御 光 話 録 第七号

御歌

あゝ時は迫り来にけり待ち佗びし弥勒の御代はほの見え初めぬ

弥勒の世見え初むるとも心せよ曲(マガ)は隙なく狙ひつめ居り

キリストにサタン釈迦に提婆(ダイバ)あり我にもありぬもろもろの曲

曲神は如何に障るもをそれまじ我には無限の神力ありせば

世の人よ今我が揮ふ力より上の力はなしとこそ知れ

現世の乱れを釐(タダ)し順序よき御代打樹てんわが望みかな

五六七とは火水土の順序よき完きの世をいふにありけり

わが揮ふ力は未だ現し世に現れたる事なき力にぞある

キリストも釈迦も孔子もマホメットもわが現れ出ずるまでの楔(クサビ)そ

待ち望むメシヤの力もわが揮ふ力も同じ力なりけり

栄光の雲より降るキリストの世に知れ渡る時ぞ近みぬ

あな尊と天より降るキリストを祝ふハレルヤの声ぞ嬉しき

キリストも釈迦もメシヤも観音も人の姿の神にぞありける

越え難き此の現世の大峠安く越えなむ神の恵みに

大いなる神の力を見するとも哀れ盲の眼には映らじ

大神の深き仕組は諸人の眼に映らぬものと知れかし

大いなる神の仕組のいと小さき人の眼になど映らめや

光なりあゝ光なりいかならん濃き闇とても打ちはるゝなり

いやはてに天より降るキリストに世のもろもろは甦るらむ

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四月四日(月)

“自己の師事してゐる先生の、御道に対する精進が足りない様に感じられて尊敬の心が起きなくなったり、或は、より以上の立派な先生について、もっと御道の事を深く研究したい――といふ気持になったりした場合、その御弟子、会員にとっては一応重大な事と存ぜられますが、かゝる際御弟子、会員としてはどの様な心構へを持ち、どの様に進退致すべきでせうか。

“これは困るんですね。之は信仰のない人の考へですね。兎に角神様がさうさせたんだからどうする事も出来ませんよ。その先生についたっていふのはそれだけの因縁があって来たんだから、それを人間的にのみ見るからそんな考へになるんです。先生がいゝから選ぶなんてのはとんでもない事ですよ。そりゃあ先生がよければいゝ事が全然ない訳ぢゃないけど、そんなに影響ありませんよ。偉い画かきだってそうぢゃありませんか。その先生よりずっと立派になってるんです。「出藍(シユツラン)の誉れ」って言ふでせう?「藍(アイ)より出でて藍(アイ)より濃し」ってね。だから、先生は第二、第三の問題ですよ。それよりも自分がどうなんですか?それが第一ですよ。かと言って先生を尊敬しないってのはいけない。やっぱり先生は先生として、立てゝ行くべきですよ。尊敬出来ないからっていゝ加減にあしらふといふんでは道に外れますよ。そして、この先生はなんだからあっちの先生につく、なんていふのは全然信仰のない人のする事で、全く神様を無視してますよ。それよりもむしろ、先生がどうも面白くないといふなら、その先生をよくしてやらう――と念願するのが本当ですよ。先生が気に入らないから変へるなんていふ事をしてたら、今にストライキでもやる様になりますよ。

“そういふ人が大分あります。

“えゝ、随分あるんですよ、そんなのがね。こっちの先生についたかと思ふと、またあっちの先生に変へるなんて、一体、何をやってるんだか判りませんよ。(笑声)結局、自分が社会の人、多くの人を助けなくちゃいけないんですよ。そして若しその先生に判らない事があったら、御伺ひ事項に出したらいゝ。その為にこういふ質問の道を開いてあるんだから、決して間違ふ事はないんです。

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“姓名や家相のよい人と、そういふ事は全く知らずに真面目に働いてゐる人とは、どちらが神様の御加護を頂けるものでせうか。

“そりゃあ、真面目に働く人の方ですよ。何故かと言へば、姓名や家相がいゝだけでは、社会の為、人の為に利益がないから何にもならないですよ。姓名や何かゞいゝからって、ぶらぶらしてたんじゃ仕様がないですよ。本当は勿論両方共揃へば一番いゝですがね。どっちかって言へば真面目に働いた方がいゝですよ。御料理でも献立だけ幾らよくったって喰べないんぢゃ何にもなりませんよ。(笑声)

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“大浄化が迫るにつれて、神様の「裁き」の御働きの方が「救ひ」の御働きより強くなるのでせうか。或は両方共に同じ様に強まる――と考へさせて頂いて宜しいでせうか。

“之は同じ事ですよ。どっちも平均して来るもんですよ。浄化が救ひですからね。病気だとか苦しみだとかいろんな事がありますがね、それが救ひなんですよ。要するに苦しみってのは救はれる事ですよ。一つの浄化作用ですからね。だから、苦しみは早い方がいゝって言ふんです。今、毒が固まってゝ病気にならないと、あとで一ぺんになりますからね。体が救はれないで霊だけ救はれるって事になるんです。――浄化の力が強くなるって事は救ひの力が強くなるって事ですよ。

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“観音様が逐次高い御位に御戻りになられるのと同様に、国常立尊も亦、逐次高くなられるのでせうか。

“さうですね。之は確かにこの通りですよ。

“さう致しますと、御名前も別になってゆかれるのでせうか。

“之は仏と神様との違ひですね。神様の名前は変りませんよ。仏ってのは神様の化身ですからね。いろいろあるんですが、天照大御神ってのは昔も今もその御名前ですよ。仏様の方は神様が一時御働きを変へられてゐるに過ぎないんですから違ふんですよ。仏様はこれから神様になるんだから変る訳ですよ。観音様は特に救ひの為にいろいろな段階を経られる訳ですね。

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“真理は発見さるべきでせうか、発明さるべきでせうか。

“之は問題になりませんね。真理の発明なんてありませんよ。よく、真理の探究って言ひますが、あれがいゝんで探り究めるんです。真理ってのは永久不変のものです。一万年前だって、十万年前だって変ってませんよ。そしてその真理を探究するってのはいゝ事ですよ。一つでも余計に知るのは結構ですよ。唯気をつけねばいけないのは、真理でないものを真理と間違へる事ですよ。一番の真理ってのは太陽が東から出るって事ですよ。之には一点の間違へもありませんからね。人間が生きるってのも真理ですよ。又、眼で物を見、鼻で匂ひを嗅ぎ、舌で喋る、之も真理です。こんな事は判り切ってますがね、この判り切った事が真理なんですよ。反対にやゝっこしい事は真理ではありません。あのマルクスの「資本論」なんてとてつもなくやゝっこしいもんですがね、あんなものは真理ではありませんよ。やゝっこしくするのは真理でないものを真理である様に見せかけようとする技巧ですよ。仏教のお経も、とても長ったらしいやゝこしいもんですが、あれだって真理は少いんです。そこで「真如」って言ふんです。真の如しですからね。真理の様なもんで実は真理ぢゃないって事ですよ。だから、仮の娑婆、仮の世って言ふでせう。或は、一切空とか空々寂々ってね。そりゃあ真理でなけりぁ空ですよ。(笑声)実相って言ふのが本当で、真如ってのは一時的の仮のものですよ。よく八万四千の経文って言ひますがね、あれなんかも真理ぢゃないんですよ。真理ってのは簡単なもんですよ。御浄霊で病気を治しますね、之は真理ですよ。あらゆるものは火、水、土の力に関係のないものは一つもないんですからね。そしてこの御浄霊は火、水、土の力ですからね。

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“石油はいかにして発生したのでせうか。

“之は石炭の溶けたもんですよ。だから戦時中に石炭液化ってのをやったんです。之は石炭から石油を取るんですがね、あれはドイツで発明されたもんでしたっけね。石油は地下にある石炭が溶けたもんです。だからだんだん掘ると出なくなるんです。以前は越後で随分出たもんですがね。今では秋田でやってて秋田の方がずっとありますからね。それで石炭は地熱によって溶けるんです。それぢゃ石油のある所とない所のあるのはどうしてかって言ふと、地層の表面は岩石なんですが、その岩石に亀裂が出来てゝそこから地熱が発散するんです。で、その発散する場所の石炭が溶けて石油が出来るんですよ。地熱っていふのは熱いガスですからね、中へ滲み込むって事はないんです。

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“四十五才の男(眼科医、昨年入信)最初肝臓が浄化し黄疸になりましたが、御浄霊により恢復、その後こゝ十日間程しゃっくりが連続的に出て居り体も相当衰弱して居ります。本人は以前稲荷を信仰した事があり狐霊が憑いてゐる様に思はれます。又今迄は御浄霊をさせましたが昨日から急に之を嫌ひます。食慾は無く医師は十二指腸潰瘍と言ひます。御救ひ頂けませうか。

“この人は入信してからどういふ事をしてゐました?

“やっぱり眼科医を続けて居ります。奥さんの方は御浄霊をして居りました。

“この御道を弘める方はやってないんですね?

“はあ、全然やって居りません。

“ですから御守護がないんですよ。この「入信し放し」っていふのは何にもなりませんよ。入信するって言ふのは人を救ふ力と、救ふやり方を教はるんですからね。丁度学校へ入って学問をする様なもんです。だからそれを生かさなくちゃ駄目ですよ。そして、それを活用した人を神様は御守護なさるんですよ。神様は一人でも多く助けようとなさるんですからね、人を救はなくちゃ駄目ですよ。それでなくちゃあ生存の価値がありませんからね、御守護だって頂けませんよ。この人は一寸難しいでせうね。治さうと思っても駄目でせう。――これは昔の事ですがね、本所に眼科医がゐて、この人は学校の校医なんかもやってゝ相当信用のあった医者なんですが、石鹸の水が目に入って放っておけば治ったのに薬をつけてこじらせてしまったんです。それは、その息子が病院の眼科に行ってゐて最新の療法を尽したんで悪くなったんですが、困り切った挙句私の所へ来たら一週間ですっかり治ってしまったんです。で、びっくりして当時の講習を受けたのですが、二、三ケ月経ってから遊びに来たので、「どうです、治療をやってますか」って訊いたら、「いや、とんでもない。第一、この治療で治った事を誰にも秘密にしてゐる。之が息子や細君に知れたら何を言はれるか判らない。それに医師会にでも知れたら除名されてしまふ。除名されたら飯が食えない、絶対に食ってゆけない」って言ふもんですからね、私も驚いちまって、どうしても医者を救ふといふ事は出来ないなとつくづく思ひましたね。こんなのは教修を受けても何にもなりませんよ。それから又、Nさんね、あれは薬学博士で薬学では相当知られた人ですが、その人の病気が治りその娘の肺病も治って、奥さんは一心になってましたがね。まあ、Nさんもとても喜んでたんですが、やっぱりどうしても出来ないって言ふんです。薬学の講義の時にどっちを言っていゝか判らないって言ふんですよ。で、Nさんを紹介した人がね、医学の方をやめてこっちを専門にやれって言ったら、止めるのはいゝが今更そこまでは出来ないって言ってましたが、あれ以来戦争になって消息がありませんがね。やっぱり御医者は駄目だと思ひましたね。

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“御浄霊を普通にやって居りますれば、仏の障り等は判りませうか。

“判りますよ、知らせられます。夢でとか、たまには神懸りになったりしてね。この間ね、――之は今度の新聞に載せますが、アッツ島で玉砕した山崎部隊長ね、あの霊が憑って来て問答したのがありますがね、やはりその人に因縁があって憑ったんですね。あれは嘘ぢゃない、本物ですよ。それでね、無理に仏かどうか、仏なら誰かとか言ふ事は知らうとしないでいゝですよ。知らせなくちゃいけない時には必ず知らされますからね。知らなくていゝ時には何も知らされません。だからこんな事は余り考へなくていゝですよ。

“その知らされる場合、どちらに知らされませうか。患者の方でせうか、それとも教導師の方でせうか。

“それは患者に知らされる場合もあるし、教導師に知らされる場合もありますよ。

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“輸血といふものは大体生命が危急の場合使用し、或程度効果がある様に言はれますが、矢張り罪になるものでせうか。

“罪にはなりませんが一時的なもんですよ。何れ治ってから浄化作用を起しますよ。輸血した血は決してその人の血とはまじりませんからね、やがて痔の出血だとか、喀血だとかして排除されますよ。――この御浄霊といふのは霊的輸血ですよ。これが本当の輸血ですよ。血液の霊化したものがこれ(御浄霊)ですからね。だから五分位御浄霊すれば、二百瓦輸血するよりも血が多くなりますよ。出血が多いと霊が稀薄になるんですが、御浄霊で霊を足すと血が出来るんですよ。だから息の絶えたのが、御浄霊で生き返るって事がよくあるんですよ。あの輸血っていふのは管で血をとるんですからね、あんまり文化的ではありませんね。手術だって、悪い所を切ってとる、それだけですからね、外にはなんにもないんですから。手術すれば痛いし、そこに欠陥がどうしたって生じますからね。たゞ文化人は器用でね、細工がうまいんですよ。だから「医学の進歩」といはれるのは「技術の進歩」ですよ。それを本当に「進歩」だと思ってゐる文化人の頭は情ない頭ですね。だからね、御浄霊で病気が治るってのは、実に素晴らしい文化ですよ。で、私は、之は二十一世紀か二十二世紀の文化だって言ふんですよ。それ位先に進んだ文化だから、二十世紀の人間にはあんまり程度が高すぎて迷信だとか邪教だとか言はれるんですよ。あの解剖や手術なんかは残虐なもんですよ。少しでも人間性のある者には見られませんよ。その結果、生体解剖なんかゞ起る様な事になってしまふんです。今、アメリカで一番心配してゐるのはソ聯が細菌爆弾を持ってゐて、それでやられやしないかって事ですがね、あんなの一寸も心配要りませんよ。今にアメリカにもこの道を宣伝する積りですがね。黴菌が入ったってそれが繁殖しない様な体にすりゃあいゝんぢゃないですか。建築なら燃えない様な建築にすればよい。それでいゝんですよ。我々の方ではその不燃性家屋が出来るんですからね。(笑声)この間もアメリカ人が来たんで、伝染病なんか一寸も怖くないって話したんですよ。お望みとあれば細菌を飲んでみせるって言ったんですよ。私は精神で何だからと言はれるんなら、私の家族でも、誰でも飲ませるから何時でも実験して下さい、と言ったんですが、ビックリしてましたよ。

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“喘息患者で、煙草をやめたら治ったといふ事をよく聞きますが如何でせう。

“それは治ったって言っても本当に治ったんぢゃないですよ。煙草ってのは咳を促進しますからね、それをやめればずっと軽くなるっていふのは事実です。然し、全然治るといふ事はありませんよ。やっぱりそれだけの浄化をしなくちゃあね。

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四月十三日(水)

“相手を信じすぎた為幾度か失敗した場合、次の相手を警戒するのは本当でないと存じますが如何でせうか。

“警戒していゝですよ。次の相手を大いに警戒していゝですよ。たゞ、警戒しすぎてはいけない。必要な程度、程々に警戒するんです。私なんかも大いに警戒しますよ。いろんな人がやって来ますからね。実にそれは巧妙な手段でやって来ますからね。新聞なんかに出たゝめに、観音教には金があるっていふんで、あの金を何とかしてたんまり出させようって目的でね、実に巧妙な手段をやりますよ。然しまあ、そんなのは直に判るからこっちが却ってからかい半分にあしらふんですがね、この頃はそんな事もつまらないからしませんけど、警戒はいゝ事ですよ。騙されるとこっちは被害を蒙るし、さきは罪をきますしね、いゝ事はないんですからね。

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“相手が人格的であるのにこちらが疑っても、別に罪にはならないでせうか。

“いや、罪っていふのはそんなもんぢゃないんです。先方を苦しめるとか、先方に迷惑をかけて困らせるとかいふのが罪になるんです。だから「この野郎、早くくたばっちまへ!」と思ったって構ひませんよ。(笑声)行動にさへ出さなければね。然し、その心持が本当のものでなければ、行動も本当ぢゃないんですがね。大本の御筆先に、「われよしわれよし」っていふのがありますが、矢張り自分許りよくなればいゝっていふ気持はいけないんです。「今の人民むごい心になりたれば神は苦しむのであるぞよ。人よかれの精神にならねば神の御旨に適はぬぞよ」といふんですがね、この通りでみんな健康になる、みんな幸福になるっていふ気持を持ってれば間違った行動にはなりっこないんです。だから何時も自分を批判することですよ。自分にとらはれて、自分はいゝ事をしてるんだ、と思ってゐても、間違った事をしてゐる場合がよくあるんです。だから絶へず自分を批判する事が肝腎ですね。それから、すべて物事は結果ですからね、結果が一番正直なんです。誰が見ても立派な人でもね、世の人や社会の為になる事をさっぱりしない人がある。功績を表はさないんですね。忠義無類なんて言ってながら戦争に敗けてしまったんぢゃ仕様がないでせう。たとへ他から見て感心出来ない様な人でも、どんどん成績を挙げる人が神様の思召に適ふんです。

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“或人、或家のため一心に奉仕した事が結局、結果に於て悪い事になる場合がよくありますが――

“やる人に智慧がないんですよ。一人の人を救ふ場合にもね、救ふ時期と機会があるんですよ。幾ら救はうと思って一生懸命になってもね、時期と機会と先の気持ちがぴったりと合はなければいけないんです。或る人が間違ってゐる場合、之を諌めて止めさせればいゝんですよ、理窟ではね。所が人間てものは執着があるんで、口で言ったり注意したりしてもなかなかやめるもんぢゃないんですよ。だから私は、放っといてその人が失敗するのを待つんですよ。この人はこゝが間違ってゝ惜しいなあ、と思ってもそれを止めないで放っとくんですよ。随分薄情の様ですがね。然しその人を本当に救ふにはそれでなくちゃいけないんです。で、にっちもさっちも行かなくなり困り切ってくれば救ひを求めて来るでせう。そこでね、あんたはこゝとこゝが間違ってるんだと言ってやれば、その人はもう懲りてますからね、腹の底から判って本当に改めるんです。中途半端で意見なんかするとね、却って結果が逆になる事が多いもんです。執着が強いですからね。特に男女関係に於て之がひどいんです。とめると却ってのぼせちまってね。(笑声)だから男女関係の相談を持ちかけられるとね、私は「神様に御任せしときなさい」って言ふんですよ。まあ、神様に責任を転嫁してしまふんですね。(笑声)実際又その方が成績がいゝですよ。丁度ね、坂から石が転り落ちる時にね、中途で止めようとしてもなかなか止りませんしね、自分が怪我をする位のものですよ。さっきの「一生懸命やって結果が悪い」ってのは之ですね。だから、石が下まで落ちてしまふのを待つんですよ。そうしたら放っといたって止っちまいますよ。それでね、どの辺が坂の中途か下かを見抜くのが智慧正覚ですね。智慧を磨けってのはそれですよ。

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“真の日本精神とはどの様なものでございませうか。

“真の日本精神とは、今迄にもあるにはあったが、その一部分だけあったんです。まあ、どっちかって言へば無かったと言っていゝですね。日本精神といふのは大和民族の精神ですが、大和民族ってのは絶対に戦争をやらない、第一武器を持つ事を嫌ふんです。私なんか本当の大和民族だと思ふんですがね。私は武器をとるのが嫌ひで、見るのさへ嫌なんです。博物館なんかに行ったって外のものはいちいち叮嚀に見ますが、刀だけはそばへ寄るのさへ気持が悪くて嫌ですね。全然見なかったもんですよ。で、今の所謂日本人の中で、本当の日本人は百人の中十人とはないでせうね。あとは昔、支那や朝鮮から渡って来た移民の子孫ですよ。そこで日本が戦争をやったのはそういふ争ひを好む民族がやったんです。戦争するのを日本精神だなんて言ふのはとんだ間違ひで、日本人が一つ苦情を言っていゝんです。今迄はそれ位間違ってゐたんですよ。だから日本を敗戦国にしたのは日本人ぢゃなくて、日本へ来た移民なんですよ。そんな訳で、だから真の日本精神はこれから出るんですよ。日本精神ていふのは実にいゝんですよ。争ひを嫌ひ、平和を好み、それで非常に芸術を愛するんです。とに角平和愛好民族ですね。

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“水平社に就て御伺ひ申し上げます。

“水平社ってのは何でもないですよ。先祖が朝鮮から出てるんですよ。昔の日本人はね獣を殺して食ふのは嫌ったんですよ。ごく昔は肉も食ったんですが、仏教が渡来してからそうなったんですね。所が戦国時代なんかには皮の靴だとか、皮から作ったものを相当使ったんで四つ足を殺さねばならなかった。それを普通の人はとても嫌がったんで、そこで朝鮮から来た人たちにやらせたんです。で、そういふ事をやるのを特殊職業として附き合はなかったんです。昔はひどく四つ足を嫌ったもんでね、明治になってからでも田舎などでは、肉は喰べたいけど四つ足は穢はしいからって訳で、わざわざ家の外で煮て食ったものなんですよ。(笑声)今は日本人は全部肉を喰べるから全部水平社と同じですよ。(笑声)それだけのものですよ、水平社ってのは。第一階級制度なんてものは早く撤廃してゆくのが本当ですよ。これなんかも封建時代の風習が未だ残ってるんですね。

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“「無縁仏を祀れ」との御言葉でございますが、どの様に致したら宜しいでせうか。

“之は仏立講なんかで喧ましく言ふ事ですがね。之には小さい位牌を拵へて「諸霊」と書くんです。それでいゝんです。で、仏壇の端におけばいゝですね。

“どこの家でもその様に致した方が宜しいでせうか。

“えゝ、した方がいゝです。然し何にも訳がないのにするのはいけないんです。何か訳があってする時に拵へればいゝんです。

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“会員の家庭ですが、主人は未だ入信して居りませんが、非常によく働く反面博打が好きで儲けた金を全部損してしまいます。如何致すべきでせうか。

“この家では誰が教修を受けてますか?

“その奥さんが頂いて居ります。

“では、その奥さんが一生懸命人助けをして徳を積めばいゝんです。奥さんの霊が浄まれば夫婦ってものは霊線で繋ってますからね、自然と御主人の方も浄まって来て博打なんか打てなくなりますよ。苦しむってのはその奥さんの方にも罪穢れがあるんだから、徳を積んで行くより外に方法はないですよ。

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“御堂を作ってその中に墓石を入れると一家死に絶えると申しますが如何でせうか。

“それはあるでせうね、墓は雨ざらしでいゝんです。御堂といふものは格のある霊を祀る為にあるんですから、人間の霊を祀るにはよすぎるんです。そんな事をされると人間の霊は苦しいんですよ。だから、一寸考へるとよく祀った方が霊が喜ぶと思はれますがね、本当はそうではないんです。又、神様と並べられても祖霊は苦しいんです。よくされると却って苦しいんですね。丁度地獄からいきなり天国に上げられた様なもんですからね、眩くて苦しくて到底居られないんで、そこを逃げ出してしまふんです。まあ、糞溜の蛆虫を床の間に上げた様なもんでね、(笑声)どうしても一段々々上げないとね、本当ぢゃないんです。そこで御堂の中に墓を祀るって事は間違ってるんです。御堂ってのは神様を祀る事にきまってるんですからね。やっぱり墓石は雨ざらしでいゝんですよ。

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“精神分裂症の御浄霊はどの様に致したら宜しいでせうか。

“主に前頭部ですね。それから後頭部のあたりもよく御浄霊するんです。精神分裂症っていふのは前頭部の奥に霊が憑くんですからね。然し、精神分裂症なんて全くうまい名前をつけたもんですよ。

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“追肥の方法、中耕、土入れの時期、方法、土壌に有機質の少い場合の処置について御教示下さい。

“兎に角、無肥料でやればね、こんな面倒臭い事は何も要らないんですよ。追肥なんて事も間違ってますしね。こんな事は要りませんよ。それから中耕っていふのは、この目的は土を固まらせない為ですから、堆肥をうまくやれば中耕の必要はない位です。たゞこの場合の堆肥は草の葉でなくては駄目ですね。で、土入れってのは肥料でわざわざ土を悪くしておいて、今度は新しい、肥料を使ってない土を入れる事ですからね、馬鹿馬鹿しい話ですよ。

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四月二十三日(土)

“大浄化に就て、

一、大浄化が非常に近い由洩れ承りますが、大浄化は何時頃でせうか。

“之は絶対に言へません。こんな事をいふと却って思ひ違ひされて、新聞や当局が早速目をつけますからね。教導師が自分でそう思っていろいろ言ふんでせう。たゞ近寄ったって事と、屹度あるって事だけは言へますね。然し、之はキリスト教でも最後の審判とか、世の終りとかって聖書に書いてあり、それを信じろって言ふんですからね。私がこう言ったって別にどうって事はありませんよ。近寄ったって事は言へますね。けれども近寄ったといってもまだ来月とか再(サ)来月とかぢゃなくてまだちょっとはありますからね、そんなに……

二、大先生様より国民や人類への大警告が頂けませうか。

“之は私も判りませんがね。その時になれば多分そういふ事があるでせう。今、警告した処で、まあ信者間では信用があるけど、私が未だ社会的には信用がありませんから無駄ですよ。全人口の三分の一位が信者になれば警告してもいゝですがね。今やったって鼻であしらはれる位の所ですからね、馬鹿々々しいですよ。むしろ悪く解釈されますよ。あんな事言っておどかして信者を殖やさうとする策略だととられますしね。何としても頭から軽蔑されてインチキと見ますよ。だから、はっきりとも言へないし、又言った所で大して効果がありませんよ。

三、その非常時に直面して、資格者はいかなる態度をとるべきでせうか。

“大いに救ふ事ですよ。それからが大いに働き甲斐のある時期なんですよ。今はそれに備へての準備時代ですよ。世の中の人が皆救けてくれって言って来て大変ですからね、その時に大いに力を発揮するんですよ。

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“資格者が、自分は罪が深いから尊い御道の御手伝ひをさせて頂くと考へる事と自分は神より選ばれた人間だと幾分高く評価する考へ方とはどちらが正しいでせうか。

“別に――どちらも正しいですよ。罪が深いから働くって言ふのも変ですよ。罪の深い浅いぢゃないんです。罪が深いからって言ふんなら、殺人強盗にもいゝ機関なんですが、(笑声)やはり因縁ですからね。それから神様に選ばれた人間だと思ふ事はいゝけど、別に高く評価する必要はありませんよ。無論選ばれたには違ひないが、それだけぢゃ高い価値はありませんよ。この教へにも因縁、系統で入ったんですからね、それから働きがあって非常に仕合せになり、いゝ地位になったら、それだけ高く評価するのはいゝですけどね。だからこの信者になったからって、たゞ選ばれたゞけで何もしないって言ふのは間違ひですよ。

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“資格者が、熱心に御手伝ひさせて頂きたいと存じ乍ら、その希望の如くよい結果が生じない場合、自己の不徳、不適任と思ひ、且経済上からも元の職業に帰るべきではないかと迷ってゐる人がございますが、こんな場合どの様に致すべきでせうか。

“こういふ人は決心が足りないんです。つまり信仰が浅いんですよ。自分が命がけで神様に御願ひしてやったら、うまくいかないなんて事は決してありませんよ。すっかり御縋りしてないから元へ戻らうか、なんて迷ふんです。こんな人は一度元へ戻ってみたらいゝ、どうせうまく行きっこないですからね。(笑声)で、そっちへ行って困ってから又こっちへ戻って、それから一生懸命すればいゝですよ。確固たる信仰を持ってゐれば、素晴らしいどんな御利益でも頂けるもんですよ。

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“人々はこの尊い御道の御手伝ひをさせて頂く事により罪を軽減し、その御許しを頂く可能性が生れると信じますが、未だこの御道を知らない人々が、身近に迫った大浄化に気づいてから悔い改めても御許し頂けますでせうか。

“それは御許しを頂ける人もあるし、頂けない人もありますよ。罪のそう多くない人はその時に改心すれば救はれますし、多い人は救はれませんしね、一様には言へませんよ。この時にみんな働くんですね、一心になってね。又その時分には皆力が出ますから、非常に働けますよ。

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“真面目に働いてゐても明日の大浄化は信じられぬ故「特にこの御仕事が最善の道とは考へられない。それ故明日の裁きが如何様にあるともよい」と考へてゐる人も沢山あります。かゝる人々は神様からどの様な御咎めを頂くでせうか。

“之は信者ですか、信者でない人ですか?

“信者でない人でございます。

“信者でない人ね、こんなもんでせうね。まあ然し、真面目に働いてゝそんなに罪を犯さなければ救はれますよ。信者だからって怠けてゐて何もしなければ危いですよ。信者ぢゃなくてもいゝ行ひをして正しい心の人は救はれますよ。たゞ信者は助かるべき方法を教へて頂けるんで、この御道で人を助ける事によって罪が減るんです。丁度ね、金が手に入っても、たゞしまっておくだけぢゃ何にもならないし、又くだらない事に金を使っちゃ却って害になる位がおちで、使い道のいゝ所に使はなくちゃいけません。その方法をこの信者になると教はるんですよ。金の使ひ道は、この教へで使ふのが一番有効な道ですからね。折角その道は教はっても、実際にやってゆかなくちゃ何にもなりませんよ。つまりね、人を助ける最善の方法を教はるのが教修なんですからね、教修を受けたゞけで、人を助けなければ何にもなりませんよ。

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“御浄霊を頂く場合、非常に熱く感じたり、ビリビリ感じたりする人がありますが、又当方が相手によって感じに差がありますが、之は如何なる訳でせうか。

“之は御浄霊をやる方がですか、受ける方がですか?

“やる方の事もございますし、受ける方の事もございまして両方でございますが――

“両方ね、で、どっちが多いですか?

“御浄霊する方が多うございます。

“やる方がね。――それが当り前ですがね。この原因はいろいろあって相手にも依りますよ。特に相手が水性って言ひますか、水の多い人の場合には熱く感じるんです。この御浄霊は火で、火素が中心ですから水が多い程火は盛に燃えるんです。こういふのが一番多いですね。それから患者の方に霊の障りのある事があるんです。例へば信仰で病気を治さうとする場合、「信仰でなんか治るもんか、医者にかゝらねば絶対駄目だ」っていふ者が近親者に居たりすると、その反対した人の生き霊がくっついて邪魔するんで患者が熱くもならないし、こっちも熱くならないんです。それからこっちの霊の障りの事もありますよ。こっちに邪魔が入っていろんな風に迷はしたり、邪魔したりする霊が沢山ゐますからね。こんなのにやられると火素の出が少くなるから熱くならないんです。まあ、いろいろありますがね、大体そんな訳ですよ。

“別に気にしないで宜しいでせうか?

“えゝ、気にしなくていゝですよ、一々気にしてたら骨が折れて仕方がない、たゞ無意識になってやってればいゝんですよ。

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“神様に御願ひ致したい事が沢山ございますが、毎日幾つもの御願事をしても失礼には当らないでせうか。

“幾らでも構ひませんよ。幾ら御願ひしたって失礼にはなりません。第一、失礼だと思ふ事が失礼ですよ。神様は百でも千でもちゃんと御聞き分けになるんです。数は問題ぢゃありませんよ。若し数が多くて差支へるんだったら浅草の観音様なんて骨が折れてかなひませんよ。毎日何千て信者が御詣りするんですからね。

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“御軸の御祀り替へをさせて頂きます時、今迄御祀り申し上げた御軸に、御供へ物を致し、御祀りし、御礼を申し上げるべきと存じますが如何でせうか。

“それはそうですね、今迄の御礼をしなければいけませんよ。

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“大黒様は沢山御祀りしてもよいとの御言葉でございましたが、沢山御祀りする場合矢張り床の間が宜しいでせうか。

“大黒様はそんなに沢山なくちゃいかんていふ事はありませんよ。多いのがいゝんなら百も二百も並べなくちゃいけないぢゃないですか。一つでいゝですよ。たゞ余り小さいのはいけませんがね。床の間に丁度いゝ位の大きさでなくちゃあね。だからこゝでもあれ一つですよ。多い方がいゝなら、大黒様をこの辺に一杯ぶら下げておきますよ、御雛様みたいにね。(笑声)

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“床の間の裏手が便所になってゐる家がよくありますが如何でせうか。

“差支へないですよ。そんな事を言ってたら御祀り出来やしない。こんな家は沢山ありますからね。便所の中はいけませんが、(笑声)壁があればいゝですよ。(笑声)

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“因縁のあった蛇や猫を御祀りする場合、その位置はどこが宜しいでせうか。

“家の外で祀るんですね。庭に丁度適当した様な処があるもんですよ。勿論人の踏まない所で、浄い所を選ぶんですね。向きはね、その家に光明如来様を御祀りしてあれば、光明如来様の方へ向ける様な向きにするんです。

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“十八才の女子、十四才の時に月経が始まりましたが、月経の期間が一ケ月ばかり続きます。之はいかなる訳でせうか。本人は顔色蒼白の外に別状ありません。

“之は月経が少いんでせうね。出が悪いんでせう。血は喇叭管を通じて子宮に入るんですが、その管が細いんで手間がかゝるんですよ。之はおなかに毒があるんで、その固りが管を圧迫してるんですよ。だから、おなかを溶かせばいゝ訳です。その元は腎臓ですね。又こういふ事もあるんですよ。血が濃い、つまり毒が多いんですね。血っていふものは、いゝ血になると稀薄になって通りがいゝんですが、血が濃くて濁ってると循環が悪いんですよ。濃い血は粘るんでね、ほんとは濁りのないサラサラしたものぢゃなくちゃいけないんです。さういふ血の悪い人はね、信仰に入って浄霊を受けて、又多くの人に浄霊して上げて浄まればいゝんです。

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“生前に戒名を頂く事は如何でせうか。

“間違っちゃないですが、死んでからでもいいんぢゃないですかね。(笑声)間に合ひますよ、死んでからでも。(笑声)死んでからでは間に合はない様だったら頂いたらいゝでせう。まあ死ぬ前から棺桶を用意する様なもんですね。(笑声)

“仏滅になると、現在沢山ある寺院はどうなりませうか。

“之も言へませんね。お坊さんでも来てると怒られますからね。さういふ事を言ふと、こっちでやる様に思はれますしね。別にこっちに悪意はないんですが、自然にそういふ事になればなるんです。だから、こっちの知った事ではありませんよ。お釈迦が仏は滅するって言ってますしね。又そう言った所で、お釈迦さんにも責任はないんですよ。だから、今度暴風雨が来るとか、低気圧が来るとか、気象台が予報しますがね、気象台は予報するだけで、気象台がそれを起すんぢゃないんですからね。(笑声)こゝのとこを人々はよく間違へるんですよ。

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“寺院の本堂に御額を掲けさせて頂いて宜しいでせうか。

“あゝ、これは結構ですね。

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“その人の霊には判ってゐる事でも、その人の頭脳にははっきり判らない事が沢山あると存じますが如何でせうか。

“之はどういふ訳でせうかね。霊はその人に入ってゐるものなんですがね。

“例へば霊は何回も生れ変ってゐるのに、現在その人の頭脳には前世の事が判らない訳でございますから、そういふ事が言へるのではございませんでせうか。

“えゝ、前世の事は判らないですよ。判らない様に神様は作ってらっしゃるんですよ。又前世の事が判っても都合が悪いですよ。よその人の細君を見てね、「あ、あいつは前世で俺の女房だった」なんてね。(爆笑)細君ならまだいゝけど、前世で恋人だったりしたら困りますよ。(笑声)

“例へば、生き霊が憑る場合に、今生き霊が憑ってゐるといふ事はその人の霊には判らない訳でございますか?

“えゝ、霊には判らないんですよ。

“この事は高級な神仏が人間の御姿に御生れになって居られる場合にも言へるのでせうか。

“之も判りませんね。私なんかもそんな神様が憑って居られるって言ふ事はなかなか判らなかったもんですよ。何か神様に弄(モテアソバ)れてゐる様な感じがしょっちゅうしたもんですよ。ま、いろんな事で知らされてはっきり判って来たんですがね。

“例へば、大先生様に御守護を御願ひする場合、大先生様の御頭脳にはその御願ひ事が御判りにならない訳でございませうか。

“私の事ですか。えゝ、私には判りませんよ。いちいち判ったら忙がしくて大変ですよ。それから霊界にも私の信者が沢山ゐてね、私に御願ひ事をしても、その信者が大抵片附けてしまふんですよ。それからその人の守護神が働きますしね。

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“二毛作はいかゞでせうか。

“結構ですよ、出来るだけやったがいゝですよ。二毛作は暖い所がいゝですがね。寒い所でも工夫によっては充分出来ますよ。麦と米と両方作ればいゝ。

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“歯を磨くのに塩を用ふるのは如何でせうか。

“結構ですよ。薬の入った歯磨きより却って塩がいゝですよ。薬の入ったのは歯が弱りますからね。ハッカの入ったのも歯が弱りますね。その点では塩が一番いゝでせう。

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“分骨はいけないとの御言葉でしたが、既に分骨してしまったのは如何致すべきでせうか。

“してしまったのは、それでいゝですよ。ただ霊は嫌ひますがね、霊ぢゃ骨をどうするって事も出来ませんからね。

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“観音院○○居士の戒名を頂きましたが、観音とあっても差支へないでせうか。

“観音院っていふのは院がついてるから、観音といふ意味ではありませんよ。観音の家の事ですから構ひません。このまゝでいゝですよ。

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(補遺―第四号所載の「御節句の意味について」の御伺ひに対し、別の御面会日に次の如き御言葉を頂きましたので、既載の分に追加させて頂きます)

“……それから桃といふのは、季節的にその節句の時期に咲くし、又若い処女の様な感じのする花だから、それで用ゐるんでせう。五月の端午の節句の方はいろいろに言はれてますが、一つには男が出世するといふ様な意味があります。鯉のぼりを立てますが、あの鯉はね出世を現すんです。昔、支那に登龍門といふ門があって、その門まで鯉が泳いで登って行くと、あとは大きな川になってゐる、といふのです。その外の事は昔の武家時代の風習などから作られたものでせうね。それから御雛様はね、ごく昔は紙で作ったもんなんです。今でも紙雛っていふのがありますね。そしてその雛を――まあ、いろいろ話したい事もありますが、時間がないからこの次にしませう。

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放送に対する抗議文

去る一月二十五日放送“私達の言葉”中、「迷信邪教に就て」と題する本教団を対象とした言説は、余りに荒唐無稽と虚構にみち、放送の如き全国的に影響する機関である以上、本教団の信用を傷つける事甚大にして到底黙視するに忍びず、断然当局の責任を問ふものである。公共事業としての特権を有する放送事業としては、最も慎重にその種目を取扱ふべきにも係らず、軽率にも誣告者(ブコクシヤ)に味方する如き行為は許すべからざる罪悪である。実際の迷信邪教に対し、厳正なる批判の下に社会に警告を与ふる事は、吾らも大いに多とする点に於ては敢て人後に落つるものではない。けれどもそうでない非迷信邪教をも何等の調査も行はず迷信邪教と断定する事は赦し難いのである。然し、本教団数十万の信徒中一人二人の脱線者の出づる事は避け難い処で、之だけでその教団全般を律する事は余りにも軽率の譏りを免れまい。例へば一人の不良学生をみて学校全生徒を律するのと同様であらう。忌憚なく言えば、投書家の悪意に満てる独善的言説が許されるとすれば、今後或団体の社会的信用を傷つける目的の下に放送局を利用する輩の出づるやも知れずとすれば、放送事業なるものは社会悪助長の一役を果す事とならう。投書家の言説が一種の悪意を通してみたる批判である事は随処に窺はれる処で、その中の二、三を摘記してみよう。「日本人は後二、三年で死に絶えて了ふ、其の時観音様の御光を戴いた人は救はれる」との事は、本教団に於ては予言は固く禁じてあるから、右は捏(ネツ)造か、又は本教団以外の者か、本教信者であるとすれば異端者か或は頭脳の欠陥者であらう。

「寒暖計云々」は吾等初めて聞く所で、全然本教々義とは関係がない。次に教修料に関してゞあるが、千参百円は講師の手当、入信料、維持会員の会費、バッチ代、書籍代、出張旅費、旅館宿泊費等含まれて居り、最近は物価の値上りの為遠近共相当の増額になってゐる。又薬剤に関しては病者がよく言ふ処で、それは薬剤多用者が難病の場合、本教に入信快癒し喜びの余りよく発する言である。霊の憑依に就ては近来欧米に於ても盛んに研究実験されつゝあり、本教ひとり言ふのではない。

「狐霊の憑依」は事実で、之を信じない人は何ら触れた事のない無経験者の言である。そうして本教団の信徒中には知名の政治家も大学教授も博士も著名な文筆家も裁判官も高級警察官等多数を包含してゐる。之等インテリやジャーナリストが愚劣な迷信邪教を信ずる筈がないではないか。故に、一片の低劣野卑なる投書家の言を信じて放送するとすれば、貴局に於てのあまりに人なきを歎ぜざるを得ない。

最後に附加えたい事は彼のキリスト教であるが、キリスト在世中は迷信邪教として迫害された結果、キリスト御自身が贖罪の為とは言ひ乍ら、茨の冠を被せられ刑場の露と消え、残った十一人の使徒の努力によって二千余年の歳月を閲し、今日の大を成した事実は深く考へなければならない処であらう。以上の如き理由を以て、貴局がその過失を認めそれに対する責任を負うべき義務がある。その事を具体的に言へば、謝罪の意を表すると共に今後本教団に関する放送は、事前に於て本教団の承認を得る事の誓約書を提出されん事である。何となれば一方的の言説を信じて、他の一方善意の第三者に被害を与へる事は民主的に相反するからである。

最近本教団発行の「信仰雑話」、雑誌「地上天国」を進呈したいから是非御覧を乞ふ次第である。御参考迄に申し上ぐるが、近来本教団の異常なる発展を嫉視し、他宗教の一部の者、又は医家の或者等が本教団に不利益な言説を吐くやに聞及んでゐる。由来、日本に於ける言論機関、又は放送者は新興宗教に対し些かの敬虔さもなく、勝手放題な侮言を以て批判する傾向のある事は甚だ遺憾である。而もそれらに対し被害者の多くは泣寝入に畢(オハ)るので、彼等は之を奇貨とし善悪無差別的に批判の対象とする。此態度は信仰の自由を認める民主々義を無視するの甚だしいものといはなければならない。本教団に於ても此点に鑑み、之等謬れる反民主々義者に対し出来るだけ警告を与へ矯正する事も社会向上に資すべき宗教人の一義務と観ずるのである。

(光話七号  昭和二十四年五月十三日)