十一月二十八日
“注射により死亡する人が大分世間にありますが、之は注射薬の中に所謂毒素があるためでございませうか。
“然しね、薬の中に毒のある訳はないでせう。毒なんかゞ入ってゐれば当局でも許さないでしょうしね。今度の京都のヂフテリヤ事件だって大阪の「日赤」で作ったのだから毒なんかある訳はない。まさか「平沢」なんかはゐないでせうから。――そこなんですよ。大体薬といふものは、私がよく言ふ通り、ないんですよ。若しあるとすれば米が薬です。米がなければ生きられないから。杉田玄白は「薬とは毒を以て毒を制するものである」と言ってますが之は至言です。毒で体を弱らせて浄化を抑へるのが薬の効能です。――最近は霊界の浄化力が強くなって来たので注射液が体の一ケ所へ寄ってくる。そのためにいろいろ障害が起るのです。肝臓出血などはそれです。だから毒血が局部的に集ってくる、と発熱して苦しみが起るのです。浄化の弱い時代は注射薬は体全体に廻りそれから局所へ集ったのだが、今はそれが全身に廻らないうちに一部へ寄ってしまふのです。
“注射直後、体が硬直することもございますが――
“あれは血管等へ注射する場合、その場所が悪いのです。その結果異物が心臓へ行くから死ぬのです。
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“個人的又は団体的悪宣伝に対し、私共は宗教人としてよい宣伝を以て之に報ゆるべきでせうか。
“間違ひに対して説明するのは構はないが、打棄っておいた方がいゝです。それに災ひされて萎縮する様では未だ駄目ですよ。悪口を言はれるのは結構なんです。悪口は浄化で、それでこっちの罪が消えるんです。
“悪宣伝の結果、悪い支障が次々と起って来る心配がありますが――
“起って結構です。之は今迄世間で言はれてゐた事とは反対です。――大森時代、私は人から悪口を云はれると笑ったものです。大本の御筆先に「悪く云はれてよくなる仕組」とありますが旨く云ってますね。――いろいろな宗教がありますが初めからよく云はれた宗教はありません。今は世界的なキリスト教だって初めは十一人しか弟子がなかったし、然もキリストが死んで十年位経ってから心覚えを書いた、それが今の聖書なんです。それから段々に広まって来たんです。釈迦だけは違ふがあれは印度の皇太子だったからです。天理教の中山みきだって二十何回留置場に入れられ、四回検事局送りになったのです。とも角最初は悪く云はれるものです。尤も今でも天理教を悪く云ふ人はありますが。――
“悪宣伝に対していゝわけをする事は如何でせうか。
“いけないいけない、言ひ訳を云ふ様では野暮ですよ。悪口を笑って通せれば人間が一段出来た証拠です。何か勝負事の様な事でも負けた方がよい。勝った場合には「あいつは負けたんで俺を怨んでやしないか」等と思ふが負ければこんな事はない。だから結局人間は、怨みの霊の来ない様に、感謝の霊の来る様にする事が肝腎です。決して人の怨みを買ってはいけない。これ位霊的に損をすることはないんですよ。
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“「恒産なき者は恒心なし」との格言がありますが、現在の世相に於ても当てはまるものでございませうか。
“之は当てはまります。どうしても、人間貧苦すると碌な考へが出なくつい胡麻化したりする。だから生活の心配のない所まで行かねばいけない。宗教を信じるならそこまで行かねばならない。所が今迄の宗教は体を救へなかったのです。例へば病気で苦しんでゐて、感謝なんか出る筈はないんです。あれは自己を偽ってゐるのです。――今迄の宗教でいふ「さとり」とは「悟」の字を使ひ、諦らめの意味ですが、私のは「覚」であり知るさとりです。
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“大先生様の御人格と、日本の神国思想との関係について御伺ひ申し上げます。
“神国思想はいけません。神国思想と私とは何の関係もありません。――私の事は思った通りを人に話したらいゝですよ。ここで大切なのは私の仕事を考へることです。例へば今迄は人間の寿命はどうにも出来なかった。が、私はそれを延ばす事が出来るのです。だから問題はその事実なんですよ。今迄にも「キリストの再臨」なんて云ふのが時々世に出たが、本当の「事実」がない。三十年程前にも印度に「サンダーシング」といふ三十才位の男が水の上を歩いて渡ったりしたので、キリストの再臨とまで称されたが若死してしまひました。しかし水の上を渡ったりしたって人間や社会には何の益もない。単なる興行師にすぎない。つまり、病気が治ったり、貧苦が解決したりなど実際の効果がなければ駄目です。私は云ふのですが、釈迦やキリストも偉いが人の病気を治せなかった。キリスト自身は多少治したが、弟子にはその力がなかった。又釈迦の死についても本当は伝へられてゐるのとは違ふのです。――
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“御浄霊により病人が霊的動作を表す事がございますが、その御浄霊する先生により或はその土地により相違があります様ですが、之は何故でございませうか。
“之は無論ありますよ。憑いてゐる霊がその先生より上の場合と下の場合があり、上の場合には「お前さんには云へない」といふし、下の場合には「お前さんは偉いから話をする」といふ。狐なんか殊にそうですが、結局それは光の多い人に頭を下げる訳です。――霊が浮くといふのは光により苦しくなって浮いてくる場合と、又霊によっては憑いてから未だ短時日だと浮き易いといふこともあります。土地といふ事には余り関係ないが、土地により霊懸りの多いのと少いのとはあります。狐の親玉なんかゞ居ればその辺には子分が沢山居ますから。
“よく、その先生に力があるからだとか、或はその先生にそんな霊が憑いてゐるから同じ様なのが集まるのだとも聞きますが――?
“その先生によるといふことはあります。が、その人により霊が集まるといふ事はないですね。
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“教導所により治りにくい患者が幾人も来る事がありますが、之はその教導師が何か自己反省すべき点があるためでせうか。或は他に何か神様の思召があるのでせうか。
“神様の思召といふ事はない。すべてを救はれるのが神様の思召であって、思召で治さぬなんて事はない。昨日も話したことなんですが「軍神」なんて事はないのです。今度の戦犯の判決なんかまだ軽すぎます、戦犯のために幾万といふ人が死んでゐるのだから、彼らの犯した罪に比べれば帝銀事件の平沢なんかはまるで「蚤のふん」みたいなものです。マッカーサー元帥がその声明の中で、「之を機会に戦争をなくしてしまひたい」といってゐるのは本当です。こういふ点の判断が日本人はどうもいけない。同情してしまって罪を軽くしようとする。――で、軍神といふ風に人を殺す事を手伝ふ神なんか正しい神ではない。――治りにくいといふのは教導師の頭の働きが悪いのです。急所を当てれば治りが早いが、外れてゐては治らない。中には体全体やればどれか急所に当るだらうといった調子で機関銃式にする人があるがそれでは駄目です。ほんの小さな毒結のため全身的に発熱する事があるが、その時その毒結をやれば忽ち下熱する。
“着物を着たまゝでも急所は判りませうか?
“着たまゝでも判りますよ。どの病気はどの辺をやるかその基準を知る事も大切です。例へば腹の悪い人は背中からやるだけで治ってしまふのです。
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“今迄神道だった人が御道に入った場合、御先祖はどの様に御祀りすべきでせうか?
“御祀りはそのまゝで宜しい。先祖の代から神道ならいゝが途中から仏立講みたいに過去帳にすると先祖は怒りますよ。あれは非常に間違ってゐる。――霊友会では他人の先祖をよく祀るがあれはいゝですね。そういふ設備もあった方がよい。私の所でも他人の仏を大分祀ってます。
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“或人土蔵の白蛇を殺しましたが、之は人間より上でせうか。又祀る場合如何致すべきでせうか。何年位祀るべきでせうか。
“蛇はね、どんなのでも人間より下ですよ。同様にどんな立派な稲荷でも人間より下です。以前或人が稲荷を祀る時「正二位」と書いたので狐が怒ったことがあります。大した手間ではないから「正一位」と書いてやることですね。龍神なんかは余り祀らない方がいゝ、面倒ですから。此の場合はその家か土地の名前をつけて○○明神とし、言葉で「焼け死んだ龍神の方々、御一緒に御祀り致します故こゝに御鎮り下さい」と言ったらよい。御供へ物は月一度霊の好きそうなものを上げればよい。すべてあゝいふものは御祀りは月一回するのです。又御宮は、はすっかいになってもいゝから光明如来の御祀りしてある方へ向けた方がよい、光を浴びて早く向上するから。で、三年も祀ってやればいゝでせう。そうすると龍神は昇天して行きます。昇天の時はよく夢なんかで知らせがあります。
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“一、山間を開墾中無縁仏を掘り出した場合、
一、自分の所有する田畑から変死体が出た場合、
右の場合の処置につき御伺ひ申し上げます。
“無縁仏はその場所の小さくは三尺四方、普通は六尺四方の平な所へ立てゝやって、時々花や供物を上げてやれば大変功徳です。――田畑の変死体は自分の菩提寺に祀ってやればよい。又その位牌は「諸霊位」としてやればよいでせう。
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“霊界とは宇宙の何処に存在するものでせうか?
“人間の住んでゐる所に霊界はあります。又地球上或高さまでは霊界はあるのです。北極や南極の様に人の住まぬ所には神界も仏界もない。普通は人間の住む所にあると思へば宜しい。
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十二月八日(水)
“「御浄霊は急所をやれ」との御言葉でございましたが、急所といふ様な体的な面と信仰の面とは何れに重点をおくべきでございませうか。
“之は体的な面に重点をおく可きです。といふのは霊的に曇りの多い箇所と、体的に毒の多い箇所とは同じだから。つまり霊が曇ってゐる処へ邪霊がつくんです。だから体的にみた方が判りいゝのです。――毒のある所へ邪霊がつくといふことは御浄霊をすると霊が逃げることがあるが、その場合必ず毒のある所へ行くからよく判ります。
“昨年宗教になりましてから、着物も脱がず又手もふれませんので急所の発見が難しく、殊に最近は以前の様な講習も致しませんので、会員にも急所といふことが徹底出来ない様に存ずるのでございますが――
“そう、そういふ点は非常にあります。だから首の周りや肩などには触っても構ひません。この触るといふことは熱の有無を見るのであって、急所も大体上半身が主です。で、第一の急所は、耳下腺と頸部淋巴腺、第二は後頭部です。患者の額に触ってみて熱い時はその原因は額の奥か後頭部か耳下腺にあるとみていゝ。だから先づ額を御浄霊してみるんです。暫くやって一寸でも軽くなり熱が下ってゐれば額の奥に原因があるとみていい。それでも下熱しなければ耳下腺をやってみる。未だ駄目なら後頭部、それでも下らないならば肩をやる。この順序にやってみれば熱性病は十中八、九いゝです。こういふ箇所に熱が出るために咳や痰が出たり、頭がぼーっとして憂鬱になったりするのです。――又手の病気は肩が大切で、中風で手の利かないのも、しもやけも肩をすることです。しもやけなんかは手の局部だけやったのでは一時よくなっても又始ります。
“肌を脱がすのは如何でございませうか?
“最初から肌を脱がせては変だが馴染になってからならいゝでせう。そこは臨機応変にやったらいゝです。――それからもう一つ肝腎な事は腎臓から背中にかけてゞ、肩胛骨の間から背骨の両側に土手の様になってゐる奴が曲者で、ゆううつ症や胃の悪い人はそこに原因がある。勿論この源は腎臓であり又腰や腹の痛い人は腎盂であり、之は腎臓の少し下で横から圧すと大抵の人は痛むがこゝに熱が出易いのです。腰、腹が痛んで転る様に苦しんでゐる人でもこゝをやればぢきに治ります。
“盲腸炎や肝臓の悪い場合は如何でございませうか?
“無論うしろです。背中からやれば治ります。下腹の痛む人は腰骨の一寸上の凹んだ所、胃痙れんなんかは肩胛骨の所です。
“患者を寝かせて御浄霊しても宜しいでせうか?
“えゝ、構ひません。病気によってはねかしてやったらよい。寝かしてする場合でも手は五寸から一尺位離したら宜しい。
“手を離す距離はそれ程気にしなくても宜しいでせうか?
“それは気にかけなくてよい。――仰向きに寝たまゝで動けない人の背中をする場合は、その患部に手をつっこんでぢかにあてゝやればよい。然しぢかにつけてやるのは宗教的でないし又効果も離してした方がいゝです。
“喘息なんかは如何でございませうか?
“喘息は御浄霊すると苦痛が軽くなるから判ります。そこが急所です。
“観音様、大先生様におすがりするといふ事は如何考へさせて頂けば宜しうございませうか?
“急所に当てる方が治り易いのであって、観音様や大先生にすがるといふ事は、悪くはないがそれが余りしつっこくなると自力になってしまう。要は自分は観音様の道具だといふ想念で御浄霊をすればよいのです。霊にも体にも余り傾らない事が大切であり、治病の一般原則は霊を患者の体に深く入れてやることです。例へば胸をやる場合は背中を狙ってやる気持で御浄霊をすればよい。もう病人自身に治病力があるのだからそれを利用したらよいのです。
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“世間ではよく弁財天や稲荷等を自分の守護神とする人がありますが、之は信頼出来ませうか。又これらの守護神は本副並に正守護神とどの様な関係にあるのでございませうか?
“之は信頼出来ます。そしてその守護神は御願ひをされると御利益を授けない訳にゆかないのです。御利益を授けないと本分を尽さぬことになるのです。然し大体力がないから邪神に負けてしまひ勝ちです。之は正副守護神とは別であって、正守護神に力を増してくれたり、副守護神に命令を下したりはしてくれます。だから守護神と云っても間接的守護神です。○○稲荷では守護神を頂くといふ事をしますが、之は矢張り御守りで、結局狐の眷族がつくのです。眷族なんかは何万、何十万あるか判りませんから。そしてそれがいろいろ云ふことを聞いてくれるのです。然しそれも例へば芸者が旦那に会へます様にといった風な低級な願ひを叶へてくれるが、正神系の神様は決してくだらない願事は叶へません。これらの守護神は体に憑いてます。まあ居候ですね。
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“礼節と順序を重んずる事が此の御道の精神と存じますが、会員や資格者が簡単にその所属を変へることは如何致すべきでせうか。
“所属の事は今度はっきりしますが、あの先生は気に入ったからつくとか、あの先生は気に入らないから離れるとか云ふことは大変な間違ひで、神様から見ればけしからぬ事です。私は今迄そういふ事を云ってくる人には黙って許してゐましたが――で、今度は地域的に所属をきめる事にしました。之は本部と三ケ所の分所があり、分所に分会が所属し、分会には支部が所属するのです。支部長は教導師であり、教導師は信者を百人以上作った人か、三万円以上献金した人か、又は支部長の推薦によることゝし、教導所を十以上有するものを分会とし、分会十以上を分所とすることにしました。矢張り功労のある人が上に行くのが本当ですから。
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“混血児の御霊はどちらの国籍でせうか。
“之は父方です。
“男女同権と申しますが?
“男女同権といっても男は霊であり女は体ですから、矢張り男の方が上です。
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“葬儀の際、帰幽した御霊(ミタマ)に上げる祝詞は天津祝詞でせうか、或は善言讃詞でせうか、又は両方上げるべきでせうか。
“之は両方が本当です。が、神道には別にその為の祝詞があるからそれを上げればよい。普通は式が神式なら式のあとで天津祝詞、仏式なら御経のあとで善言讃詞を上げれば宜しい。この道の信者が集った時は皆で上げるのが本当です。
“それは神様に上げるのでせうか、亡くなった御霊に上げるのでせうか?
“神道ではなくて亡くなった霊に上げるのです。
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“歴史によりますと、聖徳太子の御代の仏教芸術や元禄時代の庶民文化の様に今日でも及ばぬ程のすばらしい芸術、文化が発達致しましたが何か特殊の意味のあることでございませうか。
“之は私も始終不思議に思ってゐるのですよ。実に今の人よりも余りに巧みなのです。今のものなんか見られた態ではない。絵なんかも今の画家は美術工芸家であって、描くのではなくて色を塗るんです。いはゞ「ぬり絵」です。あゝいふのは輸出には向くでせう。――西洋の油絵も又飛んでもない横道へ入ってゐる。印象派なんかも後期まではよいが、それからの絵かきは主観だけを描いて客観はまるで無視してしまってゐる。だからまるで通用しない貨幣です。芸術の目的は美によって人の心を高め、品位を向上させる事だが、あれでは却って人の心を堕落させてしまう。あんなのは美ではなくて醜です。人間を描いたって人間には見えずまるで化物(バケモノ)です。去年読売新聞がやった西洋美術展覧会の絵の複写を見ましたが、全く西洋にも絵はなくなりましたね。――私が最近手に入れた人形は慶長時代の作ですが、今の人のなんか足元へもよれないです。昔の「仁清」の陶器なんか感覚が新しい。今の物の方が却って古くさいですね。
(右の御人形を拝見する)
“此の「マゲ」は慶長時代の結(ユ)ひ方(カタ)で、之は当時の猿楽師(サルガクシ)の姿です。顔なんかも品があって柔いし体つき、手足の姿勢もいゝです。又支那の周時代は銅器が発達したが今から四、五千年も前のものでも実によく出来てゐる。今の銅器は「イタイハ」(?)は名人で、あれなら私も買ひますが之は周の真似をしてゐるのです。又「古代ぎれ」(織物の事)は今は「((*1))タツムラリュウヘイ」が名人ですが、この人のでいゝなと思はれるのは大体正倉院の模倣です。いゝ「きれ」と云へば「古代ぎれ」です。その時代のきれでした表装なんかも実にいゝですね、進んでゐるのですよ、技術も。金襴(キンラン)のきれから織り出した具合なんか今は出来ません。「仁清」の花瓶をもってますが、その上の方が八角で下の方は円くなってゐて、その曲線が直線に変る事も今は作ることが出来ないのです。――音楽だってさうです。どうも近代のにはいゝのがない。「ベートーヴェン」や「バッハ」なんかも百年以上も前のです。今名曲と云はれるものは殆ど百年位前のです。「ドビッシイ」なんかどうも興味が持てませんね。長唄でも新曲は聞けません。越後獅子、勧進帳にしても殆ど明治初年迄ですね。こういふ点が全く不思議なんですよ。この原因としては唯之だけは云えるでせう。それは種痘のため体が弱り、根気がなくなったことです。従って今の人は昔の人程に根気がなく中途で諦らめて了ふのです。昔の俳優の修業なんかも今の人には真似も出来ない。昔は師匠は唯教へるだけではなく、弟子に自分で工夫させたのです。今時こんなことをしたら弟子は皆逃げてしまうでせう。忠臣蔵の定九郎をやった或る役者も、――名前は忘れましたが――いろいろ苦心してゐたが、或日飯屋に入ってゐると俄に夕立がやって来た。所がそこへ一人の浪人風の男がかけ込んで来た。で、それを見た役者が「これだ 」とわかり、早速そのかけ込む姿を舞台でやった所大変うけたさうです。――今の人にはこんな根気がない。実際種痘が出来てから名人が出ないんですよ。それから又生活のためにそれぞれの道に苦心するだけのいとまのない事もありますね。
((*1)) 龍村平蔵
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“夫婦、親子等の間で或人が他の人の犠牲になる事がよくありますが、この様な「人間関係の犠牲」といふことはどの様に判断致すべきでございませうか。
“一寸抽象的で判りにくいが――
“生活能力もなく頼りにならぬ夫に永い間仕へた妻が遂に耐へられなくて別れて了ったといふ場合でございますが――
“それはね、その妻に犠牲になるだけの罪があるのです。だから或時期まで待つべきです。我慢して待ってゐれば自然に神様が主人と別れる様にしてくれるのです。その場合、信仰心があるとその間の苦しみも軽いし、又その時期も早く来るのです。
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“或大学生、健康で身体は別に異状はないのですが、つい無意識に人の物を盗み、注意されて初めて気がつきます。病院で診断をうけた所脳に大きな腫物があるとの事ですが、此の御道で救はせて頂けませうか。
“之は訳なく治りますよ。医者にかゝっては大変です。頭の内部に「おでき」の出来ることはよくありますが、外部から御浄霊をすれば目脂や鼻汁になって出ます。
“霊的な関係はございませうか?
“霊が憑いて毒が集まることもありますが、然し普通は唯毒が寄るのです。
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“今迄の偉大な西洋古典音楽などでは、中に偉大な「悲哀」をもってゐて、それが人々を感動させるものですが、地上天国になると大きな悲哀はなくなります故、芸術も明るく朗らかなものばかりになるのでございませうか。
“之はこの通りで、あくどい刺戟はなくなって明朗な脚本になります。悲劇なんかは地獄を描いてゐるのですが、こっちも地獄へ堕ちてゐるものだからそれで慰められるのです。今迄が封建的な生活だったので圧迫される筋のものを好むのです。この点はロシヤ文学なんか殊にひどく、国民性がよく出てゐます。矢張りアメリカが一番明朗です。あの「ヴォルガの船歌」にはロシヤの帝政時代の希望のない生活がリズムによく出てゐます。「ベートーヴェン」も殆ど悲痛です。耳が悪くなってから名曲が出来たと云はれますがその通りです。「ベートーヴェン」にはいゝ所もあるが、私はアメリカのものゝ方が好きですね。
“「さび」などは如何でせうか?
“「さび」と悲哀は又別です。之は日本人だけのものです。建築でも木膚(キハダ)を鑑賞するのは日本人だけです。支那でも西洋でも皆色を塗ってしまう、然し最近はアメリカなんかで一部分判りかけて来ましたね。――「さび」は「茶の湯」から出たのです。
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“一、麻邇(マニ)の玉、如意(ニヨイ)の宝珠(ホウシユ)、二、胎臓界、金剛界、の意味につき御伺ひ申し上げます。
“神道では麻邇の玉、仏教では如意の宝珠といふので玉とは魂の事で絶対力の意味です。之は今まで世に出たことがなかった。で、本当の事を云ふとおかしいが、之は私のおなかの中に在るのです。だから私はいろんな事が出来るのです。人を治すといふことも、キリストは僅に十二弟子にしかその力を授けられず、釈迦とても往来で急病にかゝってなくなったのですが、之は自分の体すら治すだけの力がなかったからです。私はキリストと違って何万人でも「人を治し得る人」を作る事が出来る。この働きが麻邇の玉なのです。胎臓界は「弥勒胎臓」といって「弥勒」が未だ出現しない時代の仏教で、夜の世界の事です。金剛界は昼の世界で、金とは太陽の光の事であり、「弥勒下生」後が金剛界になるのです。
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“左きゝ、右きゝについて御伺ひ申し上げます。
“左は霊で右は体です。で、体を使ふから右であり右きゝが当然です。だから釈迦が右手を上にあげてゐるのは反対です。
“左きゝの方が細工物など器用だと申しますが?
“あれは左甚五郎がそうだったから云ふのですよ。左きゝには霊が裏がえしになってゐるのもありますよ。
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十二月十八日(土)
“時節柄、政治、戦争、大浄化等につきまして、大先生様より御言葉は頂けないことと存じますが、更に御指導を頂くには適当な時期及場所をえて御伺ひ申し上げるべきでせうか。或は平常此の御席で承った程度を承知させて頂けば宜しうございませうか。
”こゝで言った事だけでいゝです。第一他の時に特別な人だけに話をすると不公平になります。「あの人に話して俺には話してくれない」なんて云はれますから。それに神様には秘密がない。何時でも、又誰にでも話の出来るべきものですから。――智慧証覚の進んだ人なら私の言葉の奥も判る筈です。そこ迄行ってない人には言葉通りしか判らず、「ボンクラ」は言葉の半分位、もっと「ボンクラ」なら三分の一や五分の一位しか判らない。だから言葉の奥まで判る様になることが必要なんです。大浄化が来て浄められゝば綺麗になるのです。それは体の浄化と同じ事です。段々転換して昼の世界になるにつれて徹底した大浄化が来て政治なんかもよくなり、善の政治になります。善の政治とは何か――といふ事は智慧証覚があれば判るでせう。――
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“或る教導師が誠意を以て御浄霊致しましても患者が死亡してしまった場合、それは寿命か不自然死か、不自然死ならばその患者の罪か、又は教導師の無経験乃至不徳のためか、はどの様に判断致すべきでございませうか。
“之は患者に責任があります。救はるべき資格がないのです。教導師が頭がよければ急所も発見出来るが患者に罪があるとこっちの頭も働かず急所の発見も出来なくて死んでしまうのです。人から騙されるといふ事も騙す方が悪いといふのは半分です。騙される方も騙されるだけのくもりがある。そして寧ろ騙される事によりくもりが除かれるのです。――治り難いといふ事だって同じです。――又誠意だけでも駄目です。矢張り智慧証覚が必要です。両方なければ駄目ですね。
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“阿弥陀如来は現身を持たれた事と存じますが、文献等残ってゐない様に思はれますが何故でございませうか。
”之は残ってますよ。阿弥陀如来は法蔵菩薩といって釈迦の弟子――直弟子ではないが、何ですね、釈迦の後輩ですね。そして「自分は西方へ浄土を作るから仏になったものをよこしてくれ」と約束して浄土を作ってから阿弥陀如来になったのです。だからその時は現世に浄土を作ったのかも知れませんね。そこで本願寺の信者達は死ぬと浄土で阿弥陀様のそばへ行けるといふので、私はよく「では死んだら印度へ行くんですね」と云ったものです。日本にも阿弥陀様の分身、出張所があります。先年私は善光寺へ行きましたが、その時阿弥陀様がゐて「もうぢき帰るから日本にゐる間は余り悪く云はないでくれ」と云はれたのでそれから私も余り悪く云はぬ様にしました。
“観音様の文献は如何でございませうか?
“ありますよ、印度の補陀羅迦山(ホダラカサン)上に金剛宝座をしつらへ、観自在菩薩が結跏趺坐(ケツカフザ)し二十八部衆を従へて説教するとあります。
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“観音様と天理王尊との御関係について御伺ひ申し上げます。
“天理王のは観音様です。印度の伝説では三千年目に西王母の国に桃の実が一つなり、その実は転輪菩薩でそれが世を救ふと伝へられてますが、その転輪菩薩が観音様であって、天理王は十柱の神を総称してゐますが、それは観音様のいろいろの御働きの表徴です。
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“大黒様に礼拝する場合何と申し上げるべきでせうか。
“たゞ御辞儀するだけでいゝですよ。
“願事をするのは如何でせうか?
“していゝですよ。うんとお金が入りますようにと願ったら宜しい。――金が入るのは結構だが大事なのはその使ひ途ですよ。神様の事とか何かいゝ事に使ふことが大切です。
“毎日御飯等御供へすべきでせうか?
“御供へは毎日はしなくてもいゝです。月に一度観音様の御祀りの時に一緒にしたらいゝ。
“山形地方では「甲子(キノエネ)」に大黒様を御祀り致しますが?
“あれは「甲子大黒」といって別な意味のある事です。
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“御姿と御書体の御軸を両方掲けさせて頂く場合、如何致したら宜しいでせうか。
“一つ床の間へ両方掲けるのはいけません。本当は字は霊だから御書体の方が上です。だから御神体としては書です。御姿は次の部屋がいゝですね。
“私宅では二階へ御姿、階下へ御書体を御祀りして居りますが?
“それは反対だ、菩薩より如来の方が上なんだから。――掲ける場所がない時はしまっておけばいゝです。
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“肺結核と肺壊疽との相違について――結核は霊的と伺って居りますが、壊疽も霊的でせうか、又は薬毒でございませうか。
“結核は出すべき痰を出さぬためなるが、肺壊疽は肺に「おでき」が出来るのです。だから治りいゝが痰に血膿が出ます。壊疽の原因は大体背中に多く、発熱し、圧すと痛みがあります。「おでき」の出来る位置は大体肺の外部が多い。壊疽は薬毒のためです。
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“或特殊料理やで御軸を頂き御祀り致しました所、接待婦が次々にげてしまひます。如何致すべきでせうか。
“おっかないね。こいつは弱るな。観音様の絵か、外の意味の書をかけたらいゝでせう。
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“生後半歳の嬰児、右手のみ小児麻痺にかゝり約二ケ月御浄霊を続けました所、顔色はすっかりよくなり手の握力も大分出ましたが、腕を上下するだけの力がまだ出ません。如何なものでございませうか。
“治ります。首や肩に塊りがあります。触ってみれば熱があるから判ります。そこをよくやってやることです。
“耳の所にも凝りがございますが?
“えゝそれも関係してます。気永にやることです。
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“二十才の男子、三年前から何の原因もなく足首がよく動かなくなり三月程前から御浄霊させて頂いて居りますが余り変化がありません、如何でせうか。
“之は軽い中風状態です。もっと重くなると下へ下ったきりになります。急所を外れてゐるんではないですか、之は。三月もやったら治る筈です。――股をよくやらねば駄目です。又鼠蹊部と腎臓と膝のうらも大切であり、それから内外のくるぶし――圧してみれば必ず痛い所があります。急所をやらなければいけない。的(マト)外れにやってると悪い所が余計悪くなりますよ。
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“他宗教に熱心なもの、又は他宗教に入らんとしてゐる者は、それが白紙になる迄は御教修を受けさせぬ方が宜しいでせうか。
“他宗教を丸っきりはなれてから此の道に入る――といふ様にはっきりしたものでもない。両方信じてゐる中にこっちへ傾く事もありますから決めない方がいゝですね。
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“神の愛に就て御伺ひ申し上げます。
“神の愛は絶対愛です。人間の愛は小さいが神の愛は大きい。――人間の愛の中で自分だけよければよいといふのは利己愛であり一番小さなものです。それから少し大きくなって夫婦、子供等家族愛になり、もう少し大きくなると一族一党に対する愛になるが、普通いゝと云はれるのはこの程度で、更にもう少し広くなると他人の為を考へ、その次は自分の階級を考へる。共産主義者が下層階級だけよくしようとして中、上層階級を攻撃するのは之であり、矢張り限定された愛です。次は一国に対する愛で戦争犯罪者はそれです。彼らは日本だけよくなれば支那人、朝鮮人はどうなってもいゝと考へるもので、戦時中に云はれた「忠君」も同様であり之も又限定された愛です。之に対して神の愛は人類全部――人類だけでなく、獣や虫けらまでよくしてやらうとするのです。神様にもいろいろ階級があるから国家だけの小さい神は矢張り限られた愛になるのです。従って私のは人類愛だから無限に大きい。だから目安をそこへおいてみればあとの事は小さくなってしまうのです。それには先づ利己愛を次にすることが大切です。自分が天国に救はれたいといふ様な事は後廻しにすることです。他の人を救はんとすれば却って自分が救はれるのです。そこが難しい所で普通は「自分は大きな愛だ」と思ってゐる間に小さくなってしまってゐるのです。
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“交霊会の時室内を暗くするのは何故でございませうか。
“明るくては霊の活動が出来ないのです。――明るくて活動出来ないのは邪神か、そうでなければ正でも邪でもないものです。こんなのも沢山ありますから。
“交霊会で死後百日目位の霊の顔が表れ「この霊は向上し浄化してゐるから表れる」と説明致しましたが、之は反対ではないでせうか。
“えゝ、反対ですね。浄化してないから表れるのです。――霊の正邪を見分けるのを審神者(サニワ)と云ふのですが、この審神者がしっかりしてゐないと危いですね。人間に低い霊が憑いたりします。こういふのは外道ですね。――交霊会は英国で頗る盛んです。あれは大いにやったらよい。
“先日ラヂオで交霊会について放送して居りましたが――
“あれは、あんな風に霊の事を鼻であしらう事を以て文化人らしく見せる――といふ迷信にとらはれてゐるのであって問題になりません。或時英国の交霊会に「ノースクリフ」の霊が出て、メガホンを通じて話をした。で編輯長が会ってみた所どこそこにどういふ原稿があるとか、何はどうしろとかいろいろ指図した。果してその云はれた通りに原稿などもあり、愈々新聞事業が旨く行ったので、「ノースクリフ」は死んでからも新聞経営をやった、と云はれてます。
“霊を喚び出す事は、霊界に於ける修業の妨げにはなりませんでせうか?
“それは別にありません。普通出てくる霊は八衢(ヤチマタ)程度で、地獄の霊も天国の霊も出ませんから。だから何千年前の霊だとか、神だとか云っても頭から信用する事は出来ません。
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“夜昼転換の時期に、大先生様が御出現遊ばされたと共に、原子力が発見された事は何か意味のある事でございませうか。
“私は夜昼の転換期に生れて人類を救ふことが使命だが、原子力はその時に発明が実現したのです。原子力は特に私がもって来たものでもないが、段々と昼の世界になるにつれ霊界に火素が多くなるから原子破壊が出来るのです。結局原子力は物質と神霊の中間のものから水素を取り除くので爆発するのです。その力の更に奥は神様です。原子力が発明されたり、私が生れたりする事が時期なのです。
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“新約聖書によりますと、イエスが一片のパンを以て何千人に飽(ア)かしめ、尚余った――といふ話がありますが之は、如何でございませうか。
“こういふ事は一宗の開祖をよくするために後世の人がつけ加へた拵へ事でせう。――キリストは偉い人には違いないが、力がなかった。然しキリストの教へと予言は大したものです。若しキリストが出なかったら西洋は今よりもずっと野蛮国だったでせう。キリスト教が西洋文化の発展に寄与した力は大したものです。――同様に釈迦の教へである仏教により東洋人がいかに大きな恩恵をうけたかは判らない。仏教の「諦らめ」により気持を安らかにし得た事は大変なものですね。
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“近年山形地方では雪が少なくなって来てますが何故でございませうか。
“気候といふものはいろいろの原因により段々と平均してくるものです。ラヂオの発達も之に影響してるし、第一、人間が多く住むと暖かくなるのです。箱根の強羅も以前よりは暖かくなって来た。これは強羅に住む人が多くなって来たからです。山なんかも霧が多いものだが、これも人間が多くなるにつれて減ってくるのです。とも角、人間は熱の固りですからね。
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“三十才の女性、脊髄カリエスにかゝり二年前より背中が彎曲致しましたが、御浄霊を続けますれば治りませうか。
“彎曲してしまったのは一寸元通りにはなりません。然し御浄霊をしてればそれ以上は曲らなくなる。少しはよくなることもあります。あゝいふ風に「せむし」になるのは膿の固りのためです。それ位膿が多いんだから気永にやることです。
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十二月二十八日(火)
“日本観音教と五六七教との関係、及び仏教、キリスト教と対比した場合の名称について御伺ひ申し上げます。
“日本観音教と云ひますが、この「教」といふのは余りよくない、御説教といふ意味になるから。然し普通は「金光教」とか「大本教」とかいふ様に外にいゝのがないので「教」としてゐるのです。五六七教は渋井が今迄五六七会長としてやって来たが、あの人が十の中六、七の成績を挙げてゐる。他の会は全部寄せても三位で「ケタ」が違いすぎる。従って観音教団の中では活動しにくい。思ふ通りにやりたいといふので、一応尤もだと思って別にしたんです。
“別派と考へて宜しうございませうか?
“えゝ別派です。が、「五六七」も「観音」も元は一つです。キリスト教にだってカトリックもあればプロテスタントもある、之と同じです。観音様が縦なら「五六七」は横と思へばよい。結べば一つなんだから。もう少したったら又分派が出来るかも知れないし、又その先は一つになるかも知れません。名称だってさうですよ、時勢に応じていろいろに変るんです。
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“氏神様に御詣りする時は何と申して御祈りすべきでせうか。
“「産土大神(ウブスナノオオカミ)守給へ幸倍(サキハヘ)給へ」でいゝです。御礼を申し上げ御守護を願ったら宜しい。――之も別にそんなに大きな声を出さなくてもいゝ、小さい声でいゝんです。拍手(カシハデ)も打たぬ方がいゝです。之も大きく叩く人があるが拍手といふのはその人の心の表れで大きい方がいゝとは限らない、神様は耳が遠い訳はないから。善言讃詞だって普通の声でいゝ。別に大きな声を出したからどうなると云ふ事もないんです。
“観音様の信者が氏神様に御守護を願っても差支へないでせうか?
“それは構ひません、氏神は氏子を守護するのが役目なんだから。
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“透視術は信用出来ませうか。
“之は信用出来ます、予言なんかは信用出来ませんが。
“或会員が私には高尾山の天狗がついてると申しましたが――
“それは透視ではなく霊視です。透視といふのは例へばこの煙草入の中に煙草が何本入ってゐるかといふ事を中を見ないであてることです。或は「あなたは昨日私の家から帰る時にどこを通りどこを曲って帰ったでせう」といふ風なことをあてるのが透視です。人に何の霊がついてゐるかをあてるのは術ではなく、霊視です。之は確実にあたることもあるしあたらぬこともある。が、全然出鱈目ではないんです。透視は誰でも習へば出来ますよ。十二、三才の頃から仕込むと青年になる頃はかなり能力が出来ます。
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“すぐれた芸術家の中には不遇な人が多いこと、又人格的にどうかと思はれる人があること、之は何故でございませうか。
“之は一時的にはありますが永い間にはないでせう。若しあればその芸術がすぐれてないか又は悪い癖があるためです。すぐれてゐれば必ず世に出るべきものです。私のだって価値のないものならいくら宣伝しても一時的のものです。が、本当に価値があるから発展するのです。以前玉川の上野毛へ移った時も「こんな辺鄙(ヘンピ)な処では――」と云って心配した人もあったが、私は「本当のものなら何処へ出たってよい」と云った事がありました。――芸術が世に認められてゝも運が悪いといふ意味ですか。そういふのは西洋に多いですね。芸術家には不道徳の人が多いがこんなのは神様の方から云へば本当の芸術家と違って悪魔的です。人を愛することや人の迷惑を考へることが少い。唯自分の芸術のみ尊重して社会生活に寄与する事が少い。それが不幸の原因です。西洋の音楽家や文学者にはこれが多いですね。「ヨハン・シュトラウス」なんかは初め銀行家だったが、余り音楽に夢中になって「クビ」になったが、やがてその音楽が皇帝に認められたんですが、それは皇帝も「シュトラウス」と同じ様な境遇だったからです。「ベートーヴェン」なんかはひどいですね、耳は聞えず恋愛は失敗するし、「シューベルト」だってさうでしたね。「ベートーヴェン」のリズムは悲痛から生れたので、聞いてゝも快感はなく暗い感じになります。唯、こっちも暗い気分なら共感はあるでせうがね。――彼の「運命」なんかはいゝんですが、悲痛が出てますね。
“「レオナルド・ダ・ビンチ」は如何でせうか?
“偉いですね、あの人は一寸違ひますね。日本で云へば聖徳太子です。然しあの人はそれ程不幸ではないでせう?大変な宗教家であり芸術家、予言者、発明家ですね。私はあれに似てる所がある様に時々思ひます。「ダビンチ」の絵だって立派なもので、「最後の晩餐」や「マリヤ」は実によく描けてますね。飛行機の原型や潜水艦なんかもあの人が発明してますが、とも角すばらしい天才ですね。アメリカで云へば「エヂソン」みたいな人ですね。――芸術家はなかなか複雑で、その性格なんかこうとはっきりは云へません。北斎は貧乏してゐたし、尾形光琳は金持の息子でその作品にも豪奢な風が現れてますからね。芸術家は人格的にどうかと思はれる事はありますよ。雲右衛門は浪花節を今日の様にした人ですが、所があれ位不道徳な人はない。あれの師匠は浪花亭重吉といったが雲右衛門は重吉の細君と関係して二人で逃げたのだが、これは不道徳極りないことです。弟子が師匠の細君をとってしまうのですから。で、東京に居られずに大阪へ行きそれから九州へ行って琵琶をとり入れて雲右衛門節といふのを作ったのですが、重吉が死んだので東京へ帰って来たのです。だからこの様に人格と芸術とは伴はない事はあります。雲右衛門の節はうまいが私は大嫌ひです。面白い事は外の人の浪花節は私は大好きです。といふのは人格が芸術を通して皆に働きかけるからで、雲右衛門を好む人は人格が堕落します。それは声により霊線が皆に働くからです。下村観山から聞いたのですが、「絵は人格を筆と絵具で表すものである」と云ってましたがその通りです。今迄は本当に人格を通して芸術を皆に伝へる事がなかった。これから人格者が出る訳です。観音教団からすぐれた芸術家が出ることでせう。――然し何ですね、人格者といふと普通は道学者流に一夫一婦で酒も飲まぬ人といふ風に考へ勝ちですが、この考へは小乗であり、大乗的に見ればダラシのない様な人でも人格者は居ます。武者小路実篤なんかは妻があり乍ら地方から出て来た娘を愛し本妻を不遇にした人です。又島村抱月も人格者ですが、唯単に表面だけ見ると不道徳者です。抱月の奥さんは私も知ってますが所謂オカミさん型で、芸術や文学なんかには全く理解がなく主人がきちんきちんと月給でも貰ってくる様な平凡な生活を喜ぶ人なんです。だから抱月とは丸っきり合っこない。これでは二人が一緒に居ては両方共に不幸です。そこへたまたま松井須磨子が現れて二人が共鳴して了ったのは止むをえない事です。「真実一路」の映画を見ましたがあれにもそんなのが出てますね。――一番いけないのは女さへ見れば手を出して享楽の道具にすることです。之が非常にいけないのです。が、抱月や実篤の場合はそうは云へない。之が大乗なんです。
“そういふ場合罪になることは如何でせうか?
“須磨子は罪が軽いですね、主人もないのだから。その代り抱月は罪になりますが、然しそれを償ふことをすればいい。――政治でもそうです。小菅へ行ってる代議士でも大臣になるためには金も使はねばならない。清廉潔白では当選はしませんよ。今、本当に道徳的に罪を作らぬ様な生活をするためには山奥へ行って木の実か草の根でも喰ってなければなりません。今の世の中はそういふものなのです。汚れきってゐる。だから、私がやって綺麗にするのです。そしてそのために宗教が必要なんです。
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“慈悲は正義の裏づけが必要と存じますが、左の項目に於て慈悲と正義との関聯につき御指示を御願ひ申し上げます。
(イ)キリストの「人若し汝の右の頬を打たば左をも向けよ」との無抵抗主義に――
“之はいゝでせう、之位の心持ちなら間違ひはない。之がいゝんだがなかなか出来ないんですよ。大本教祖の出口なほ刀自は人が金を貸してくれと云へばすぐに貸してやる。先方が借金を返す人かどうかには頓着せず、又金を貸したことも忘れてしまう人でした。然しこんなことは現実問題としては無理です。個人ならまだいゝが、殊に国家の間では成立たない。領土を半分とられて、「ではこっちも差上げます」――といふ訳には行きませんから。だから、キリストが言った様な心持でゐて臨機応変にやって行けば宜しい。戦時中滅私奉公といふことがよく云はれたが、之は嘘で、私を滅してしまってはオジャンです。滅するのではなくぎせいにするのならいゝですが。――
(ロ)利己的な人が悪宣伝、悪行為をなした場合、それを見逃してやってはその人に対し無慈悲でもあり、又一面社会的には悪の風習を助長することにもなると存じますが、之は如何致すべきでせうか。
“悪宣伝といっても、神様が人を使って悪宣伝をさせてゐるのかも知れないのです。今度の税金問題でも、私は邪神の働きかと思って調べた所そうではなくて神様がやって居られる事が判りました。だからあれにより却っていゝ影響があっちこっちで起きて来てるんです。――だから信仰が深まるにつれてむしろ反対になって来るべきです。又悪を助長すると云っても、それを人間が抑へたりすることは出来ないんです。それよりも自分の悪、自分の間違ひを訂正する事です。他人の悪を訂正することなんか出来ない。人をどうしたいと希望することはいゝが、行為によってどうする、といふことは出来ないのです。――物事にはやるべき事とやってはいけない事とがあるのですが、普通はやれと云ふとやりすぎるし、やってはいけないといふと全然やらない。食物の味でもそうです。甘みが少いといふと甘くしすぎてしまひ、甘すぎるといふと今度はからくしすぎてしまう。丁度よくするのは難しいのです。だからその物事の程度を考へてすることが大切なのです。それが智慧です。神様にお任せするといっても矢張り程度がある。「人事を尽して天命を待つ」との諺があるが之がいゝ事です。人間として出来る事、すべき事をやってその先は神様にお任せすべきです。だからそれは時所位に応じて変ってくるべきものです。矢張り実篤の言葉に「神の如く強く神の如く弱し」とありますが いゝ言葉ですね。神様だって強い場合もあり弱い場合もある。観音様でも馬頭観世音は口から火焔を吹き目はランランと輝いてます。が、之は畜生道を救ふ御働きを表してゐるのです。いろいろな事を旨く使ふ所に智慧があるんです。一番効果のある方法がいゝのであって、之をみつけるのが智慧です。
(ハ)「ソクラテス」が獄中で自ら毒杯を仰いで死に就いた事も不正に対する抗議かと存じますが如何でせうか。
“さあこれは――賞めていゝかけなしていゝか判りませんね。いかなる時でも自殺はいけない。之は神様に対する反逆になるから。彼は教育家であって宗教家ではなかったから、自殺がいけないといふことは知らなかったのでせう。
(ニ)「ガンジー」の断食も不義への抗議と見られますが――
“あれは「無抵抗の抵抗」といはれるもので印度では仕方のない事でせうね。イギリスも印度に対してはひどい事もしてゐる。或時など何千人といふ印度人を虐殺したこともあるのです。然し「ガンジー」がこの前ピストルで撃たれて死んだのは御守護がなかったんですね。御守護があればあんな事にならずに難を避けられたでせう。観音教の信者になってたらよかったのですよ。――
(ホ)孔子の正義を貫く行動の弱さがその生涯の不遇を招き、支那民族をも弱くしたのではないでせうか。
“孔子のため支那民族が弱くなったとは云へないでせうね。孔子の道徳で支那は救はれたんですよ。今でも論語の影響は大したものです。日本でも西洋文化が入る前迄は論語によってどれ位裨益されたかは判りません。孔子は決して弱者ではない、強者ですよ。――思想の力は強いものです。その点から云へば「マルクス」も強いですね。共産主義を今日程に発展させたのだから。共産主義にだっていゝ所があります。若しあれがなかったら資本家や地主はどれ位人々を苦しめ悪い事をしたか判りません。唯共産主義が天下をとっては困りますが、――四、五年前までは楠正成や吉田松陰なんかはすばらしい正義だったのですが、今ではそれは「戦犯」で判る様に悪なのです。だから正義や悪は時代によって違ってくるのです。従って時代によっても変らない孔子やキリストの教へは大したものですね。
(ヘ)釈迦の正義に対する弱さが印度民族をあの様に弱くし、且仏教のすぐれた教へを以てしても人類が現在の程度にしか救済出来なかったのではないでせうか。
“之はそうです。釈迦は――釈迦だけでなく今迄の大宗教家は皆そうですが――力がなかったのです。それは勿論時期が来なかったからですが、力の根本は霊と体と両方結んだものです。力といふ字も縦横が結んでそれが働きを起したことを表してゐるのです。それがこれからの時代なのです。東西、縦横が結んで力になる、卍といふのがそれですが、今迄の観音様も仏教も卍であり、右進左退((ウシンサタイ))でした。ドイツのナチスは黒地にはすっかいの (ギャクマンジ)で、之は左進右退ではあるが黒地やはすっかいは悪魔の働きを表してゐるのです。これからは左進右退の (ギャクマンジ)((サシンウタイ))になるのです。
(ト)日本観音教団に於きましても総ゆる不正に対する正義感が根強い程幾多の犠牲に耐へ、喜んで地上天国建設の御手伝ひが出来るのではないでせうか。
“此の不正に対する正義感といふのを見ると、正義が不正であり、不正が正義であることがよくあるんですよ。
“例へば、医学の不正に対する正義感といふ事は如何でせうか。
“それは小乗です。何故なら、第一私の道が発展するのは誰のためですか?お医者さんのためですよ。医者が病人をよく治さないからこっちが光るのです。――だからそういう風に大乗と小乗とによって見方が違ってくるのです。又、こいつは悪い奴だと思ってゐても時期が来てすばらしく働く事もあるんです。強羅の観山亭なんかも、以前、玉川の上野毛に家を建てようとしたのを○○といふ人が妨害して建てさせなかった。それでその材料を運んだので出来たのです。あの時は私も一時癪に触りましたが、後になってみれば却って有難い位です。――
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“労働時間について種々論議されて居りますが、健康と労働について御伺ひ申します。
“労働時間は今に一日四時間でよくなります。そういふ方法を今に段々と発表しますよ。農業だって無肥料でやれば一日四時間働けばよい。この間も堆肥を二回やったゞけで一貫五百匁の白菜がとれました。だから万事そういふ風になってくれば朝から晩まで働かなくてもよくなる。
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“死産、流産には何か特殊な霊的な意味がございませうか。
“之はありますね。普通は体的な原因が多い。一番多いのはおなかに固りがある事です。腹の皮が厚いと産めないとよく云はれるけれど、之は腹膜に尿毒が溜ってゐて横に拡(ヒロ)がらないので、力が下へ加はる。それで流産するのです。だから子宮が充分拡がれば絶対流産はしません。それに反して力が上に働くのが悪阻(ツワリ)です。だから悪阻の時は臍と水落の中間をやって上げればよい。子宮前屈や後屈も毒の塊りのためです。それから腹の皮膚によって健康、不健康を判断するのは相当熟練を要しますね。――死産は霊的にはその女に対する誰かの怨霊が憑いて産ませまいとする事もあります。又体的には薬毒で、薬毒が子宮の所へ集るため胎児が発育出来なくなるのです。だから死産は田舎の人には比較的少いのです。
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“子供を授かるには、「一姫二太郎がよい」とよく申しますが何故でせうか。
“之は女の児の方が育ていゝんです。男の子の方が本来間違ひが多く、女の方が健康なんです。もっと突込んで説明出来るが、まあその位にしておきませう。病気にも男の子の方がなり易いですね。
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“御浄霊によれば 肉体の毒素は浄められて体外へ排除されるのに対し、他の霊医術ではどの様になるのでございませうか。
“それは固めるんです。
“自分に引きうけるのはどんな場合でせうか?
“それは霊医術ではなくて「人の道」などの宗教です。
(光話二号 昭和二十四年一月八日)