御光話録  昭和二十三年五月

五月八日(土)

【御垂示】胃癌は食欲がなければ見込みがない。霊界で救はれる様にして上げなさい。

(昭和二十三年五月八日)

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【お伺】天照皇大神、伊都能売大神、国常立命の御関係に就て――

【御垂示】天照皇大神と伊都能売大神は関係あるが、国常立命の方は古い事です。だから関係はないですね。岩戸隠れはつまり素盞嗚尊と争になってね、天照皇大神が御逃げになったんです。それが岩戸隠れで、信州水上山の事であってそこで一生を終られたらしいですね。それから戸隠にも行かれたらしく、こゝから「岩戸」といふ言葉が出たんでせう。後、天照皇大神を慕って方々へ御祀りした。今判ってゐるのは丹波の元伊勢、丹波の綾部、丹後のマナイ神社その他宇治山田等です。

【お伺】夜の世界とは――

【御垂示】天照皇大神の岩戸隠れ以後の時代を言ふんです。伝説によれば国常立命は非常に厳格な神様で、そのためその支配にやり切れず八百万の神々が一致して御引退を願った。結局輿論に抗し兼て御引退になったといふ事になってますがね。此の点は大本教祖の「出口なほ」に国常立命が御憑りになっていろいろ物語られた、それを基にして私はお話するんです。

艮に引退せられ北海道の芦別山に押し込められた。之は本当でせう。之が節分の日で、一般の者はそれから豆を煎って之をぶつける様になったんです。神々は此の煎豆に花が咲いたら出て来てもいゝといふことを言って節分の行事をしたんです。その時国常立命は綾部にも居られたんです。そのためか綾部地方は、鬼は内福は外と逆に言ふんです。ですから之は事実と思えるんですね。国常立命は霊界で閻魔大王になられた。之は非常に苛しい善悪審判の役目ですね。然し厳格一方のやり方では可哀相なので、命は現界で観音様になられた。之は私の解釈です。だから観音様は善悪無差別で慈悲を以て救はれるんです。絶対の慈悲ですね。そういふ訳と思って大差ない。

天照皇大神と観音様とは全然違ふ。天照皇大神は太陽を表現してゐるんです。天に日月星辰があって地に之が写ってゐるんです。正月の「鏡餅」といふのは天が地に写る事を意味してるんです。だから又日月星辰が人間に写り、昔から偉い人を星といふんです。天に木火土金水の星があるから人間にも五人の偉い人がきっとある。天照皇大神は太陽神で、仏界では大日如来です。仏とは全部神様が化けたもんですから。こゝにいろいろと神秘があります。国常立命は神の中の頭梁で引退と同時に家来の神々も引退した。そのあとは邪神が支配することになり、天若彦命がその総大将です。天のじゃくとは之で、天の邪鬼のことですね。人類が邪神に苦しめられるから、一方でその害を防ぐため、国常立命や正神界の神々――正神の中には邪神の方についた神もある――が、出られる時になったんです。仏に化けられたのは皆偉い神々です。が後には仏の中にも邪神についたり負けて了ったのも沢山ありますがね。艮の金神の妻神豊雲野命は「未申(ヒツジサル)の金神」です。

古い時代には世界的にいろいろな御経綸があったんです。日本、朝鮮――昔は陸続きだった――支那等相当交通が盛んだった。国常立命は生れ変っていろいろ仕事をされたと云はれるが之は事実らしいです。陸続きだったことは日本にも象の骨が出たことで判る。象があっちからやって来たに違ない。そして正神が仏になった時、一部の神は仏にならずに龍神になり、日本の近海で時を待つことになった。これが八大龍王で釈迦に封ぜられたのです。九州の海峡、明石、越後と佐渡の間、東京湾の海底で  時を待ってゐた。その他十和田湖にも居ました。十和田湖の龍神が天に昇った時は地震、暴風雨が起り、水が渦巻き、やがて金龍が昇天して行った。之を二、三十人の人が見たさうで、私はその一人から聞いたんです。八大龍王は皆人間になって働いてゐるんです。勿論本人には判ってませんがね。まだ面白い話もありますがその中だんだんに話しませう。

(昭和二十三年五月八日)

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【お伺】狐霊について――

【御垂示】狐霊は沢山居ますね。恐らく何億と居るでせう。日本許りでなく支那、ロシヤにもゐます。ヨーロッパ、アメリカは少い。白人は具合が悪い様ですが、東洋人殊に日本に多い。狐霊が元から守護神としてあるのと、急にかかるのと二つあるがこの区別は判ります。一人に五、六十匹つくこともある。豆粒みたいに固まってゐるから判ります。

【お伺】狐霊に憑かれるのも因縁でせうか。

【御垂示】因縁ですね。以前小山といふ婆さんを治療しましたが、その人は昔女郎屋のおかみをやってゐた。女が少し長く女郎をやってると霊界で狐になる。それで敵討ちにその婆さんに憑いたんです。「大先生を殺すんだ」と云って騒いだり、狐に「今日お前の心臓を止める」とか「今日お前の頭を溶かして了ふ」とかおどかされ、毎日鏡許り見てました。それで、普段は何ともない。だから「小山さん、あんたは正気の気狂だ」と云って笑ったもんです。半年位手元に置いて治療しつゝ研究しました。

(昭和二十三年五月八日)

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【お伺】此の道は現代科学をすべて否定するか否か。

【御垂示】すべては否定しない。今迄の医学でも体の構造、内臓の働き等は参考になり功績である。又黴菌も大変いゝです。又非常に間違った点は根本的には、今迄の世界は夜で病気を固める方が早く、溶かす力が弱かった。そこで釈迦は薬を飲めと云はれ薬草喩品といふ経もある。又薬師如来とは観音様の変化でもあった。観音様さえ固めの方法を摂られたんです。昼の世界になると固めることが出来ず、溶かす方法がよくなる。それを私が早く知ったんです。何れは皆知るんですが、薬で固めるより溶かす方がいゝことも知った訳です。医者は之に気づかず、今以て固めんとしてゐるのです。西洋医学はいゝ事もあり、今まではよかったのです。丁度冬は綿入を着るが、暑くなればそんなものは着ない。今の医療は夏になったのに益々綿入の綿を厚くして着てゐる様なものです。

(昭和二十三年五月八日)

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【お伺】霊の研究に就て――

【御垂示】神が必要と認められゝばその人に霊の研究をする機会をお与へになる。宗教と霊は関係が深いから或程度は誰にも知らされるが、研究しようと思はなくても興味を以てゐれば、神様の方で判るようにして下さる。唯そのね、概念を得たいのなら本があるからそれを読むのはいゝことです。霊的研究に凝ると自分に霊をかけたりするが、之は危険が伴ふんです。人に霊をかけたり、霊を浮かせたりすると精神病になります。精神病になって自殺したのを私も知ってます。日蓮宗など霊が浮いてくると「口がきける」と云って喜ぶのですが、之も精神病になるから危い。又狐は畜生だから、こんなのをよく使ってゐると自分自身が畜生道へ堕ちて了ふ。だから行者なぞには案外不幸な人が多いんですよ。

(昭和二十三年五月八日)

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五月十八日

【お伺】三毒五濁とはどんな意味で御座いませうか。

【御垂示】仏教にある言葉です。三毒は貪、瞋、痴、之は字の通りです。五濁の方はまあいろいろな罪汚れです。大した意味はありません。私は必要のないことは忘れて了ってゐます。余りよく記憶してゐるのも骨が折れますよ。記憶のよかったのは大隈重信で、物忘れする人は羨しいと云ってます。寧ろ忘れて了ひたい様な事迄も憶えてゐる。例へば庭で働く植木屋の賃金、今はいくらいくらで何年前はいくらいくらだったとか、こういふ木はこういふ風に植えるといゝとかいった事迄憶えてゐた人です。英国の元首相のバルフォアーは数字がどうしても憶えられず、議会の演説で数字を読む場合には秘書が代ってやった。自民党の吉田さんも頭が悪いですね、演説なんか聞いても下手です。馬鹿とか利口とか云ふことゝ記憶とは全く関係ないとは云へなくても、さう大して関係ない。学校なんかも記憶のよい者が成績がよい。だからそれが偉くなるとは限らない。アインシュタインも学生の頃頭が悪くて落第したさうですね。落第したってさう悲観する必要はありませんよ。

(昭和二十三年五月十八日)

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【お伺】稲荷の御祀り、午と狐の関係は――

【御垂示】毎月午の日、大体月初めにきめてやればよい。お祀りを午の日にやるのも何かあるんでせう。之も必要ないせいか憶えてません。いはれはたしか聞いた事があります。初午だけはなるだけ盛大にした方がよい。

(昭和二十三年五月十八日)

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【お伺】今迄御祀りしてゐた神様の御処分の方法は――

【御垂示】祝詞を奉唱してこう言ったらよい。「今迄いろいろ御守護有難う御座いました。今度観音様を御祀りする様になりました。就きましては今日限り元の御座(ミクラ)に御帰り下さる様御願ひ申し上げます」と云ってから社は焼いて了ったらよい。こう言へば神様は御帰りになって社は空ッポになるから。

(昭和二十三年五月十八日)

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【お伺】家が狭いために床の間へ仏壇を置くのは如何でせうか。

【御垂示】結構です。先祖が光明如来の光を浴びるから霊界での向上が早い。

【お伺】夕方の御祀りの時御軸に善言讃詞を御上げ致しますが、仏壇にもやはり善言讃詞を御上げした方が――と存じますが――

【御垂示】法事や御祀りの時は仏壇に善言讃詞を上げるが、普段は上げない方がよい。唯最後の二句だけでよい。若し上げるならば、観音様の御軸に祝詞と善言讃詞を御上げし、仏壇には善言讃詞だけあげる。こうしないと御軸と仏壇と格が一緒になって了ひますから。

(昭和二十三年五月十八日)

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【お伺】今度の新しい大光明如来の御軸は――

【御垂示】特別に書いたんです。教導師には上げてもいゝが、一般会員はいけません。神様の事には民主的でない点がある。階級的ですから。

以前ある家に行ったら、神棚があり、どうも気にかゝるので家人に訊ねたら、金光教の神様だが今は余りお祀りしてはいないといふので神様にきいてみると、早く帰りたいのだが手続きしてくれないので帰れないと云ったことがあります。やっぱり言霊で称へて貰はねば帰れないんです。そういふものですよ。言霊を称へずに社を焼いたりすると神様の居所がなくなるので宙ぶらりんになって了ふ。ですから言霊は大切なんです。又階級が厳然たるものだから低い地位に観音様を御祀りしても観音様は来られない。

何か神様を御祀りしたくなくなったら、それは矢張り知らせなんだからよく御祀りして御帰りになって貰った方がよい。

(昭和二十三年五月十八日)

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【お伺】天照皇大神と伊都能売大神の御経綸に就て――伊都能売大神に就きましては古事記にも出て居りませんが――

【御垂示】伊都能売大神の事は昔は言へなかった。いゝ加減にボカしてあったんです。天照皇大神は太陽神で、位は上だが御働きは限られる。伊都能売大神は火と水で、仏界では観音様になる。之に土の御働きが加はって弥勒になるのです。天照皇大神は一つの力であり、伊都能売大神は二つ、弥勒大神は三つの御力となり、之が三位一体で完全になる。

【お伺】弥勒大神は土の御力即ち肉体を御持ちになって御出現と存じますが――

【御垂示】えゝさう、さうです。

(昭和二十三年五月十八日)

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【お伺】毎月十八日の御観音様の日に御祀り出来ない場合は――

【御垂示】十七日にしたらよい。神仏の御祀りや法事なぞは早くするのはよいが遅れるのはいけない。

(昭和二十三年五月十八日)

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【お伺】国常立命と天照皇大神の押し込められ給ふた事の相違は――

【御垂示】天照皇大神の事は割に近い。近いと云っても今から大分昔だが、所が国常立命のはそれよりずっと前で別個の事です。国常立命は天若彦命らにより艮に押し込められたが、天照皇大神は素盞嗚尊に攻められ御身が危くなって逃げられ、信州水上山へ御逃げになり、その地で御かくれになった。そして御髪の毛を切って御神体として方々へ御祀りしたんです。日枝神社なんかはそれです。

(昭和二十三年五月十八日)

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【お伺】現在会員の会費の一部を以て積立金として積立て、将来会員のための福祉例へば旅館の如き宿泊設備、教会、農場、学校、治療所等々の建設を考へて居りますが、大きな分会にはいろいろ福祉がありますが、私共の分会はまだ小さく、従って未だ見るべきものなく、会員に淋しい暗い気持を抱かせて居ります。この点に就きまして大先生の御導きを御願ひ致し度う存じます。

【御垂示】そういふ問題は管長がやるべきです。渋井さんと相談してみなさい。経営はすべて本部管長がやることになってゐる。分会長も居るんだから皆で相談してやったらよい。

【お伺】先日も管長に会って御話しした所、管長とは名許りで実際は五六七会の会長であるからその方の事をしてゐると言はれてました。

【御垂示】今迄は私がやって来た、で、その習慣が残ってゐる。宗教の形を整へた上は管長が全部やるべきです。が、そこまで未だ行ってないのです。もう暫く自然の動きに任せておけば定まる事は定まる。神様がやってられるんだから。私はこうすればよいと自分で考へても神様の御考へと違ふことは始終ある。この家は狭いので去年広い家を買ふことになったが、どうもその後旨く行かない。こいつはおかしいと思ったのでよく調べたら、箱根の方を先にやらねばならないんです。それは箱根は五で熱海が六で小田原が七ですから、箱根の寮が出来上り使ってからでなくては駄目です。こういふ風に人間の計画と神様の御計画とはちょいちょい違ふんです。神に御任せして時を待つんですね。

此の間も中島の所へ二百万円の税金を納めろと云って来た。中島はびっくりして「そんな金はない」と云ふと「此の家は誰のだ」「自分のだ」「ではこの家を売って納めろ。君の所は大変な収入がある、駅を降りて人々が皆来るではないか」と云はれ、中島は青くなってボーとしてゐた。で、私は「一体あんたは何を信仰してるのか、何も信仰してやしないぢゃないか。くよくよ心配するのは神を信じてないからだ。人間の方でそんな態度をとれば神様としても面白くないですよ。そんなに気をもむのは」そう云ったんで中島も判り、今迄のは形だけの信仰だといふことを悟ったんです。所が税金の方もちゃんと旨く行って運動してくれる人が出て位で済んで了った。私も思ふ様に行かんなと思ふ時は神様に御任せする。始終ありますよ。私の処の税も五百万円だったが運動してくれる人が出て何分の一で済むことになってます。

霊的に云ふと心配したりくよくよしたりすると霊が地獄へ落ちる。始終自分の霊は天国に居なければ駄目だ。どんな事があっても気をもんだりしないならば霊は天国に行き、そこで神様は旨くやって下さる。分会も文部省の命令で八つにした。物を分ければ最初は旨く行かぬにきまってゐる。滑らかに行かぬだらうとは思ってゐた。然し神様がやって居られるんだから日時が経てば円満になって行く。ですからゆっくりと時を待つことです。

私は以前治療士三訓を作り治療所へ貼らせた。「威張るな、怒るな、早まるな」です。三つの中何れか一つにでも該当したら治療士の資格がない。結局こういふ事により自分が磨かれるんです。神様の修業の中で一番大切なのはこっちを怒らせることです。昔は私も神様からよく言はれました。以前は私も神様の事はよく判らず、はらわたが煮えくり返る様に思ったこともあり、余り癪に触って頭がボーとして来たこともある。

私は二十年間借金で苦しみ、差押も七、八回、破産したこともあります。差押へられると箪笥の引出に封印しますが、その紙をそっとはいで引出しを開けたこともあります。あいつをはがすと刑事問題になるんですから怖いですよ。上野毛の家には木札に此の家は仮処分の家だと書いてある。余り人目につかぬ所に立てゝますが、実際借金には苦しみました。又五島慶太もひどい事をしました。離れを作らうとして土台を作りすっかり準備したら建築停止をくはせた。その時も腹が立ちました。所が面白いのはね、箱根の観山亭を作る時、その離れの材料をそっくりそのまゝ持って来たんで、観山亭は出来たんです。今から考へればむしろお礼を云っていい位です。計画を立てゝやらうとしても旨く出来ない時は、神様に何か思召があるんだと考へることです。

熱海の家の事では今両方共困ってゐる。売った方でも困ってゐる。税務署は時価で評価するから二千万位になる。それから税百六十万円を引くと千八百四十万円、それを双方で負担すると、先方は家を売った上に九百二十万円納めねばならない。私の方は法律的には出来るんですが、然し人情としてそんなことはとても出来ない。それで今はそのまゝに放ってゐるんです。そこで私は之は屹度神様が何か御計画になって居られるなと考へてゐる。或時期にはっきり判って来ます。ついそこの畑地もやっぱり山下が持ってゐるんですが、先達て「買はないか」と言って来た。私は「要らない」と云ふと家内が「あすこに変なものでも建てると困るから買って了ったら――」と云ふので買ふ事にしたらもう売れて了った。私の所へ来た時は三十万円程だったが、後で聞いたら競売りで大分高くなったさうです。所がその買手の人は熱海の請負師で渋井が仕事をさせてる人で「大先生が御入用なら何時でも御使ひ下さい」といふ訳です。やっぱり必要なんですね。必要なものは飛んでもない所から入って来ますよ。

宗教になる事だって私がしようと考へてしたんではない。進駐軍の中佐の牧師が或程度この道を了解して、之が将来発展すると必ず医者と衝突して禁止される、それには宗教になってなければ――といふ訳で宗教になったんです。全くなってよかったんです。之で全国の医師会との間に起っていたいろいろな問題もなくなってしまったんです。

(昭和二十三年五月十八日)

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五月二十八日(金)

【お伺】女権尊重の叫ばれる今日、離婚といふことに就て――

【御垂示】今度「信仰雑話」といふ本を発行するので私も「夫婦の道」に就て少し論文を書いてみたんですが、今迄の信仰はいろいろと間違ったまゝ続いて来た。私は本当の事を知らせたいと思って「夫婦の道」を書いたんですが、之が判れば離婚といふことも問題なくなる。

(井上先生「夫婦の道」を朗読)

(要旨……近来見合結婚がいゝか、恋愛結婚がいゝかいろいろ問題になってゐる。然し之を霊的に見ると吾国は如何なる地域でもそれぞれ産土神(ウブスナガミ)を御祀りしてゐる。之は現界に於ける区役所の如く冠婚葬祭や出生を司る神で、子供が生れると産土詣りと云って御礼に行くのもそのためである。結婚もやはり産土神が男女を結合させるのである。これが判らぬから普通人間は男女二人が人為的に一緒になるのだと考へ勝ちなのである。かく折角神様の思召で結ばれた夫婦が勝手に別れたりするのは神への冒涜で、縁あって一緒になったのにどうこうしようといふのは誤りで寧ろ感謝すべきであり、又之が判って感謝の気持を持つ様になれば、いゝ妻にもなりいゝ夫にもなるのである。

又子供の死は多くの場合夫の不品行に原因がある。例へば妻以外の女と関係するといふ様なことであって、かゝる罪は正に死に値するのである。この不品行を祖霊は非常に嫌ひ、且立腹するのであるが、罪の重い時は一家断絶といふ事さへある。勿論この罪の償ひはその主人が負ふべきであるが、主人は一家の柱石といふ大事な人間であるので、その身代りとしてその子供を犠牲にするのである。かゝることは世間にその例が多いから読者は必ずや身のまわりに思ひ当ることを見るであらう。夫婦不和の原因は多く妻の嫉妬と経済事情であるが、夫婦は神の御意志で結ばれたものであること、妻以外の女との関係は罪なる事を知れば自然夫婦は円満になるのである。これは決して作り話ではなく確たる事実なのである)

【御垂示】だから離婚なんかあるべきではない。もっといゝ女を妻に持とうといったって出来るものではないんです。祖霊は男女の不倫を一番嫌ひます。不倫な夫婦の子供は御浄めしても効きませんよ。それですぐ判る。

(昭和二十三年五月二十八日)

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【お伺】神の裁きは如何にあるのでせうか。

【御垂示】別に難しいことはない。人体に余り汚れが溜ると人間社会の活動に障りが起るから神様は掃除されるのです。丁度家が汚れると掃除するのと同じです。そして人体の掃除も本当は人間がすべきであるが、人間は気が附かないから仕方なしに神様が掃除されるんです。だから人を救ひ世のためにいゝ事をしてゐればゴミはなくなるから従って大きな浄化の必要もないんです。

(昭和二十三年五月二十八日)

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【お伺】再婚とか或は過去に於ける夫又は妻の不倫は許されるものでせうか。

【御垂示】許されます。妻の不倫といっても之を霊的に言へば、夫も亦同じく不倫なことが多いのです。主人は品行方正にして而も尚妻が不倫といふ場合は自然と別れる事になって了ひます。又改心すれば既往の罪は軽くなります。神様のなさる事も法律の精神と同じで、罪人を作らぬ事が本当で、神様もそういふ風にやって居られるのです。

(昭和二十三年五月二十八日)

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【お伺】主神が悪との戦ひに於いて苦心なさって御出になるのは如何なる訳でせうか。

【御垂示】苦心してられるのは主神ではない。何故なら主神は善悪の両方を御作りになったのだから。そして人間が未開の時は争ひ事を好む様に作られてゐるんです。今も世間には闘争してゐる者もあるが、之は未だ未開だからです。喧嘩なんかして血を出すのもまだ獣の状態だからで、丁度尻尾があったり、毛が生えてたりするのと同じです。そんな争ひ事がなくなった時初めて文化が発達したことになるんです。

以前西洋医学は子供だましだと云ひましたが、こういふと医者は怒るかもしれないが実際神様の眼から見ればそんなものです。今の人は文化が進行したとよく云ひますが、まだまだ「トバ口」にも入ってない。今後何千年何万年先の文化の進歩した時の事が判らないから、今日文化が進歩してゐる様に思ってるのです。正邪の戦で文化を進めてる主神は上から見下して居られる。所が善悪といっても絶対善も絶対悪もない。仏教では正邪一如と云ふがその通りです。

日本が大変な戦争をやり、敗けて了ったが、敗けたからこそ民主的になり、安心出来る様になったのです。こうして集ることも昔は出来なくて、十人以上来てはいけないと云ってゐた。大勢集ると警察が煩くて引っぱられることがあったからです。実際あの頃は嫌な気持でした。まるで宗教を共産主義かヤクザと一緒の様に見られてゐたんです。こっちは世のためいゝ事をしてる積りでやってゐたんですがね。こういふ風に悪い事がいゝ事になり、いゝ事が悪い事になるのが運命なんです。だから調子のいゝ時は充分用心すれば大した悪い事もなくそれが続いて行く。有頂天になるとドカッと来る。悪い時が来ても何れはいい時が来るのだから悲観しないでよい。

陰陽、夜昼の二つの力が作用し合って世の中が進歩して行くんです。以前「神が裁くといふが、神は最初から悪い事をせぬ人間を作ればよいのに、悪い事をする人間を作っておいて然も之を裁いて苦しめるのはどういふ訳か」と云った人があったが、之は尤もなことです。之丈考へたんでは神様は無慈悲です。だから悪も社会の進歩のため必要なんだといふ事が判ればよい。然し私も作られたのだからはっきりしたことは判らない。たゞ想像するだけです。主神の領分を人間が考へるのはよいがそう深く研究する必要はない。それより主神に作られた自分は何をすべきかを考へたらよいのです。

(昭和二十三年五月二十八日)

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【お伺】五年前に死んだ子に講習を受けさせたいと存じますが。

【御垂示】之はもっと自分に講習した方がよい訳だ。まだ本当に判ってゐない。死んだ人を始終思ふことは霊に対して大変悪い。早く忘れた方が霊は喜ぶのです。赤ン坊で死んだ霊は八衢での修業が出来ないから、その母親が現界で出来るだけ善行をすれば早く天国に行きます。一般に子供は割に早く天国へ行ける、罪が少いから。昔から天使の絵など子供の姿が多いのはそのためです。だから母親が一人でも多くの人を助け神様の御用をすればよい。始終思ってると子供の霊を引っぱってゐることになり子供は浮かばれない。成程子供が死ねばなげくのは人情で之は悪いことではない。人が死ぬと仏教の方では四十九日間その家に霊がゐると云ふ。極善極悪の人はすぐ行く所へ行くが、普通は五十日目に霊界へ行く。霊界へ行ったら早く忘れた方がよい。さう早くは忘れられないが、早く忘れた方がよいと知るだけでもよい。一周忌の様な命日なんかには憶ひ出すのは構ひません。故人の写真も十年を過ぎたら掲けてもよいが、死んで間もない間はいけない。

こんな話がある。お釈迦様の時弟子の目連尊者が或時地獄で母が苦しんでゐるのを見た。何とかして救って上げようといろいろやってみたがどうしても母は地獄から上れないでゐる。そこでお釈迦様に、どうしたら救はれませうかと尋ねた所、お釈迦様は忘れゝばよいと言はれた。で、目連は出来るだけ忘れる様にして一年程経った所、母は地獄から救はれてゐた。この時目連は、自分が自分の力で母を救はうとするのは間違ひだ。自分は一切衆生を救ふのが使命である、釈迦が忘れろと云ったのは、母を救ふことも忘れて衆生を救へといふ事だったと初めて悟ったといふことです。

(昭和二十三年五月二十八日)

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【御垂示】仏壇の扉は夜は閉めた方がよいでせう。ねづみが入るといけないから。

故人の写真を掲けるのは仏間なら何処でもよい。私の額が掲ってゐる所は駄目です。唯止むを得ないなら、出来るだけ額から離して掲けてもよい。

古い以前の御屏風には寺の名が入ってゐるが、あれは当局が煩いからやったまでです。新しいのを御祀りしたければしてもよい。そして古いのは人にやったらいゝでせう。

【お伺】船の中へ御屏風を御祀りするのはいかゞでせうか。

【御垂示】船の中へ祀るのはいけない。船の親方が、御光を頂けば船全体が守られる。田圃なんかでも、それを持ってゐる人(支配権のある人)が御光を頂けばそれから光が田圃の方へ行くから収穫も多い様になります。

(昭和二十三年五月二十八日)

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【お伺】講習をする先生により御光の力は違ふのでせうか。

【御垂示】えゝそれは違ひますよ。その人の霊の階級で力が違ふ。又信仰の程度、生れつき、それから経験などにもよります。一番力の出るのは神様の御用をする人です。之は重要です。一番大きいことです。たゞあの人はどうといふ風に定めることは出来ない。それは同じ学校を出ても、立派な人間もあれば駄目なのもあるのと同じです。

先の治療時代の講習と、最近宗教になってからのとは違ふから、再講習をしても宜しい。はっきり筋の通った理由のある場合は再講習してかまわない。

弟子に対して絶対服従を強ひてはいけない。それでは以前の軍国主義と一緒になって了ふ。

【お伺】講習生が判らない時は――

【お伺】時を待つのがよい。人間が判らせるのではない。人が人を悟らせるとか、或は裁くとかいふことは僣上の沙汰です。判るように言ふべき事だけ言って、あとはその人の自由に任せたらいいのだ。判らない人は放っておいて時を待つ。そして神様にどうか早くあの人が判るようになりますようにと祈ったらいゝんです。第一、人に判らせようなどとしてゐてもその人自身判っちゃいないんだから。私の弟子は今沢山居るが本当に判ってゐる人は一人もありはしません。私だって判らせたいと思ふことはいろいろあるが、まだ時期でないから黙ってゐるのです。

(昭和二十三年五月二十八日)