三月一日
昨夜論文を書いたのですが、つまり新宗教というのは、救世教以外には一つもないという事です。新宗教と言えば新しい所がなくてはならないのです。ところが世間に沢山出来ている新宗教で新しいものは何もないのです。古い宗教の教祖を本尊様にしたり、それから昔からある宗教の良い所をとって……良い所というと、ちょっと間違っているかも知れませんが、それを良い所と思っていた事が、本当は良い所でなかったという事が多いのですが、とに角そういう所をとって新しい様に見せたのです。だから新宗教ではなくて新装宗教という事です。新しく装(ヨソオ)うという事です。新しそうにみせていて、やる事説く事は昔の宗教と少しも違いありません。それでとに角一番新しそうに見えるのは生長の家です。これはインテリを目標にしていろいろ説いて、著述などをやって、出版を専門にしてます。今ではやっぱり新宗教の仲間入りをしましたが、以前は当局から喧(ヤカ)ましい事を言われて、“宗教ではない、出版屋だ”という事にしてやってましたが、信教の自由になったから新宗教の形式に変ったのです。私は以前に、全部ではないが主なものだけを本で見ましたが、結局理論です。それは多く仏教の「無」の思想をとり入れてます。その説というのは“大体病気というものは無いのだ。病気は心の幻影だ。だから無いと思えば無いのだ”というのです。以前のお蔭話にこういうのがありました。生長の家にはいったら“本来痛みはないのだ。痛いと思うのは幻影だ、だから本当は痛みはないのだ。だから無いと思え”と言うから、一生懸命に無いと思うが、やっぱり痛い。そんな事を思わないで痛みが無くなった方が良いと思うから救世教にやってもらった。と言ってましたが、それは誰でもそう思います。貧乏で懐がさみしいのに“有ると思え”と言ったところで、有ると思って行ったら飛んでもない事になります。おそろしく美味い物を食って金がないとすれば、結局無銭飲食する事になります。これは仏教の無の説、空の説です。空空寂々というのはそういう事です。前に沼波(カンノン)という人の哲学で、講演で聞いた事もありますが、かなり売れた説です。その人が迷いに迷って、どうしても悟りが開けない。それで不断から仏教の本を読んでいて、或る日ふと思った事は“如何なるものでも結局無くなってしまう。こうやっている電燈でも、千年二千年とたったら無くなってしまう。結局無だ。永遠にあると思うから迷いを生ずるのだ。結局無だと思えば迷いも悔(クヤ)しさもない。それだ”と、悟りを開いたという事を聞きましたが、一応はもっともらしく聞こえますが、結局割り切れません。生長の家の説もそれなのです。よく仏教の本で「無」という字を一字書いたのがあります。それはそれには違いないが、じきにそうなるなら良いですが、その人一代でなる事はないので、二代三代の孫の代までは「有」なのですから、これは駄目です。それで生長の家で、戦争が始まろうとする一寸前くらいに、呼ばれて“君の方では、何んでも「無」と言うが、国家は無いと言えるか”と言われて、そこで行き詰ったのです。“いや、私が間違ってました”というので、“それなら許すが、君が国家がないと言うなら許されない”という事で許されたのです。だから私は、もうそういう説は説かないと思っていたが、この間ラジオ東京で宗教関係の人が四人か集まって座談会をやってましたが、やはり谷口さんは「無」を言ってました。それで誰でしたか、その説に対して反抗して議論の様になりましたが、そうしてみると今もって「無」の説は続いているわけです。この説は生長の家の一枚看板になってますが、しかしこれは実はお釈迦さんが説いたお経の中にあるのだから、新しい説ではないのです。別に他教を悪く言おうとするわけではないが、はっきり言わなければ分らないから言うのです。それから立正交正会は日蓮宗ですが、日蓮宗は別に新しいものではないのです。南無妙法蓮華経という文句が変ったわけでもないから、以前と同じ事になります。その次がPL教ですが、これはダンスばかりを一番やってます。何と言うか、客呼びと言いますか、そういう様で別に新しい事はありません。あの人の親父の、人の道の教祖の御木徳一の言った事をそっくり取っているだけです。それでは御木徳一という教祖はどんな新しい事を言ったかというと、別に大して新しい事はないので、その根本は「夫婦の道」を説いており、夫婦仲良くしろ、という事です。それから病気は「おふりかえ」というのがありますが、それは病気を書いて御玉串をつけて届けると、それを沢山重ねておいて、教祖が拝んで、自分にその病気を引き受けさせてもらいたいというので、それを引き受けるのです。それは確かに効く様です。「おふりかえ」というのは自分に病気をふりかえるというわけですが、それで教祖は非常に苦しむのです。そして二十五日を過ぎると、それが済むので、さっぱ りしてピンピンするのですが、こういう事も一種の宗教的病気なおしであって別に新しいものではないのです。それから大本教は私は良く知っているが新しい説は何もないのです。しかし出口王仁三郎先生は新しい事を言いもし、確かにやりもしましたが、それが成功しないでああいう事になってしまったのです。ただお筆先とか、そういった文章を、教団では一番の救いの方法として用いているのですから、全然新しさはありません。主な新宗教がそういう様で、少しも新しさはありません。ところが救世教の方では第一番に“薬は毒だ、薬が病気を作るのだ”と言うが、このくらい新しい説はありません。おそらく紀元前のヒポクラテス以来誰も唱えた事はないのです。紀元前からの説を覆えしたのですから、このくらい新しい説というのはありません。それから作物を作るための肥料も、これは何時頃から用い始めたかという事ははっきりしないが、相当古い時代から使ってます。しかし薬ほど古くはありませんが、少なくとも千年以上はたっているでしょう。そうすると、これを覆えしてしまった説ですから新しいものです。それから説き方も、霊界と現界との関係ですが、これは今までにも相当説いてありますが、私ほどには徹底してはっきりしていません。それから善悪の発生についての理論もはっきりとはしてなかったのです。悪い事をしてはいけない良い事をしなさい、という様な戒律的な事は説かれていたが、しからばどこに根本があって発生するかという事は言ってない。それから医学にしても、薬がいけないと言うだけでなく、薬が病源の根本を作っているという事で、“薬は良い”と言うこの間違いを説いているが、今まではそういう根本は全然分らなかった。たとえば黴菌にしても、ただ黴菌だけを怖い怖いと言って、黴菌を発見したコッホは大変な功績になってますが、では黴菌というのは何処から出るかという事の発見は今までになかったのです。だから、そのうちの一つでも素晴しい発見であるのに、救世教の方は、それが幾つもあるのですから、このくらい新しい宗教はないと思います。そういう事を書きました。だから新宗教は一つしかないのです。あとのものは意味が違うのです。あとの新宗教は、ただ新しく許可を得たというだけのものです。新しく生まれたというのではないのです。やっぱり親父の跡を継いだのですから新しい事はありません。しかしそこまで言ってしまっては形無しになってしまいますが、本当の事を言えばそう言うより外に言えないわけです。そこで世の中の人がそこまで分って来れば、それは大変なものです。しかし外の宗教をあんまり非難するのは私は嫌いだから、信者さんだけに知ってもらえばそれでいいのです。
それで日蓮上人の言った「念仏無限、禅天魔、真言亡国、律国賊」という、このくらい他教の非難をする言葉はないと思います。「念仏無限、禅天魔」というのは、念仏を唱えていると無限地獄に落ちる。禅宗は天の悪魔だ、という事です。「真言亡国」という事は、真言宗を信仰すると国が亡びるという事です。「律国賊」という事は、今はほとんど消えましたが、その時分に律教というのがありましたが、それは国賊だというのです。では何故日蓮上人はそういう事を言ったかというと、日蓮上人はバラモンの出なのです。日蓮上人は知ってか知らないでか、バラモン式であって仏教の出ではないのです。ですからお釈迦さんとは逆なのです。お釈迦さんはかえって敵なのです。バラモンというのは、お釈迦さんが仏教を弘めたために小さくなったのです。ですからバラモンの方としては、お釈迦さんは仇(カタキ)の様なものです。そこで「念仏無限、禅天魔、真言亡国、律国賊」という事は、みんな仏教ですから、それをそんなにコキ下すという事は、つまり日蓮上人は、知らず識らずおそらくバラモンの方の霊にやられたのです。そこで今日でも、日蓮宗ほど難行苦行をするのはありません。この間の新聞にも出てましたが、百日の荒行と言って、髭ぼうぼうで白い着物を着てやってますが、あれは一つの宣伝でしょうが、ああいう事をやるのはバラモンです。お釈迦さんの方とは全然違うのです。そこでお釈迦さんは、そういう修行をしなくては悟りを得られないというのは可哀想だから、お経を読めば悟りを得られるという事を言われ、それから良くなったのです。それは慈悲なのです。それをああいう荒行をするというのは、お釈迦さんの意志に全然反する事になります。それで日蓮宗の方では、そのやり方が良いと思っているわけです。そこで今活動しているのは、仏教の方では日蓮宗くらいのもので、あとはほとんど睡眠状態です。というのは他の仏教からみれば、バラモンの方が新しいからです。そこで新宗教のうちでは、立正交成会、孝道教団という日蓮宗の一派が活動しているのです。今新宗教で活動していて何とか人から認められているのは、日蓮宗の出なのです。この間新聞に出てましたが、新宗教には派がある。それは大本教の派と言うか、救世教、大本教、生長の家教団、それから静岡にある三五教です。それから日蓮宗だ、という様な事が出てましたが、それはそのとおりです。そういう様でとに角救世教は本当に新しい宗教というわけです。しかしそうなるとやっぱり宗教ではないのです。宗教はもう亡びてしまって、今は形骸しか残っていません。それでお釈迦さんは“仏滅の世が来る”と言ったが、そのとおりになって来ているわけです。
この間森山さんが、京都の中外日報という宗教新聞の主催で、関西方面の宗教の教祖代理とか管長とか、その宗教の親玉が来ていろんな話をしたそうですが、想像のとおりで、てんで駄目だという話があった様ですが、そういう様なわけで、そろそろ宗教グループにも余程の変化が起るだろうと思ってます。私は今年から大いに活動するという事を言ってありますが、丁度時期がそういう様な工合になりつつあります。それについて東京日日に、昨日まで五日間五回に亘って私の談話を書いてありましたが、これは大抵な人は読んだでしょう。あの記事はばかに良いです。病気とか浄霊についてですが、最初は宗教と美術について書き、その次は医学と浄霊、その次に自然農法について書いてましたが、実に良く書いてあります。日刊新聞であれほどに一つの宗教を褒める……というのではないが、こっちのやっている仕事の目的や、こっちで知らしたい書きたいという事を、丁度栄光にでも書く様なとおりに書いてありますから、これはこっちで御礼をしてもいいくらいです。広告するよりずっと効き目があります。こういう事も神様の方で、一寸効果のある手を打ち始めたという様に思われるのです。これからいろいろ変るでしょうが、一歩一歩前進をしているわけです。
それで今度は箱根の美術館なども余程各方面に認められつつありますが、特にアメリカなどでも大分認めて来たとみえて、今月の八日に私の方にある浮世絵の最高品を四、五点是非見たいからと、アメリカ大使館の参事官か何かで、日本美術に対しての非常な研究家ですが、見せてやる様に承諾しました。それから今度の浮世絵の展覧会で、博物館の方で私の方のをすっかり見て、足りない分は博物館の方から貸そうという事を先方から言って来ました。そういう様な工合で、おいおい方々で分って来た様で、非常に結構だと思ってます。今思いついたままの話をしたわけですが、この会は質疑応答の会ですから、話はこのくらいにして、質問に答えます。
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「明主様御礼申し上げます。この度明主様より自然農法普及会に関しましての御構想と御垂示をいただきまして、本部といたしましてもいろいろ考えましたが、まだ細かい点はできておりません。大綱をたてまして、本日各地より熱意ある方達に集まっていただき打合せ会をいたしましたが、特に本日の特別御面会にも列席させていただいております」
結構です。
「昨日の理事会と会長会議にて提案させていただきましたが、この度の自然農法普及会は熱意をもって燃え上って来ましたが、それと相呼応しまして、小田原から埼玉、千葉という東京近傍の土地で教団経営の模範農場をやらしていただいてはと思います。そうしてそれをできるだけ識者に宣伝させて関心を高めて、初年度でこの程度だという事を見せ、又四年五年とやっている地方に連絡をとり、その方も見学させるという方法は如何なものでございましょうか」
結構です。それならば、野菜から柑橘類、果実と、あらゆるものをやるといいです。
「農業家とタイ・アップしていきますと、それほど経費もかからずにやれると思います」
経費がかからないどころか、あべこべに儲かります。
「各地で非常に自然栽培が盛んになって来ておりますので、東京で野菜、果実等の販売所を設けて宣伝しては如何かと思います」
それは結構です。私はこの販売は前から思っていたが、二、三年前から清浄野菜というのが売り出されてますが、これは人糞尿は使わないのですが、化学肥料を使うのです。いろんな害虫は人糞のためだからこれは使わないが、化学肥料はそうではないというのです。そういうのを売っている所があるそうです。ですからこっちは自然農法でやるとすると、これは本当の清浄野菜です。とに角自然農法とか無肥料栽培を看板にして街頭に出るという事は非常に良いと思います。
「又農事関係、政治関係者にその米、麦の展示会を開き、試食会をやるという事も考えております。宜しく御願い申し上げます」
それは大いに儲かるでしょう。やはり儲かる事は続きます。土地ですが、それは便利な所がいいです。そうすると方々から来ます。交通が不便で行くのに時間がかかると、なかなか行きにくいものです。
「それに小田原か東京辺ですと、明主様に御覧いただく事もできますから」
結構ですから大いにやって下さい。土地は最初から客土をすると良いです。肥毒のある土を、無いのと入れ換えるのです。それから種も全国で無肥料栽培を一番長くやっていた所の種をもらって来るのです。そうすると初年度からどんどんいって、素晴しい成績になります。そういうのを、東京附近にしても、一カ所でなく何カ所も作っていいです。そのつもりでやれば神様がいい所を見付けてくれます。それは神様の方でちゃんと用意されます。自然農法の方だとそういう様で簡単ですが、病気の方はなかなかそうはいかないのです。
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「和歌山県の方では、蜜柑には一カ年に反当り一万五千円の肥料を入れておりますが、樹齢は大体三十年から五十年となっておりますので、肥毒のために相当痛んでおりますが、昨年私が参りまして、一寸平均に草を置きましたら、大変お蔭をいただきましたが、虫害が非常にございます」
それは肥毒が残っているからで、しようがありません。
「一時消毒薬をやります事は如何でございましょうか」
それが又土にしみ込みますからいけません。
「やはり二、三年は辛抱いたしました方が宜しいのでございましょうか」
そうです。ただ蜜柑などは、根伸びを良くするのだから、土を固めない様にするために、相当深い所まで掘り起して、よく空気が流通する様にするのです。よく農業の方では空気を入れなくてはいけないと言うが、そうではないので、空気は入れなくてもいいが、土を固まらない様にするだけなのです。
「草を置きますと非常に柔らかくなります」
それは、草は随分湿り気をしみ込ませるから固まらないのです。固まるのは乾くからで、それを防ぐから柔らかいのです。
「虫がつきますので、販売価格が非常に落ちるため、農村経済としまして三年か五年の辛抱ができないというのでございます」
そんなに辛抱しなくても、一、二年でいいです。それから養蚕ですが、桑に肥料をやらないと素晴しい物がとれます。この間の新聞に生糸に対する一大危機が来るというのです。それは今度アメリカで発見した新しい繊維はナイロンよりもずっと良い物で、これが出たらおそらく日本からの生糸の輸入の必要がないだろうというので、生糸の大打撃を受けるだろうと言ってます。アメリカでは日本の生糸を当(ア)てにしない方針に変えたという様な事が出てましたが、それに対抗するには無肥料栽培の桑を食わせるのです。そうすれば生糸の光沢から強靭な点において、素晴しい物になりますから、そうすればそれで対抗できるわけです。
「蜜柑の自然栽培五年目でございまして、昨年の暮に御献上させていただきましたが、非常に良い蜜柑が出来ました。以前に明主様に御伺いしました時に、そういう良い物が出来るまでの間は消毒薬が地にしみ込まない様にしてやっても良い、という御言葉をいただきました事がございますが」
それはいいですよ。しかしそんな事ができるわけはありません。つまり消毒薬が地にしみ込んで、又虫をわかせる原料になるのだから、それを防がなければならないが、そのために地にしみ込まない様にして、虫だけを殺す事ができるなら良いと言ったので、消毒薬をやれとは言いません。又そういう事ができるわけはありません。
「先ほどの養蚕の事でございますが、蚕を孵化させる場合に、薬品をつけるという事が全国的に行われており、それでいたしますと、一年に一度しかできないのが、春に一度済まし夏に又できるそうでございます」
それは絶対にいけません。自然にやらなければいけません。それは二毛作という事と同じになります。それで自然栽培の桑を食べさせると、蚕が丈夫になるからです。今までは病蚕が沢山出来ていたのです。それでその時に原因が分らないので、外の手段を考えて、それを続けているのです。
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「イナゴの稲に及ぼす害が大分ある様でございますが、これは何から起るものでございましょうか」
糞尿肥料です。
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「ニュース映画で見ましたが、南洋方面で農作物が荒されたというので、飛行機で消毒薬をまいておりましたが、自然農法にきり換えますと無くなるものでございましょうか」
それはずっと減りますが、随分多量にはいってますから、急にはいかないが、だんだん無くなります。南洋の方では硫安を非常に使うからです。
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「自然栽培の事につきまして、鈴木正吾さんが、議会で取り上げても良い事だから、材料を提供してくれと言っているのを聞きましたが、明主様の御著書の方での宣伝と同時に、議会を通じて働きかけるというのは如何でございましょうか」
議会に持ち出すのはまだ早いです。それほどの必要はありません。議会という事になると法律という事になるから、法律でコヤシをまくなと言ったところで、農民の方では迷信にかかっているから、おいそれと言う事を聞きません。それに又その法律に賛成するというのはずっと先の事です。ですから今そういう事を出すと笑いものになります。“救世教というのは、なんて馬鹿野郎だ、あんな事を言う”と、逆効果になります。やっぱり時期があります。そんな事をしなくても、その方が良ければ法律を出さなくても実行します。美味い物と不味い物があって、法律で美味い物を食えと言わなくても、実際に美味ければその方を食べます。それで佐渡などは一番先に始まりますが、佐渡では非常に成績が良く、未信者で自然栽培をするのがだんだん増えている様です。というのは、この間も話しましたが、佐渡では最初から浄霊をしないのです。だから、“なにも信仰にはいらなくても、あんなに良く出来る、ではオレ達もやるベエ”という事になったのです。ところが他の所では、浄霊すれば大いに穫れるという事を見せびらかす様にしているのです。ところがその人は、そうして早く信者にしようという気持なのですから悪くはないが、小乗的考えなのです。信者にしなくても、早く増産する様にした方が国家のためになりますから、だからどうすれば、信者にならないまでも早く分るか、という事です。それを一々信者にしてやっていた日には、何時までかかるか分りませんから、信者でなくても肥料さえやらなければ良いという事で、自然栽培を実行する人を増やすという事がいいのです。だから浄霊をして見せるという事は、それを妨害している事になるから神様の御守護がないのです。しかし佐渡ではそれをやってないので、神様が“これは良い”と、そこで御守護があるのです。その考え方ですが、何時も言うとおり、大乗的に考えなければならないのです。小乗的考えが一番いけないのです。だから佐渡だけは初年度から増産になってます。今度も書いておきましたが、浄霊は肥毒を消すのだから悪い事はない、結構だが、なるだけ人に知れない様に、夜とか朝早くは結構ですが、日中はやらない様にする事です。それで未信者の百姓で自然栽培をやるのが増えていって、いずれはやっぱり信仰にはいります。だからそういう事は考えに入れないで、信仰しなくてもこのとおり立派に出来るという事を見せつけるのが一番良いのです。
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「信徒の子供で、学校に上るにつきまして、どうしても種痘をしなければなりませんが、如何いたしましたら宜しいでしょうか」
それは私は以前から、逃れられない時には種痘をやってもいいという事は言ってます。それにそうでないと、当局から救世教について誤解されます。種痘は政府では規則にまでしてやっているのに、それをやらないという事になると、本当に迷信だという事になってはかえっていけません。やはり法律は破る事はできません。ですから種痘をしても、その後で良く浄霊しておくと害も少ないです。
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「最近“浄霊に力を入れるな”という御言葉をいただきましていろいろ考えますが、日本人には変な癖がございまして、突貫精神という一つの迷信があり、メシヤ会館の御奉仕にしましても、今度はどうしても是非頑張らなければならないと言っておりますが、本当から申しますと、反対な事でございますから」
その頑張るという言葉がいけないのです。ですから私は昔から言うのです。特に人間は腹に力を入れなければならないと言い、武芸者などがよくそういう事を言います。ところが私はあべこべです。腹に力を入れてはいけないのです。そこで腹に力を入れないと千変万化です。武芸者にしても、腹に力を入れると、力はそっちの方に行って、手の方はお留守になる。だからそこに一つの覚りがあるわけです。私も前に腹に力を入れる修行をした事があります。岡田式正座法というのも、前にかなり読みましたが、最初は良くて効果がありましたが、やはり長くやっていると悪くなります。
「腹に力を入れておりますと腹膜にもなりますから」
何時かこういうのがありました。腹が固くて浄化が起っていて痛むのです。そこで聞いてみると、禅を三十年やったそうです。それで座禅を組むと、力は入れなくても、あれは腹を中心にするから、腹に毒が固まったのです。その時私は腹に力を入れるのは間違っているなと思いました。だからあべこべの事が随分多いのです。おそらく間違っている方の事が多いです。闘病生活と言って“病と闘う”と言うのですが、そうすると病というのは敵のようになります。ところが病というのは、その人の毒をとる大変に結構なもので、神様の大慈悲ですが、それを敵視するという事は如何に間違っているかという事が分ります。本当は病を愛する……愛病生活という事です。だから秩父宮様の時にも闘病生活十数年という事を書いていました。
「この間の講演会で藤枝さんが、ああいう方達は至れり尽せりにできるのにああなった、という事をみても、医学に失望を感じるという様な事から、本人の体験を話しておりましたが、皆涙を流して聞いておりました」
そうですね。だから浄化を起して毒をとってくれるのを、拳骨(ゲンコツ)でなぐりつけて引込ませるのですから、どんなにしてもなおるわけがありません。
「大体秩父宮様は丈夫な方なのでございましょう……十数年もかかってやっと参ったのでございますから」
それは素晴しく丈夫な人です。山の宮様と言って山が好きなくらいですから……。私が登山している時に、よく、去年秩父宮様がおいでになったと聞きましたが、そのくらい丈夫だったのです。それで、最初に結核と言われましたが、やっぱり幾らか胸に曇りがあったのでしょうが、それから薬をのみ始めたのです。それが最初は膵臓に固まって、その圧迫によって糖尿病になったのです。そこにもっていって薬をのむから、左の方が一ぱいに溜まって、それが右の方に行って、それが胆嚢を圧迫して黄疸になったのです。それが致命症です。だから少しの薬が、だんだんやっているうちに命に関(カカ)わったのですから、結局医学の殺人です。医学によって殺したわけです。
「とに角十数年間もてたという事は、相当に丈夫だったのでございますわけで」
そうです。私は、秩父宮様に限らず、人間というのは丈夫なものだと思ってます。これだけの毒をのんでいて、なお生きて働いているのですからこんなに丈夫なものはありません。むしろ馬や豚の方が弱いです。今度も豚コレラという事でその予防注射をしたら、四十五頭が死に、六百七十五頭が発病し、さらに続発が予想される、というのですが、それは予防注射のために死んだのですが、人間ならそうは死にません。そのくらい人間は丈夫に神様はつくってあるのです。だからそういう家畜よりも、寿命にしても人間の方がずっと長生きします。それは馬や牛の寿命でもとても人間ほどは長生しません。それで浄霊したりしてみると、みんな実に毒がある事が分ります。体の肉や血よりも毒の方が多いくらいです。それでいて生きているのですから大したものです。
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「特に最近は御浄化が強くなりましたが、自分の体は他の人より良いと思っておりましたが、あっちからもこっちからも出てまいりまして驚きます」
そうなのです。疥癬を何べんもやったとか、下痢とかオデキをやって、自分はあらかた毒が無くなったと思いますが、とんでもない事で、それはほんの何分の一というわけで、まだ幾らでもあるのです。ほとんど無限なくらいです。
「数年ならずして浄化が非常に旺盛になります事と思いますが、その時の世の様というのは大変なものと思われます」
それは大変なものです。おまけにアメリカなどは実に薬をのむのです。それでパンなどにもビタミンAとかBというのを入れて売っているのです。それから水は水で晒粉(サラシコ)を入れますが、それを良いと思っているのですからしようがありません。だからこの浄化が起ったら大変なものです。そこでアメリカなどで出来る薬はだんだん毒を強めているのです。
「大阪の伝染病院にて、一月から二月中旬にかけてのジフテリヤの患者は昨年の四倍だそうでございます。それで重症患者になると、カルテを書いている最中に呼吸困難になり大騒ぎをするそうでございます。この重症患者を調べてみますと、ジフテリヤの予防注射をした者ばかりだというので、どうしてかと聞いたところが、従来予防注射は後で副作用があり、京都で沢山死んだ事がありますが結局原因不明になっております。そこで最近アメリカから新しい処方をもらってやったために、副作用はないかわりに、すぐに再発するとか、予防注射をした者が重く、しない者が軽いという事になって、何故だろうという事になっておりますそうでございます」
それはあべこべの考えですから分らないわけです。副作用が起ったという事は浄化が起ったのです。それは幾らか出やすくしてあったのです。それが起らなくなったという事は、一層固まる様にしたので、それは毒が強いからです。ですからその浄化が起ったら忽ち駄目になるというわけです。つまり毒を強めただけです。本当の事は何でもなく分るのですが、逆の頭だから分らないのです。
「まるでこちらの代弁をしている様な事が随分出ております」
そうです。それでそれをごまかすために、ヤレ心臓の手術が成功したとかデカデカと書いてますが、それは邪神が医学を信じさせ様というために出しているのです。この前も子供の白血病をなおすために輸血をしましたが、それはやり損(ソコナ)って死にました。
「その輸血料が十万円だそうでございます」
勿体ない話です。しかし実に馬鹿ばかり揃ってしまったので、神様のお手数ばかりかけてます。
「今は平気で笑って居れます私共も、最初は笑われる方にはいっておりましたのでございますから」
そうです。それで何でも怖がって、黴菌というと、兄弟でも口をきかなかったくらいです。
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「名古屋の方の天理教の教会では、千人以上の勤労奉仕者が集まって第三次戦争のための防空壕を作っているそうでございます。宗教家として解釈に苦しむ事でございます」
それは、大いに先見の明ありという御自慢なのです。信徒だけでしょうが、天理教にはいればそういう逃げ場があるという、一つの呼物にしようというわけですが、ごく低級な考えです。だから神様の御守護はもう信じられないというわけですが、まあそういう様なものでしょう。
「新宗教の最である天理教にしてその様ですから」
そうです。この間も出てましたが、主人をよみがえらせるというので三月の間死骸をそのままにして御願いしていたのですが、警察で知って調べてみたらミイラになっていたというのですが、それはむしろ恐ろしい迷信です。ですからとに角救世教を邪魔するのは新宗教です。だから新宗教などにはうっかりはいれないという一つの大変にマイナス的働きをしていたのです。だからジャーナリストとかインテリというのは軽いものです。新宗教が邪魔するのが一番怖いのです。それから読売に出てましたが、踊る宗教で、自分の腹には天照大御神が居ると言って威張って、往来に出て踊ったりしているのをニュース映画で見ましたが、ああいう事をしなければならないというと、新宗教は低級なものだ、本当に愚夫愚婦を瞞ますものだというわけで、新宗教の不信用を起すのです。それを有難がってやっているのですから、これが大変な妨害です。しかし結局時の問題で、良いものは良いし悪いものは悪いし、変なものは変なのです。それで救世教だけは違う、これこそ本当の宗教だという事がだんだん分って来ます。近頃は大分わかって来ました。さっきも言った様に東京日日に出るという事は、相当に理解しなければ、そういう事はしないでしょうから……。
「大体天理教は病気なおしで名をあげたのでございますが」
そうです。病気なおしで発展したのです。
「それなのに病院を経営しているのでございますから」
それは病気がなおらなくなったからです。昭和六年六月十五日から病気がなおらなくなったのです。それは先方から“近頃病気がなおらなくなった。教祖の時代には大分なおったが、どうも不思議だ”というので、“それはこういうわけだ”と言うと、“なるほど”と言ってましたが、そういう事がありました。それで何時も言うとおり夜の時代の間は月の神様の守護で、天理教は月の神様だから、そこで一列揃って甘露台へと言うのです。それで甘露台というのが出来ており、そこにお皿か何かを上げてあり、そこに月が出た晩に雫(シズク)が溜まると、それを月の甘露と言って、信者に少しずつやって、それを病気の時にのむのです。近頃はそれをやらないが、最初のうちはやってました。それを甘露と言うのですが、そこで一列揃って甘露台へ、と言うのです。この甘露というのは月です。太陽だったら露は乾いてしまいます。月の雫ですから、月の光で病気はなおっていたのです。ところが太陽がだんだん出て来たから、月の光は消えてしまうから、病気がなおらないのです。それで救世教の方はだんだん病気がなおるという事は、太陽がだんだん昇って来て火素が増えるからです。だから夜の世界から昼の世界になるという事は、そういう点で一番良く分ります。だから年々良くなおる様になるのです。それは日が昇ったからです。前に天理教の青年会で「月日クラブ」というのがあるので、私は何故“日月クラブ”としないかと言ったのですが、月を上にしているのです。“何故でしょう”と言ってました。それで「ツキ」というのは「ツルギ」という事です。「ツルギ」を縮めると「ツキ」になります。それで三日月が本当の月の形です。これは剣(ツルギ)の形をしてます。それで今までも天理教では、“信仰を離れると一家死に絶える”という事を言うのは舌の剣です。これでおどかすのです。強迫信仰です。そういうのはみんな「ツキ」の働きです。それで「日」というのは「ヒク」です。これは天理教でも、「月」は「ツク」で、「日」は「ヒク」と言ってます。それで日というのは引く意味になるから、おどかさなくても、慕って集まって来るのです。だから救世教では決しておどかしてはいけないと言うのです。何故なら自然に集まって来るのです。それは引く力というわけだからです。
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私は伊都能売という事を言いますが、伊都能売というのは日と月の丁度両方になっているのです。そこで明主の「明」には日月をつけたのです。それで字から言っても、日は四画で月も四画ですが、四と四は八になり、八は五、三、火と水で、伊都能売という事になるのです。ですから言霊と文字の解釈だけでも分るのです。それで富士山は一名八(ハチ)スの山と言うのですが、そうすると「明」は八ですから、富士山は「明」になって、「ス」というのは廻りのチョンです。それで八で開いて統一されるという事です。ですから富士山というのはそういう意味で、これは大変なものです。やはり世界の本当の中心です。ですから字で書くと富士(不二)で、二つとないという事で、一つしかないという事です。それで私は落款に富士山を書いたのです。今まで富士山は雲に隠されていたのです。そこに私が出て雲が晴れていくのです。
「今富士山の頂上の帰属問題があってますが、何か霊的の関係がございましょうか」
大した事はありません。どっちでもいいのです。どっちになっても、別に富士山に変りはありません。だから日本の富士山でなくて世界の富士山です。又あんなに形の良いのは世界にありません。
「この間の講演会で、秋田富士と言って富士山を小さくした様な形の山を見てまいりました」
それは各地にあります。榛名山の方は榛名富士と言いますが、何々富士というのは方々にあります。
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「東京日日に四国の剣山にイスラエルの遺蹟があるとの事が興味のある様に出ておりましたが、如何なものでございましょうか」
面白いですが、虚々実々で、本当のところと嘘のところがあります。あのユダヤ人が日本に渡って来たという事は本当ですが、あんなに大勢で一万人というのは、ちょっとおかしいと思います。掘り出したミイラが百三十人というのはどうもおかしいです。その時分に渡って来た人間かどうかですが……。それが時の勢力に迫害されて危ぶなかった。そこで山に逃げて籠って、しようがないというので、ここでお互いに死のうとしたのです。だからその人間は何処から来たかという事は、やはり渡来して来たのでしょうが、前の酒井勝軍氏の研究でもやはりその事は書いてあります。それから十和田湖の側にキリストの墓があるとか、とに角相当に古い時代に白人が来たには違いありません。
「非常に硬い金属がある様に言ってますが、それは例のウエツフミから出ているヒイロガネと同じものかと思いましたが」
なにしろ、何万年何十万年前からいろんな人種が来てます。それで神様の方から言うと、日本人が一番混血しているのです。それで混血しているほど優秀な民族なのです。だから私などは一番混血しているのです。その必要があってそうされているのですが、いろんな事が分るという事は、やっぱり混血が必要です。よく純粋が良いと言うが、それはあべこべです。純血にすればするほど、人間は役に立たなくなります。
(垂十八号 昭和二十八年三月十五日)