔵を借りて御浄霊致したいと存じますが、その土蔵の二階は現在物置きで天井はありません。階下には床の間がありますが、そこに大光明如来様を御祀りしても宜しいでせうか。
“絶対いけませんよ。人間のゐる所より以下になりますから大変な御無礼ですよ。こういふ所は御祀りしない方がいゝんです。だからこゝに御神体をおかけするんなら、物置きではどうも具合が悪いから……
“農家等ではそんな家が多うございますが、階下が張り出してゐる場合は宜しいでせうか?
“張り出てゝも、二階の直ぐ近くぢやいけません。相当離れてればいゝですが、―― この人は物置きに床の間を作り、天井をつけて直せばいゝ。それだけの金がなければ一生懸命に御願ひして、一心にやってれば金がちゃんと入りますよ。
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“農村では所によって「胡瓜」や「玉蜀黍」を作ってはいけないといふ所がありますが、之は如何でせうか。
“之はよくあるんです。その村全体が胡瓜を作らないなんて言ふ所もありますよ。之はね、昔、誰かゞ胡瓜や玉蜀黍って言った様な特別な野菜が原因で死ぬ様な事になったんで、その怨みだとか執着だとかゞ強く残ってゐて、自分に因縁のある人が胡瓜や玉蜀黍を喰べると癪にさわっていろいろな事をやるんです。そして二、三人やられると、みんな恐怖を抱いてしまって、胡瓜は喰べちゃいけないっていふ事になり、それが伝統になってるんです。然しそれは、その当時だけのもので、決して何時までも障るものぢゃないんです。とに角、今は作った方がいゝですよ。皆、何でも神様が人間に美味しく喰べさせるために作られたんですから。それを人間の方で忌避して喰べないって言ふのは、やっぱり悪い事ですよ。何でも大いに作ったがいゝんです。
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“光明世界に於ける時所位は世襲的に一定不変のものでせうか、或は、その人の曇り如何によって変化するものでせうか。
“之は世襲的でもあり、世襲的でもないんです。やっぱり働きにより、その働き相当の位を得るんです。そうかって、大体は世襲で行くんです。つまり世襲であって、然も変化があるんです。それが本当なんですよ。「五六七の世」は本当の世の中ですからそうなるんです。どっちかに決めるっていふのはいけないんです。経と緯の十文字ですからね。世襲は経で自由は緯です。だから、差別があって自由があるっていふ、それが本当なんです。
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“人間苦を描いた音楽、文芸等の芸術はすべて光明世界になるに従って自然消滅して行くのでせうか。
“或程度消滅するんです。消滅する方が多いですね。この、音楽にしろ、文芸にしろ、芸術といふものはすべて、人間の情操を養ひ想念を向上させるのが目的なんです。所が、今の芸術には人間を堕落させるものが沢山あります。殊に文学なんかにはそれが随分ありますよ。悪魔文学なんですね。悪魔が文学を利用して人間の想念を悪くするんです。人間苦を描いたものっていふと、ベートーヴェンの音楽なんか代表的なものですが、こっちが苦しんでゐる人だと非常に興味を持つんですが、こっちが仕合せで楽天的だと興味がちっとも湧かないんです。そこで、音楽でもそうですが、すべてそれによって一人でも多くの人の思想を向上させるのが一番高級な芸術で、それが神の芸術なんです。五六七の世にはそういふものが多くなるんですよ。
絵でも、大勢の人が見て楽しめるのが本当なんです。所が今の絵は個性を表し過ぎてゝ普通の人には判りませんよ。フランスの大家と言はれるピカソ、ルオー、マチスなんかの絵は全然他の人には判らないものです。此の間、ルオーの絵を或人が持って来ましたが、五寸四方位のものでしたが、一寸も判らないんです。二十八万円で買って貰ひたいって言ってましたが、私は二万八千円でもあんなのは嫌ですね。あれなんか芸術が邪道に入ってるんですよ。つまり、自分だけ幾らよくったって、他の人が楽しめなかったら無用なんです。それによって人間の本性を向上させるものぢゃなくちゃ本当のもんぢゃないんですよ。そして音楽でも芸術でも、作者の魂が作品を通じて耳に入り、眼に映りして人間の魂に通ふんですから、作者の魂が低ければどうしたって立派な芸術は生れませんよ。芸術を通じて人を感動させるんだから、芸術家は特に品性が高くなくちゃいけないんです。それよりも一段と高いのは宗教家ですね。心と心が触れ合ってその人の心が先方に通じるんですからね。だからこっちに邪念があったりすれば、いくら宣伝したって人をよくする力は全然ありませんよ。
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“五十才の男子、三年前から歩行の際道路が波の様に揺れると申し、夜道を歩く時はそれが特にひどく、道がぐらぐら動き、ヨロヨロして坐り込んでしまいます。坐ってるとそういふ事はないのですが、絶えず耳鳴りが致します。既往症は肋膜ですが之は如何致したものでせうか。
“よくこういふのはありますよ。之は右の延髄に固りがあるんです。だからそこを浄霊すればいゝんです。それから心臓に故障があるんですね。それで頭の血がむらになるんです。頭の血が少くなって貧血したりしてこんな風になるんです。心臓の前後と右の延髄を浄霊すればだんだんに治りますよ。
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“「光」新聞を教導所の外に掲示して一般の人々に宣伝の為に見せても宜しいでせうか。
“之は結構ですね、大いにやったがいゝですよ。
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“御浄霊する時、掌を静止してゐるのと、振動させてゐるのとでは、霊光の強さに差異を生じるものでせうか。
“霊光の差異よりか、こうして振ると目標に当り易く、悪い所に集中し易いんです。効めは変りませんが、然し、じっとしてると余程熟練しないと目標に当り難いんです。又、振るのでもこんな風に大きくやるのはいけませんね。細かくやるんです。細かくやらないと狙ふ事が出来ませんよ。そして出来るだけ奥に通る様に自分の心で思ふんですね。こっちを(掌の拇指の側)をやるんだったら、こっち側(小指の側)を狙ふんですね。奥に通るのと通らないのとでは大変な違ひですからね。
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五月十三日
“人が死ぬと「寿命だった」とか、或は「医者にかゝって寿命が延びた」とか申しますが、寿命といふことは決ってゐるのでせうか。
“之は大いに違ひますね。自殺や他殺や病気等で死ぬのは寿命ぢゃありませんよ。寿命が尽きて死ぬのはそんな苦しみがないんです。今の人は、神様から頂いてる寿命を無理に縮めてゐるんです。つまり不自然死ですね。自然死は九十以上で、九十以下は皆不自然死ですよ。自殺、他殺、病死、それから医者にかかって死ぬのなんて……ま、これは大きな声では言へませんから、あとは察して貰へばいゝ。(笑声)――本当の事をいふのは実に難しい事でね、嘘をいふ方がずっと易しいんです。だから、私は「嘘を言ふと本当にし、本当を言ふと嘘にする」ってよく言ふんですよ。
“そう致しますと、楽に死ぬ場合は寿命と考へて宜しいでせうか?
“えゝ寿命です。然し楽に死ぬんでも、九十以下で死ぬのは寿命ぢゃありませんよ。人間は間違った事をして来たから、まあ、九十で仕方ないんですが、本当はどうしたって百二十は生きられるものなんです。だから人生を四季に分けるといゝんで、三十、三十づつね。人生三十までが春ですよ、それから六十までが夏で、九十までが秋、百二十までが冬なんです。だから私は九十を越してから隠居するって言ふんです。冬だから冬眠ですかね。(笑声)で、九十までは大いに働き続ける積りです。又事実人間はそうなってゐるんです。
“歴史には二百位まで永生きしてゐる記録がありますが、あれは何故でせうか。
“毒が少ないからですよ。然し二百と言っても今はないですよ、昔の事ですよ。之は嘘か本当か知らないけど、仙人の一番永生きしたレコードは八百才ですよ。その次が六百幾つでしたかね、仙人で二百才なんて言へば早死ですよ。仙人は朝鮮が本場で、日本に沢山居たのは皆朝鮮の仙人の弟子なんです。朝鮮には今でも居るそうですがね。何を喰ふかって言ふと、蕎麦粉と松葉を練り合はせた団子を食ってゐるんです。そして仙人の修業の時には、最初にその団子を一日に三つ食ひ、次に二つにし、一つにして最後には水ばかりにするんです。大抵の人はこゝで参ってしまふそうですがね。その水だけの所を卒業した人が大仙人になる訳ですが、とに角そういふ食物で永生きするんですよ。私もだから九十以上になったら絶対粗食にする積りです。絶対粗食にすると栄養器官が非常な活動をするんで、ずっと若返るんですよ。だから年をとる程所謂「栄養」を食はない様にするのがいゝんです。栄養不足だから弱いって言ひますが飛んでもない間違ひですよ。みんな、栄養過剰だから弱いんです。今は田舎のお百姓も蛋白が足りないからどうの、ビタミンが足りないからこうのといってますが、あれはあべこべで、つまりお百姓はあんなに粗食をするからあれだけ労働が出来るんです。肉みたいなものを喰べてたらあんなに続きはしませんよ。登山家でも本当の登山家は一週間前から絶対菜食にするんです。外国の登山家でもそうなんですよ。肉や魚を喰べて山に登ると息が続かないんです。菜食が一番人間の栄養なんです。ですから私は今美食してますがね、栄養不足になりゃあしないかと心配してるんです。(笑声)みんな魚や鳥がいゝんだと思って、そういった料理ばかり作るもんだから、「こんな栄養不足のものばかりぢゃいけない、もっと栄養のある野菜をつける様に」って始終喧ましく言ってるんです。栄養の事に就て今度本に書きますが、今迄の考へとはまるで違ふんです。やれビタミンだ何だって言ってそういふものを摂ると、体が弱って仕様がないですよ。完成したものを食ふと必ず体が弱るんです。完成してれば栄養器官が働く必要ありませんからね。所が、そういった器官が活動するのが、人間の生きて行く力になるんですから、それが働かずに済めば器官も弱るし体も弱るんです。実に、何て言ったらいゝか、まあ馬鹿ですよ。(笑声)これだけでも知らして眼を覚まさなくちゃ、どうにもならないんです。
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“夫婦の一方が死亡した場合、その兄弟と再婚する人がありますが、之は差支へないでせうか。
“差支へありませんがね。唯、一面的に言へないんです。死んだ夫が細君に、或は死んだ妻が夫に強い執着を持ってると、霊界でヤキモチをやいていろんな事をやりますからね。つまり亡くなった人の性格によるんですよ。あっさりした人だったら一寸も構はないし、中には自分の兄弟と結婚する事を希望する人もある位なんです。然し、生前にとても妻を愛して執着がある様な人だったら考へなけりゃあいけません。まあ、一番いゝのは三年位経ってからするんですね。普通でも一年以上経ってなければ結婚してはいけませんよ。
“幼少の時から育てた養子と、後になって出来た実子との結婚は宜しいものでせうか。
“之は他人同志だから差支へありませんが。
“戸籍上は兄弟になってる訳でございますが――
“戸籍上兄弟でも差支へありませんよ。たゞ法律上どうなってますかね。法律上差支へなければ結婚しても差支へありません。
“法律では出来ない様でございます。
“出来ないですね、三親等以上でないと。だからこんなのは一旦他処へ養子にやって、それから貰へばいゝ。
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“戦地等で行方不明の人の生死を、その遺族が霊媒等でみて貰ふ事は如何でせうか。
“見て貰ふ事は差支へないけど、信頼する事はよしあしですね。当るのもあるし当らぬのもありますからね。八卦と同じ様なもんですよ。
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“船に酔ふのはやはり毒の為でせうか。
“毒素の為ですよ、横隔膜の下に固まりがあるんです。浄霊すれば直き治りますよ。
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“「ニンニク」を喰べても矢張り薬毒は残りませうか。
“薬毒はないが、かういった臭いものを沢山食ふのはいけません。人間は味のない物を一番余計に食ふべきものなんです。その次には味の薄いものを食ふんです。だから、米の飯と水、之は味がないから一番余計に摂って、次に味噌汁だとか煮物だとかは味が薄いからこれをその次に食ふんです。之に対して味の濃いもの、辛いもの、例へば唐辛子(トウガラシ)だとか、わさびだとかですね、梅干の様に酸っぱいもの、それから臭いものは少しならいいけど、沢山食ふのはいけないんです。勿論、朝鮮人の様に子供の時から始終食って馴れてるのは差支へないんですよ。けれどね、日本人が急に「ニンニク」を食ひ出すのはいけません。よく「ニンニクは薬になる」って言って喰べますがね、そんな事はありませんよ。普通ニンニクは神様には御上げしませんが、それは臭いからですよ。若し上げるんならほんの少しでいゝんです。唐辛子やわさびも同じですよ、然し、少し位なら喰べたっていゝんですよ。やっぱり、刺身にはわさびがないとまづいですからね。
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“日本文化の特色として「物のあはれ」や「さび」等が挙げられますが。
一、文化にも霊統といふ事があるものでせうか。
二、若しあるものでしたら、「物のあはれ」、「さび」等は大和民族のものでせうか。
“当然こういふ疑問が湧いていゝ筈ですね。之は大いにあるんですよ。日本人は火の系統で、陰陽に分けると陽になるんです。従って陽だから陰を好むんです。芝居でも何でも悲劇を好むんで、総じて泣く芝居が好きでせう。所が、アメリカ人は嫌ひですね。笑ふ方が好きで、喜劇が普通なんです。これはね、西洋人は陰の人種で、系統が水ですから、どうしても陽――華かさを好むんです。だから西洋には「さび」なんてものは発達しないで、すべて絢爛(ケンラン)たるもんですよ。絢爛ならまだいゝけど、支那なんかのは同じ華やかでも毒々しいですね。これは、支那人が東洋の中の陰だからあゝなるんです。これから世界が縦と横の十文字になりますから、日本人が絢爛たるものをもっと好む様になり、アメリカ人は「さび」だとか「わび」だとかを好む様になって、世界が平均して来るんです。今まではそれが著しく差があり、特色があった訳ですね。そういふ訳で、「さび」や「物のあはれ」は大和民族の特色なんです。
“「さび」等は茶の湯から来たものと言はれて居り、又茶の湯が仏教の禅宗から起ったと伝へられて居りますが、そう致しますと「さび」や「わび」は仏教の系統とは考へられないものでございませうか?
“さうも言へないですね。それから又、仏教にもいろいろあって、禅宗は黒い衣に白い下着ですべてが簡単ですが、本願寺の方は金ピカで道具も赤く塗ったりして陽気ですね。その禅宗が「さび」を持ってゐるんで、それから茶の湯が出たんです。茶の湯は千利休に始まったって言はれてますが、その前からもあったんです。桃山時代、秀吉が豪華な事を好んで実に絢爛たる桃山美術を作ったんです。今でも、京都には到る処にその名残りがありますが、所が毎日油っこいものを喰べてると、今度はおこうこで茶漬けが喰べたくなる様なもんで、秀吉が豪華を極めると、今度はそれに倦きて来て「さび」の趣味が起って来て、それを利休にやらせて人々に奨励させたんです。利休って人はなかなか立派な人でしたからね。
“「物のあはれ」は平安時代、藤原時代にその極点に達した様に存じますが、そう致しますと「物のあはれ」は藤原氏の霊統のものとは言はれないのでせうか?
“これもそうは言へないですね。――なんですね、和歌にもいゝのがありますね。私はあの西行の歌が一番好きですがね、あの、
心なき身にもあはれは知られけり
鴫立沢(シギタツサワ)の秋の夕ぐれ
って言ふのね、実によく「わび」を出してますよ。鴫立沢って言ふのは大磯にあるんですが、全くこの歌は秋の何とも言へない感じがよく出てますね。私はこれが一番好きですね。それから俳句なんかにもありますよ、あの闌更(ランコウ)ね、この人の一番有名な句は
枯れ蘆(アシ)の日に日に折れて流れけり
って言ふんですが、秋の深まって行く感じが実によく出てますね。
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“御道に入信した人の先祖をキリスト教で葬ってある場合、その仏の御位牌は如何致すべきでせうか。
“いや別に御祀りしなくてもいゝですよ。キリスト教を信仰してたんなら、本人は死んでからキリスト教の団体に行きますからね。やっぱり霊界にもキリスト教の団体が出来てるんで、仏教式に祀られると却って有難迷惑ですよ。
“身寄りの者がこの御道に非常に熱心になっても、それで宜しいのでせうか?
“そうです。そりゃあ、ずっと将来はどうか判りませんよ、ただ、今はそれでいゝんです。
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“生れた許りの赤坊を一日に何回も御浄霊して宜しいでせうか。
“えゝ、一回でも二回でも、三回でもいゝですよ。浄霊をやりすぎるって事はありませんからね。やればやる程治りが早いですよ。
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“俗に言ふ「白ッ子」は何の為でせうか。
“白ッ子って言ふのは白蛇の生れ変りですよ。浄霊で少しはよくなりますが、完全に治るって事は出来ませんね。
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“キリストも釈迦もメシヤも観音も人の姿の神にぞありける
との御歌を拝しますが、神様が人間の御姿に御生れになる場合、神様はその御方の本守護神になられるのでせうか。それともその御方に御懸りになって宿られるのでせうか。
“之は本守護神になってるんですよ。だから「生き神」ですね。そう思へばいゝ。神様が懸る場合もありますが、こういふのは永続性がなくて、必要な事が済むと御帰りになってしまふんです。だから本当に神様が御生れになったのとは訳が違ふんです。
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“先日の御言葉に、「私にも死霊が憑った」と伺ひましたが、普通の死霊には眩しくて御近寄り出来ないのではないでせうか。
“そうですよ、普通は憑れないんです。特別の場合でなければこんな事はありませんよ。私に憑ったのは――あ、今日来てますね、○○さん、あんたの所の○○子さんですよ。あの人は八王子に居たんですが、頻りに私に治して貰ひたいと思ひながら死んだんです。私はあの時箱根に居ましたがね。私に一月半憑ってゐましたよ。何故だって訊くと、御婆さんに追ひかけられてるって言ふんです。その婆さんどこにゐるって訊くと、表の門の所に居るんだそうです。それで、暫く私の所へ置いといて貰ひたいって言ふもんだから、あゝいゝともって言って置いた訳なんです。あの時は私、起きてると何でもないんですが、寝るとひどく動悸がしてました。之は生前に交渉もあったし、又どうしても私に浄霊して貰ひたいし、私もしてやりたかったんですが、箱根と八王子で行く事も出来ないし、他に事情もあってしてやれなかったんです。そういふのは可哀想だから、神様が特に許されるんですよ。
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“流星は夏多い様ですが、之は何か意味がありませうか。
“そうでもないですね。夏は表へ出て空を見る機会が多いから流星も多い様に思へるんでせう。(笑声)
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“光明如来様と御屏風観音様を家に御祀りしてあって旅行等で長く家を空ける場合、家族が信仰して居りませんと礼拝はおろか掃除も致しませんが、こんな時には御軸を御巻きして、しまっておいた方が宜しいでせうか。又仏壇の位牌を旅行先に持って行って拝んでも宜しいでせうか。
“そんな事をしなくてもいゝですよ、掛けたまゝでいゝんです。留守の者に信仰がなくてやらないんだから、之は已むを得ませんよ。この人が旅行先で祝詞なり御讃歌なりあげればそれでいゝですよ。又位牌を持って行くなんてのもいけません。そのまゝにしておいて家の方へ向って遠くから――之が遙拝ですね、遙拝をすればいゝんです。向ふは霊ですから、どんなに遠くともやって来ますよ。
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“正しい恋愛か憑依霊の為の恋愛かはいかなる点で見分ければ宜しいでせうか。
“成程ね。(笑声)恋愛でもね、妻とか夫とか、もう決った人があるのに他に心を移すのは正しくない恋愛ですよ。そんな事なしに、独身者であって恋愛するんなら正しいですよ。あの娘を俺は愛してる、どうしても夫婦になるんだ、っていふのなら正しい恋愛です。ちゃんと夫婦になるんなら正しいけど、そうぢゃなくて、夫婦になるのは嫌だけど、あいつ一寸捨て難いから(笑声)っていふのでやるのはいけない。恋愛の終極の目的は結婚ですからね、だから結婚を目的の恋愛なら大いに――大いにっていふのは何だけど、(爆笑)していゝですよ。
“結婚の年齢は女子の方が上でも差支へありませんでせうか。
“本当は男が上がいゝんですがね。然し、まあ両方共愛し合へば、已むを得ないですね。(笑声)
“恋愛の途中、何かと相手に嫌気がさして離れたりします場合、(爆笑)相手から怨まれる事も多いと存じますが。(笑声)
“まあ、仕方がないでせうね。(爆笑)熱が冷めてから、又取り戻さうと思ったって無理ですよ。
“その場合、怨まれるのは構ひませんのでせうか?
“そこは旨くやるんですね。(爆笑)恋愛もやはり一種の技術を要するもんですからね。(笑声)だから「女を口説くのは易しいが、別れるのは難しい」ってよく言ふんですよ。(笑声)之はまあ、正しからざる恋愛の場合ですがね。これから恋愛をする人もあるでせうが、恋愛の場合も大いに叡智を働かして、(爆笑)盲目的恋愛に走っちゃいけません。いや、恋愛ってものは理窟ぢゃありませんよ。(笑声)だから私は、一つ、科学で恋愛を説明してみろって言ふんですよ。(笑声)
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“幼い時母が離婚致し、母に育てられましたので、現在仏壇に母方の先祖の位牌のみ御祀りしてありますが、父の位牌も御祀りした方が宜しいでせうか。
“やっぱり父も祀らねばいけませんね。然し、之もどっちって決める事は出来ませんよ。離婚の場合、善意で離婚したんなら祀った方がいゝし、道楽してお母さんを捨てゝしまったって言ふんだったら御祀りしなくていゝですよ。そういふ事情によって決めればいゝ。
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“ジャワ島の附近に人魚が居るさうでございますが事実でせうか。
“人魚はありますよ。
“猿が人間になる前に人魚になると申しますが――
“そりゃあ、嘘ですよ。
“やはり人魚は絵の様な形をして居りませうか?
“あれはどうですかね。あれは霊を見たんでせうね。体(タイ)はどうか判りません。人間が蛇になったり、魚になったりする場合、下の方から変って行きますからね。
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五月二十三日
“刺青(イレズミ)を好む人がありますが、之は霊的に意味がありませうか。又、刺青をするのは神への冒涜と存じますが如何でございませうか。
“無論、冒涜になりますね。霊的な意味はありませんよ。こんな事をするのは未だ野蛮性が残ってゐるんですね。北海道のアイヌだとか台湾の生蕃だとかは顔へ刺青してますが、あれは一層野蛮ですよ。――お灸だって神に対する冒涜ですよ、綺麗な皮膚に火傷の跡をつけるんですからね、甚しい冒涜ですよ。
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“五六七を以て「ミロク」と読む事は大先生様が最初でございませうか。
“いや、これはお釈迦様が最初ですよ。釈迦が「五十六億七千万年の後に弥勒になる」と言ったんですからね。それからですよ。
“大先生様が、五六七を火水土といふ風に初めて仰せられたのでせうか?
“いえ、大本教で言ったんですよ。私も大本で教はったんです。細かい解釈は私が附けたんですがね。だから、五六七の数字を火水土としたのは大本で、あとの解釈は私がしたといふ訳です。
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“御道に入らせて頂いて黴菌や蝿の存在の意義は判らせて頂きましたが、蚤、虱(シラミ)等にも同様の意味があると存じて宜しいでせうか。
“同様の意味でいゝんです。蚊だとか蚤だとかは皆人間の毒血を吸ふんですよ。刺されたりするとそこに毒血が集るんです。だから本当は結構なんですが、たゞ痒いんでね。(笑声)私も以前は刺されるとよく赤く腫れましたが、疥癬をしてから何ともなくなりました。それから「相応の理」なんで、汚い所には虫や微生物が湧く様に出来てるんです。之を大きく言ふと、泥棒があるって言ふのは、人間が汚れた財産や富を持ってゐるから、それを何かで取らなくちゃいけない、で、泥棒はその取る役目をしてるんです。だから寧ろ泥棒に感謝すべきです――然し、こんな事を言ふと泥棒を奨励してるみたいで、誤解を招くといけないから余り言へませんがね。(笑声)悪人がはびこるのは、汚い所に害虫が発生するのと同じです。悪人っていふのは人間の形をした害虫ですよ。(笑声)綺麗な心の人許りになれば悪人なんて出ませんよ。又、人間には濁った血が沢山あるんで濁った血を掃除する為に呑み込むのが黴菌で、その黴菌を人間につけてくれるのが蝿ですからね。蝿は大変いゝ役目をしてるんです。だから私は蝿がいくらたかったって何とも思ひませんよ。一寸も気にしませんね。うるさいからって追ふ方が却ってうるさいですよ。(笑声)
“支那に南京虫が多いとか言はれますが、之は何故でせうか?
“汚いからですよ、皮膚だとか着てる着物が汚いからですよ。だから清潔にするのが本当ですね。黴菌がどうとかいふ意味でなく、やはり清潔にしなくちゃいけませんよ、気持がいゝですからね。汚くても気にしないって言ふのは、それだけ霊的に低い訳ですよ。無肥料栽培でやって、人糞を扱はず土を綺麗にするっていふのは、だから極くいゝんですよ。
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“紅卍教(コウマンジキヨウ)の霊統、至聖先天老祖、扶 (フーチ)の術等について御教示を御願ひ申し上げます。
“紅卍教っていふのは今から三、四十年前に、支那の済南の在方に百姓みたいのがあって、――支那って所では、極く古い昔から丁の形をした棒を使ひ、それを人間が両方から持ってゐると、この先が自動的に動くんです。「ミコ」っていふ字は丁に人を二つ書いて、「巫」と書くでせう。之が古い時代にもあったんです。それを三、四十年前に道教の信者がやった所、棒が独りでに動いて字を書いたんですが、それから段々道院といふのが出来やがて社会事業を始めて紅卍会になったんですよ。道院が霊で社会事業が体ですね。で、こゝでは四角い浅い御盆みたいなものに銀の砂をしいて、それを机の上に置き、その机の両側に人が棒を持って立つと、自動的に砂の上に字を書くんです。之は神様が棒を持って書くんですよ。両方の人が相談し合って書くって言ったって、そういふ事は出来ないんで、持ってゐる方は殆ど動かずに、先だけが動くんですからね。その前に、御経を上げるとかいろいろ儀式をやって、それから之を始めるんです。そして正面に神様の坐る席を拵え、香なんかを焚くんです。で、之はその至聖先天老祖が書かれるんです。之を直接書くのは、釈迦、基督、観音、弥勒、孔子、マホメット、舎利仏っていふ様な偉い人や大宗教家が、この老祖様の言ひつけで書く訳です。傍に立ってゝそこに出た文字を書きとめる係りがあるんですが、そりゃあ、とても早いもんだそうです。その時は、「観世音菩薩、老祖の命により何々の教を伝ふ」とか「釈迦如来、経文の誤りを訂正す」とか出て来て「どの御経のどこを訂正しろ」と言ふんです。又、基督だと「老祖の命により今日イエス汝等に教ふ」といふ風にいろいろ出て来るんです。それから棒に筆がつけてあれば、絵を書いたり字を書いたりするんですよ。先に、「岡田茂吉」と書いて「浄」と書かれたのを貰った事がありましたがね、今、私がやってる仕事は浄霊の様に、皆「浄」の仕事ですからね、あれは二十年程前ですが、もうちゃんとその時には決ってゐた訳ですね。この至聖先天老祖っていふのはエホバですね、日本で言へば国常立尊になるんです。つまり最高の神様ですね。――今に紅卍会と連絡する様になる筈ですがね、或時期が来るとこの扶 に出て来るんですよ。まあ、来年か再(サ)来年でせうかね。
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“妊娠四ケ月以上で流産した場合はその霊を祀る様にとの御言葉でございましたが、知らずに数年経ってしまってゐる霊を新たに御祀り致しますには如何致したら宜しいでせうか。戒名は矢張り御寺で作って頂く可きでせうか。
“そうです、御寺へ頼んで戒名をつけて貰ひ、御葬式を簡単にやって貰って、小さい位牌をこしらへて、普通の死んだ人と同じ様に祀ればいゝんです。
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“誤って御軸又は小観音様を汚しました場合、如何致したら宜しいでせうか。
“汚したって、どういふ風に汚したんですか?
“例へば、百合の花の花粉がついたり致しました場合――
“それはね、経師屋に頼んでとって貰へばいゝですよ。その時には御詫びしてね、こういふ訳で綺麗に致しますから、その間御許し願ひたいって御断りしてやればいゝです。
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“長男は必ず家を嗣ぐべきでせうか。
“嗣がなくてもいゝですよ。昔、戦国時代に大将が討死した場合、すぐ後釜を据えなければ一軍の士気に影響しましたからね。それで長男をすぐに後嗣にする事に決めてあったんです。今もその習慣が残ってゐるんですから、必ずそうしなければいかんといふ事はありませんよ。然し何も特別の理由がなければ長男が嗣ぐのが本当ですね。事情があって長男ぢゃ具合が悪いっていふんならいゝですがね。それから又、長男が自分から相続の権利を放棄する事もありますからね。例へば非常な劇しい恋愛関係があって、どうしても一緒になりたいのに、女の方が長女で一人娘だったら、女の家の方では養子に欲しいですからね。その時に男の方が養子でも何でもいゝから恋しい女と一緒になりたいっていふ場合には、その長男が養子に行って次男が後を嗣げばいゝですよ。何も、どうしても長男が後を嗣がねばいかん、とこだわる必要はありませんよ。
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“御浄霊の場合手を離す距離は、霊力の強弱により差がある事と存じますが如何でせうか。
“そんな事はありませんよ。距離は大抵一尺位が適当ですね。場合によっては二、三尺でもいゝですが、唯、近い方が悪い所に届きいゝんです。余り離れるとどうしても届きにくいんですね。然し之は別に制限ありませんよ。普通は一、二尺ですね。
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“重病で急を要する場合、一人の人を大勢で御浄霊しても宜しいでせうか?
“いゝですよ。それだけの効果はありますよ、方々から火素が行くんですからね。
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“「心貧しき者、汝は天国に入る事を得ん」と聖書にありますが、心奢(オゴ)れる現代の知識人に、御浄霊による天国到来を説いても全く信じようと致しません。彼等は遂に「最後の審判」までは救はれないのでせうか。
“知識人の中にも救はれるものと、救はれないものとあります。知識人だからって必ずしも救はれないって事はありません。天理教では「学者、金持後廻し」(笑声)って言ふんですが、之は実に至言で、よく言ってありますよ。救はれるのが遅れる、救はれ方が遅くなるんです。最後の審判は、救はれるか救はれないかどっちかで、どっちつかずって事はない、はっきりしてるんですからね。どうしても頑固なものは救はれないし、素直に頭を下げて来る者は救はれるんです。だから、どうしても頭を下げない訳には行かないんです。
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“宗教と科学は一致するとの御言葉でございますが、宗教が科学で理論づけられた時には神の神秘性は失はれ唯物的ならざるを得ないと存じますが、如何でせうか。
“本当は、宗教は科学的に説明がつくべきものであって、もう直にいろいろ新聞や雑誌に出しますが、科学で説明されて神の神秘性が失はれたっていゝですよ。神秘性が失はれた方が却ってはっきり判っていゝでせう。はっきり判らないから神秘性が出て来るんで、はっきりして神秘性がなくなれば迷信なんかもなくなるからいゝですよ、一向構やしません。此の間ラヂオで「宗教はなくならなくちゃいかん」って言ってましたが、之は真理ですよ。本当の時代になれば宗教はなくなりますよ。病人があるから医者がゐるのと同様で、悪い人がゐるから宗教が必要なんですからね。だから、立派な人ばかりになれば宗教は要りませんよ。私は神秘をなくしてる様なもの、神秘を暴いてる様なもんですよ。本当はね、科学も宗教も同じもんです。たゞ、どっちかが先に進むものなんです。私の方は科学よりずっと先に進んでるんです。だから、私の方が科学で、科学が神秘なんです。(笑声)――
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“妙智力、金剛力、絶対力、大自然力について御教へ下さい。
“妙智力ってのは観音力ですね。金剛力ってのは国常立尊といふ神様の力です。絶対力はつまり主神の力、至高絶対なものですね。それから大自然力ってのは絶対力が自然界全体に遍満した有様ですよ。
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“漁船の船室に御神体を御祀りしても宜しいでせうか。
“御祀りする必要ありませんよ。船室の上を歩いたりして却って御無礼になるからしない方がいゝんで、皆御守りを頂けばそれでいゝのですよ。
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“信者が死亡して私共に葬式を頼んで参りました場合、如何致したら宜しいでせうか。
“断ればいゝですよ。観音教団は未だ冠婚葬祭の儀式が出来てないですからね――まあ、やがては出来ますが、それ迄は御寺に頼めばいゝんです。
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“新仏が出来た場合、祖先の寺とは宗旨の違ふ寺で葬る事は宜しいでせうか。
“已むを得ない場合は仕方ないですけど、出来るだけ同じの方がいゝですよ。宗旨が違ふと霊界に行ってから所属する団体が違って来るので、霊がまごつくんですよ。
“御寺が遠いと墓参にも余り行けなくなりますが、それでも矢張り同じ方が宜しいでせうか?
“そりゃあ、同じ宗旨がいゝですよ。御墓参りが遠のいても仕方ないですね。墓参は一年に一度か、二年に一遍でもいゝですよ。
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“卅三才の女性、二年前に腎臓を悪くし以前二回流産した事がございますが、全身がむくみ倦怠感があり、腰が痛んだり張ったり致します。二月御浄霊致しました所大変好調でしたが、又むくみ始め腰痛が起りました。御浄霊により治りませうか。
“こんなのは何でもない、屹度治りますよ。之は腎臓が悪いんだから自分でも腎臓をやるといゝんです。後ろに手を廻してね。腎臓が圧迫されて萎縮してゝ小便の出が悪いんだから腎臓だけすればいゝ。こんなのは一番治りがいゝんですよ。
“自分で腎臓を致します場合、手をつけても宜しいでせうか?
“いや、離してやればいゝですよ。こうやってね。(御手を後ろに御廻しになられる)私なんか始終やってますよ。若し触る場合にはこうすればいゝですよ。(人差指と薬指を台にして中指の先で御浄霊する方法を御示し下さる)
“その場合、御光は指先から出るのでせうか、或は指紋の辺りでせうか?
“指紋の辺りですね、こうやってね。(再び御示しになられる)
“眼の場合にもそれで宜しいでせうか?
“いや眼は出来ないですね。眼は頭ですよ。眼の病気の時、眼だけやったんでは駄目ですよ、頭をよくやらなければ、今言った方法はおできだとか、一箇所が特に痛むとかいふ場合ですよ。――この腎臓の人は食物は普通に摂ってゐるんですか?
“はい、普通の食事を致して居ります。
“結構ですね。よく、腎臓の人は塩気の物を喰べちゃいかんとか言ひますが、あんな事は決してありませんからね。で、苦しくない限り働くだけ働いたがいゝですよ。その方が早く治ります。
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(「花による天国化運動」の御原稿拝聴後続いて次の御言葉を頂く)
“これは実際、今度新規に手に入れた土地でね、あの農園よりもずっと条件がいゝんです。風も当らないしね――風は花にはよくないですからね。それから日当りはよし、平な所は多いし、実に素晴らしい所なんですよ。之が手に入ったのは、奇蹟も奇蹟、素晴らしい奇蹟で、私も驚いてしまったんですが、この土地が突然売るって事になったんで、早速幾らだか調べてみたら百五十万円だって言ふんです。そこは三万何千坪の土地ですが驚く程安いんですね。そこで行って見たら素晴らしい土地だもんで、直ぐ買って急いで登記してしまったんです。所がその後、それは飛んでもないって事になって、告訴するって騒ぎにまでなったのです。告訴するって言っても、私の方ぢゃないんですが、それはその売り主がそれを担保に、或る信用組合から四十万円許り借りたんですが、所がその四十万円がないと、或人がその現在の地位まで危い事になり、矢の様な催促が来たんで、持主は急の金が欲しさに遮二無二売ったんですが、所がその売り主が余り安く売り過ぎたって言ふ訳なんです。然し一旦登記したものは幾らやっても駄目だって事が判って、たうとう諦めましたがね。全くこんなのは、神様に売らされたんですね、私も余り安いので面喰ってしまったんです。然しあれは大変な罪亡しになりますよ、今に屹度喜ぶ時が来るでせう。そういふ所でね、あらゆる条件がいゝんですが、それを開発して「花の天国」にする積りなんですよ、小公園を作ってね。そこに古い壊れた家があったので、それを修繕してそこに奉仕隊が泊って作業をして居ます。路の狭いのは拡げたし、橋も小さくて壊れかゝったのを大きくしましたが、そうすると自動車も通れてとても近くなるんです。熱海の梅園から一、二町先の所で、ずっと五、六町は路を挟んで渓流が流れてゝね、それはそれは素晴らしい所なんです。熱海の近くにこんな所があるのかと思ふ様ですね。熱海の人も知りませんよ。何故って、渓流といっても音だけは聞こえてゝも、草がかぶさってゝ見えないんです。その草を刈り取れば素晴らしいものになりますよ。それからね――まあ、現場で説明しなくちゃ判らないですね――そういふのが集って来るんですよ、自然にね。この土地が手に入る前にね、躑躅(ツツジ)のいゝのを千本買ってゐたんですが、之は元箱根の岩崎の別邸にあるんです。之をどうしても買はねばならない事になって先から買ってゐたんですが、買ってもどうしていゝか見当がつかなかった所が今度その土地が手に入ったんですよ、全くねえ――そして、その土地を買ふと同時にね、東京都の公園課長の市川といふ人――この人はこの方面の権威なんですが、今度停年で退職して遊んでる人です。その人と、それから花卉(カキ)栽培では有名な宮島って人、この人は世界中の花を研究した人ですが、この二人が、土地が手に入った翌日に、或る人の紹介でやって来たんです。私も一寸驚いたんですが、早速土地を二人に見せたら、「非常にいゝ、大したもんだ」って言ふんですね。それから又、そこに温室を作る事にしたんですがね。そこは温泉も出るし、温室には丁度いゝんです。之は元、伏見宮が掘ったものですが、その温泉熱を利用してやるんですよ。所が丁度、温室の売り物が出てゐてね、そこの蘭ごと売るって言ふんです。それでその温室を当ってみたらその土地の傾斜に丁度合ふって言ふんですね。又、蘭てのは馬鹿にいゝんでね。あのクリスマスの時には蘭ぢゃなくちゃいけないそうですね。去年のクリスマスの時に、進駐軍から一万本の蘭が欲しいって言って来たんだそうですがね、あっちこっち走り廻って集めても足りなかったそうですね。 それから私が昔から好きだった花に「八重のくちなし」があるんですが、この花の匂ひって言ったら実にいゝんで、花の中ぢゃ一番いゝですね。然し一重のは沢山あっても、八重はなかなか無いんですよ。所がその八重が三百本売物にあってね、それも買入れる事にしました。そして又昨日ね、梅――紅梅の馬鹿にいゝのを之は閑院宮のものだったんですが、十本から二十本位と、白梅を三十本買ひましたし、それから椿を百五十本、之は百五十本皆種類が違ふんですよ。この椿ってのも私好きで先に世田ケ谷の園芸学校の入口に皆種類の違ふ、いゝのが植えてあったので、私欲しかったんですが、学校のものだから売らないって言はれて、仕方がないからあの当時別のを買って、今玉川の別荘に植はってますが――そんな具合に、探さなくても皆集って来るんですよ。この外に段々畑のいゝのがあってね、それに一段宛違ふ花を植えて、上から見下したら実にいゝんです。それから不動様の御堂もあるんですが、それを改築して将来観音堂にする積りなんです。又、月桂樹の直径二尺位太いのもあるんです。之は天然記念物ですがね。その附近には外にもいろんないゝ樹があるんですよ。それは全く不思議な事で、実際、天国ってあんな所ですね。それから、山の上にもね、誰も知らない素晴らしい所があるんです。相当急な山で、登ってみると、一寸下ってゝそこに平らな所があるんですが、そこからはね、熱海から伊豆、相模の一帯が見渡せて、それは又、実に素晴らしいんですよ。熱海の人だって全然知らない所です。そこへホテルを造る積りですが、国際観光の重役ともゆうべその事で話しをして、ホテルの方は私が引受けるから任せろって言ってやったんですよ。この観光事業ってのはとても必要なんですよ。将来、日本は世界の天国になるんですからね。それで日本は特に風景がいゝんですよ。花でも樹でも一番日本に種類が多いんですからね。神様がそういふ風に造られたんです。所がそういふ事を知らなかったから今迄失敗して、たうとう、軍備まですっかり取られてしまったんですよ。だから観光事業だってこっちでやらねばいけないんです。今度のはその第一歩として手をつけた訳ですがね、まだいろんな計画がありますよ。無肥料栽培の方は、何処で誰がやっても出来るんですからね、之はまあ、見本を示す位にしておいて、花の方を大々的にやろうって訳なんです。それから、将来芸能ね――歌とか踊りとか、そっちの方もやって行かうと思ってるんです。天国の美の世界を造らねばいけませんからね。今度の会館の設計でも、舞台や楽屋なんかも入れて芸能にも使ふ積りですよ。「真善美」ですからね。第一は人を健康にする事ですね、何と言っても。それから第二が貧乏をなくして豊かにする事、第三が娯楽ですね。皆が楽しむ様にする事、そして天国、地上天国が出来るんですよ。そういふ意味で着々やってゐるんです。だから今迄の宗教とは違ふんですよ。
(御光話録十号 昭和二十四年七月十日)