十二月一日
「熱海会館の御奉仕の方法と申しますと変ですが、会長の言葉を聞きまして光宝会でのそのあり方が本当になってきたと思われますのは、今度一千万円なら一千万円を御奉仕させて戴くという事でなく、是非御許し戴きたいと御願致しますと、それから非常にスウスウと参ります」
そうです。それは一寸した事ですが、今迄とは反対なのです。
「それで生活の面でも、今では大変御蔭を戴きましたが、自分で垣を作ってその中に入って窮屈になって、四角三角になって苦しんでいるのは、ただ自分で苦しんでいた事でありまして、本当に楽になるものをと思いまして、大変有難い事でございます」
そうです。この間のお蔭話に、自分が何処か悪くて“親父が今朝は大変朗かだから、こういう時にやって貰ったら効果があるだろう”と書いてあったので、それはつき返してやったのです。親父が朗かだからと言うと、親父にやって貰っているように思っているのです。神様というのを全然忘れているのです。だから見当が違っているからつき返してやったのです。こういう事も大変な間違です。一切は神様を中心にすると何でもないのです。どうも人間的な考えになるのです。
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「明主様御詫びをさせて戴きます。大和会の事件以来四年になりますが、最近は御教えを戴きまして、自分でも変らせて戴いた様に思われますが、凡ての原因は自分であったという事を分らせて戴きました」
そうです。つまり自分の考えが邪魔しているのです。
「それを変らせて戴きましてから、廻りの人とも気持よく話合えます。誠に有難うございました」
そうですよ。
「実は前の因縁の弟子連中が、新しい服を作らせて貰いたいという事ですので、結構だと話したのですが、自分で気付くと神様の方でいろいろして下されるという事でございますので」
そうです。神様の方でなくて人間の方でもよくそういう事があります。この間も銀座の日新房という、前から知っている美術社がありますが、そこに出品した作家で、一度是非見て呉れと言って此処まで持って来ましたが、それを見て後、社長にうんと言ってやったのです。「これの一番悪いのは苦心して作ってある。だからその苦心した苦しみが作品に現われているから良い感じがしない。だからこういう物の作者にあなたが良く言っ やんなさい」と言ったのです。楽しみ楽しみ、楽な気持でやると良いが、みんな苦心しているから、それが作品に現われているから駄目なのです。お世辞かも知れないが、社長は良い事を聞いたと言って帰りました。だから昨今の展覧会に行っても気持が悪いのです。みんな苦心して画いてあるのです。その霊がみんなこっちに来るのですから、楽しむ事は出来ません。だから今の絵も楽しむ事が出来ないのです。一寸見ていると嫌な気持になって来るのです。だから私が何時も言う通り、苦しんでやる事にろくなものはないというのは、その事です。
「夜の世界とでも申しますか、どうも苦しむ事が多い様でございます」
そうです。暗闇を歩いているのだから危(アブ)なくて仕様がないのです。それで昼間の世界になって来たのに、そんなに怖がっているのは、おかしいもので、手間取ります。それと同じ事です。しかしそうは言うものの長い間のいろいろな習慣があるから、つい人間的の心配や苦しみをやりたがるものです。私などよくそういう事があります。
「今の神様の事を主にしないという御言葉で、非常に御蔭を戴いたのに御礼をしないというのがありますが、実は御許しがないから出来ないのだと考えますと、そういう場合にも、ははあ御許しがないのだな、と思いますと苦しみません」
そうです。自分は御蔭を戴いていても信仰に入らないのがありますが、本人は信仰に入りたいのですが、邪魔があったりするのです。それは何かと言うと、神様が許されないのです。それからこういう事がよくあります。熱心な人があって、フッと来なくなったり、他の事をやってみたり、いろいろしますが、そうすると随分馬鹿な奴だと思いますが、そうではないのです。神様が、お前は入れてやったが汚(キタ)ないものがあるからもっと苦労しろというので、要するに資格がないというので神様がつまみ出されるのです。そういう点は解釈の仕方が違うのです。だから入るという事は、その人が入りたいから入っているのでなく、神様が御許しになるから入れるのです。そこは神様中心に考えると分るのです。それから“あいつは邪魔する、酷い奴だ、ああいうのを神様はどうして生かしてある、許してあるのだろう”と言うが、それは神様に何か訳があるのです。その時はそうでも、いずれは何かに使うのです。ですから要するに人間の判断というものは分らないものです。神様くらい深いものはありません。それはあべこべの様な事がよくあります。
「八月十五日以前と敗戦以来ということで、我々が知っている世界でも変りましたから、ましていわんや善悪を決めるという事などとても分る筈はございません」
それを“あいつは間違っている、あいつは悪い”という事は、何時も言う通り神様の領分を犯しているのです。人間の分際でそういう事が分るわけはないのです。ですから自分が正しいと思う事をしていれば良いので、人の事を言うのは余計なお世話です。
「その余計なお世話でどの位罪をつくっているか分りません」
そうです。そういう場合に常識で判断しなければ駄目です。やっている経路でなく結論で判断するのです。良いとか悪いとかいろいろ議論しますが、議論は良いと思ってやっているのだが、議論してその結果はどうかという事です。議論をする結果としない結果を考えてみて、結局しない結果が良いのです。というのは、議論というのはそれが良いと思ってやっているのですが、処がそれは神様しか分らないのです。だからある程度まで意見を言うが、そこでスラスラといかなければやめるのです。言うのは何を言っても良いのですが、そこであっさりとして、スラスラといかない事はやめるのです。これが本当に良い説なら誰も刃向う事は出来ません。それはそうだとなります。そういかないという事は、何処かにねり方が足りないという事になります。
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「私は最近地方を巡らせて戴きまして、一番忘れてはいけないと思います事は、話を致します場合にも、初めに“明主様どうぞ”と御願して話をさせて戴くという事でございます。それを忘れていると変な気持になって、ははあおしかり戴いているな、と思いまして気が付きます。それを忘れなければ良いという事を考えさせられます」
そうなのです。ですから私も、「今日はこういう事を話そう」と用意する方が反って駄目です。無我で無意識に、ただ白紙で来ると反って良い事を話したり、思いも付かない面白い事になったりします。これは実に言うに言われないもので、理窟では分りません。それは何から何まで神様は狂いはないので、凄いものです。
「この間地方での話で、メシヤ教に入って御教え通りにやっている積りだが御蔭がないという事があったら手を挙げて御覧なさい。今日はあなた方と入れ替って考えてあげよう、と申したのですが誰も居りません。それから、あなた方は何故遠慮して御蔭を戴くか、大変欲がない、それがよくないと話しましたら元気が出た様でございます」
つまり御蔭を忘れた時に御蔭は来るものです。御蔭が来そうなものだ、御蔭が欲しいと思う時には御蔭は来ないのです。
「私はこう思って居ります。“栄光”新聞に御蔭話が出ておりますが、一番御蔭を戴いている人は御礼を申し上げておりません。それではあなた方は、甲乙丙丁と段階があるとして甲から乙に落ちたいかと言いますと、いや本当に間違っていたと申しておりました」
本当言うと、御蔭というのを値打にするなら、無い命を助かるとすると、とにかくその人はどんな事を犠牲にしても構わないわけです。仮に御蔭を百貰って御礼を十上げると、九十は借金になります。借金になるからあとの御蔭があんまりないのです。だから本当に厳密に言うと、そこにいくのです。処が普通の人は御蔭を百貰って、神様の方に御礼が五十なら良い方です。全部やったら裸になるから……。それを二十とか三十にするから、あとの二十とか三十が借りになる。するとあとが悪くなるのです。それで仮にお金ならお金を上げると普通十倍になって返って来ます。お金を上げて貧乏になる様な宗教だったら信仰をやめた方が良いです。それは神様に力がないのです。
「ですから私は、言う通りにしてその通りにならなかったら、私が責任を持つからやって御覧なさいと言っております」
こういう事は不断あんまり言いません。例の天理教とかの搾取的な宗教に見られやすいから言わないのですが、今日の様なこういう時は一般信者でないから、信仰の中学以上の人だから言います。本当言えばそんなものです。だから何にしてもそうです。今世間では、風邪を引くと大変だとか肺病が伝染しては大変だと病気を恐がっているが、メシヤ教に入るとその心配がなくなるのです。病気は結構だというこれだけでもその御蔭は大変です。世界中でメシヤ教信者くらい病気を恐れない人種というのはありません。だから神様に、どうでも勝手にしろと任せれば、決して粗相はありません。何しろこういう事は今迄にないのですから、世間一般は信仰的頭でそこまで分るという事は大変なものです。
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「今度は、実動会員と言いますか、それが全部資格者になれる様にやって貰いたいと言っておりますが、昨日もはっきりと話させて戴きました。そこで資格者がしっかりしてくると、信者さんも分ってきますし、それをもって対外にいかなければならないと思います」
結局自分にあるのですから、思う様にならないという事は、まず自分のやり方を考えてみなければならないのです。そういうやり方というのは、私の本の何処かに書いてあるから、そこにあります。
「それから“栄光”紙に出ております事で、明主様の御論文は絶対のものでございますが、しかし御蔭話というのは信者さんの感謝文なのだから、これを絶対と思ってはいけないと思います。といいますのは或る所で質問がありまして、“霊視日記”の中で御光がお出でになる、それが見えた、それは秒速十五メートル、と書いてありますので、どういうものかという質問がございました」
その人にはそう見えるのです。
「それはその人が見た事であって、実はそうでなく御光は瞬間的で時間空間はない。“明主様”と申し上げると、その時に御守護があるのです。霊視は参考に考えるなら良いが、それでなければ全然嘘だから、と話したのでございます」
そうです。あれは本人の書いたままを出したので、甚だしく間違っているのは直しますが、なるべく訂正しない様にしているのです。訂正するという事になると面白くないのです。個人の御蔭話を訂正して大袈裟にしていると疑われるから、そういう事はしません。
「御蔭話をよく見ておりますと、半分は最初に御詫びしなければならない様な事がございます」
この間こういう事があった。いろいろ一生懸命にやったが、どうしても良くならない。それから光明如来様に御願したら、それから直ぐに良くなった、というのですが、そういう時には自分が治そう治そうとしているのです。それで神様を忘れているのです。それが修行です。世間は間違った事が多く、それで長い間教育されているから、こっちの説があまりに世間と違うから、分るまでは相当暇がかかります。今も出掛けにラジオの婦人の時間で、よく出る人で中々うまい人ですが、今度の池田通産大臣の失態の話が出ましたが、つまり池田というのは前から危ぶなっかしくて、私は好かないのです。何となく慢心している様なのです。
「写真で見ましても、上品さという処がございません」
そうです。写真を見ても、いけ好かないです。だから何時か二度ばかり失言問題があった。今度もとうとうやったのですが、もう一修行しなければ駄目です。ああいう事も実に頭が悪いのです。それからもう一つは、人間は偶には失言もするから、その時に謝れば良いのです。それを変な事を言うからいけないのです。「僕が間違っていた、言葉のアヤであそこまで言ったのは間違っていた」と謝罪するのです。そうすると割合に軽く済むのです。それを何や彼やと言い訳するから、きたないし人が同情を持たないから、好感を持たれないのです。ああいう処は実に馬鹿です。長い間大蔵大臣をしていてあの位の頭の悪さです。それを又、吉田首相が可愛がっているのですから、吉田首相という人も随分欠点はあります。あの位の偉い人でも見ていると危なくて注意したいと思う事がよくあります。この間鳩山さんが馬鹿に威勢良く、自分が次の総理にでもなりたい様にみえていたが、あれから鳩山さんに対する社会の感じが悪くなった。ああいう事が馬鹿です。何しろ病人で、政界からも隠退していたのだから、もっと柔かくふわっとして、吉田首相を立てれば、外の人でもなるほどと思います。あれでは体が良くても総理にするのはあやぶむという気持が起ります。あれだけの人ですが、実に頭が悪いというか、おかしい処があります。私は始終論文を書いてますが、最初の「光」新聞時代に金近ともう一人居ましたが、普通は三十号くらいで大抵行詰ってしまうが、種が尽きないであとが出るのは珍らしいと言ってましたが、その時が五十号で、今は百八十四号です。あとから幾らでも出るのです。それは何かと言うと、あんまり世間の人が欠点だらけなので幾らでも出るのです。だから如何に間違っている事が多いかという事が分るのです。
「御書きなさいます場合に、その主題を御考え遊ばされるのでございますか」
考える処ではなく、後から後から出てきて困るのです。だから考えるという事はありません。造営の場合でも、こうしようああしよう、どうしたら良いか、という事も殆ど考える事はありません。ただそういう時期が来るとパッと頭に出てくるのです。だから“地上天国”に行くと、此処をああするこうするという事が瞬間的に頭に出てくるのです。それで一寸考えて分らなければやめてしまうのです。それは実に早いです。目下頭の中には会館が出来て、そこの幕の模様までちゃんと出来ているのです。ただ時期によって、此処をどうしようかと思って考えが出ない時はそのままにしておくと、時期が来るとパッと浮ぶのです。
「展望台の方を先におやりになられますのでございますか」
そうではありませんが、トンネルで続けてますから、同じに造る積りです。しかし毎日新聞社が企画してますから、展望台を先にしようというのです。会館の方は大変ですから、展望台の方が先が良いでしょう。あれならわけはありません。
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「今度映画で明主様の御姿と御声が世界に出ます事を思いますと大変な事でございます」
そうです。つまり世界的に第一歩を踏むわけです。
「本日は毎日新聞のプロジューサーの方も見えられて居ります」
そうですか。
「映画の主題は“東方の光”という事に致したいと思いますが如何でございましょうか」
結構です。私は前から東方の光という事を言いたかったが、講和前はアメリカの人が誤解するといけないから言わなかったのです。それでこの間「栄光」に“東方の光”を出したのです。来年からは一寸面白くなってくるわけです。アメリカで分ってきたら面白いです。それに早いです。
これからは映画というものは非常な役目をするのです。この間何かの記事で見た時、映画は芸術に入れるとか入れないという事が出てましたが、私は今度書いてみようと思ってます。芸術では、映画が一番の芸術と思ってます。何故かと言えば、映画くらい色んな芸術的なものが入っているものはないのです。あれは綜合芸術です。第一番に、脚本(シナリオ)それからプロジューサーがいろいろ企画を作っていくという事。それに丁度適当する様な俳優の選択。その俳優の技芸、それから場面は室内もあれば室外もあるし、本物を背景にする場合もあるし、セットを使う場合もあり、光線の採り工合、ロケでの景色の選択と、あらゆるものを採り入れてます。外の芸術では幾つかに限られているが、映画というものは世の中のあらゆるものを採り入れてます。それで一つの作品をつくるのですから、この位すばらしい芸術はないと思ってます。だから芸術の王様です。それから写真の芸術があります。写真と言っても絵画的のいろんなやり方です。監督でもそういった絵画的な処を現わす者は少いです。しかし近頃はなかなかうまいのがあります。絵画的場面を作るのがうまいのは豊田四郎です。それから時代の構想とか、時代時代の雰囲気とか色を出すという事もピッタリすると、見ていても非常に効果があります。処がどうかするとチョンマゲが通る横に電信柱が見えたり、それから対話でも、作者が新しい扱い方でやって、言葉などで随分変な事をやります。「僕は君を信ずる」と、チョンマゲ時代にそんな事は言いません。そうかと思うとその時代の言葉を使ったりしてゴチャゴチャです。そういう事をキチンとすると、やはり評判も良くなるし、その監督も認められるのです。どうもそういう点には割合無関心です。そういったケレンが非常に多いのです。日本映画は特にケレンが多いのです。
「今度のメシヤ教の映画の場合の音楽は、雅楽は必要な要素でございましょうか」
いけません。
「全部洋楽で致しますのでございましょうか」
そうです。雅楽というのは平安朝時代のものです。そうなるとこっちも衣冠束帯か何かでやらなければならない。能楽とか雅楽をやるのは、別にそういったものを作らなければなりません。宗教の方ではそういう事はやりません。むしろ最も新しくなければならないのです。だから建築でも最も新しい処を狙ったのです。今度出来る会館というのは、宗教建築では恐らく世界にありません。宗教建築と言うと、昔の伽藍式とかお宮式とかありますが、いくら伽藍式を立派に採り入れても京都の本願寺以上のものは出来ません。あれを安っぽくしたくらいのものです。そういうものは造る必要がないのです。私はこの間“袴に支配される”という事を書いたのですが、そうすると二十世紀を狙うよりも、むしろ二十一世紀を狙うのが本当です。だから天理教などがやってますが、ああいう古い事は排斥したいくらいのものです。あれでは時代の進歩というものがありません。特に宗教ほど進歩のないものはないと思います。だから私は釈迦とかキリストという事を盛んに批評してますが、古い宗教で救えないという事は当り前です。今の自動車の世の中に牛車に乗れという様なものです。それなら牛車に乗って町を歩いたら何うかという事です。ただ歴史的の趣味として見るのは構いませんが……。
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だから私は今度の京都の美術館は、京都のお寺と提携して、仏像を並べ様と思ってます。本尊は残して、それ以外は全部借りて並べ様と思ってます。というのは、仏像というのは美術品と思っているからです。拝むものではなく、見るものです。そういった歴史的芸術的の価値なのです。仏教の方で聞くと怒るでしょうが、キリスト教でもそうです。今まではあれで良いが、これからは駄目です。とに角キリスト教が共産主義をやっつけるくらいの力があれば良いが、キリスト教の方がやっつけられているのです。今はキリストよりもレーニンの方が本当に人を動かす力があるから、それでは仕様がないのです。だからメシヤ教は今にレーニンでもスターリンでもやっつけます。これは私がやっているのではなく神様がやっているのです。実際馬鹿げた話です。それでこの間“⇒平和主義を考えてみる”というのを書きました。私は時々ユネスコを奨められるのですがスターリンをユネスコに入れなければと言うのです。とに角世界の平和というものは、スターリンが手を合わせて神様を拝まなければならないのです。それ以外に世界平和は絶対にありません。世界中が第三次戦争が起りやしないかという脅威はスターリンです。クレムリンをそのままにしておいて、外(ホカ)だけ平和運動をしても何にもなりません。それで武器によって平和を維持するのは一時的で、これも仕方はないが永遠性はないのです。第一こっちがそうすればソ連の方も軍備を充実する。そのために無益な金を使うから、それで不景気になるとか苦しむのです。だから結局スターリンをメシヤ教信者にするという事が一番良いのです。それ以外の事は一時の間に合わせです。この間も話した事があるが、とに角共産主義の学説を破るだけの学説が出れば良いのです。それでなければ宗教です。それは共産主義の学説は実に良く出来ているのです。私でも神様という事を知らなければ共産主義の方に行きます。だから青年が学問をするとあれにはまり込むというのも無理はありません。
「共産主義では凡てを経済という事で支配しておりますが、美という事につきましても、生活あってのものと考えている様でございます」
それはそうです。我々は美と別に思っているが、一般はそれと関連をもって思っているのです。今度保安庁長官になった木村さんは共産主義を非常に嫌ってますが、まず日本の共産主義をやっつけるという事は出来ないが、のさばらない様にする。つくらない様にするには、大学の教授の頭を切替えなければならない。結局学生がああなるというのは教授が仕込んだのです。だから学生などは教授の頭一つで何うにでもなるのです。まず教授の頭を切替える事と、もう一つは新聞です。少くとも三大新聞が共産主義というものはいけないという事をはっきりと書くだけで良いのです。結局において今の人間は物事の急所を見る事を知らないのです。物事には急所があるもので、現在としては大学教授の少しでも共産主義的の者はやめさせて、それからもう一つは共産主義をやっつけるだけの勝れた学説を作らなければならない。それは共産主義でもいかん資本主義でもいかんという最高の学説を作る事で す。それは大して難かしい事ではありません。私でもやろうと思えば出来ます。とに角共産運動は思想から来てます。思想は学問から来てますから、学問のすばらしいものを作れば良いのです。アメリカでも共産主義は嫌ってますから、その位の学説は博士も大勢居るので作れそうなものだが、作る者がないのです。次に新聞ですが、これが大変なものです。この頃はそうでもないが、岡田茂吉と「氏」を付けないのです。それで徳田球一氏と「氏」を付けるのです。驚いてしまいました。というのは、結局新聞記者、ジャーナリストの再教育です。
「先程も新聞の事につきましていろいろ話合いましたが、今日の新聞は特異性がないし特色がなくなった、というのは老後の事のみを考えて、対社会精神というものが抜けていると申したのでございます」
日本の新聞はお上品になり過ぎてしまったのです。というのは新聞はあまりに不利不闘になり過ぎて主張がない、色がないのです。結局「朝日」を見ても「毎日」を見ても同じです。だから私は前に書いた事がありますが、日本に新聞が沢山あるという事は国家経済上も不経済だ、結局同じなのだから一つで間に合うのです。反って昔の方がそれぞれの特色がありました。一つの株式会社になった方が良いでしょう。
「一つの新聞社くらいは特定の宗教を思い切り好意的に書くものがあっても良いのではないかと思いますが」
つまり読者に引ずられているのです。新聞が読者を引ずるというものがないのです。新聞ばかりでなく、一体に社会のあらゆる面がそうなってます。御座成り的になってます。その原因があるので、私は今それを書いてます。
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「明主様の自然農法の御論説を拝見しまして非常に感激致しました」(毎日新聞木村氏)
みんな間違った事をやっているのです。尤も世間が間違わなかったらメシヤ教が出る隙がないから、間違っているという事も、今の処はこっちが発展する上において大いに良いかも知れないが、しかし間違っている点があまりに多過ぎるので、こっちが非常に骨が折れるのです。
今私が書いているのは、名人の無くなった理由というのです。一番初めは劇界から書いてます。歌舞伎界の偉い俳優は次々と死んでしまいますが、これはどういう訳かという事です。今、頭株は吉右衛門、猿之助、三津五郎の三人でしょう。処が吉右衛門は危ないというのです。それから三津五郎も何時か分らないとすると、猿之助一人です。前と比べたらてんで話にならない。処が以前は多士済々たるもので随分居ました。それに上手です。それから画家の名人が今は無いのです。よく道具屋が“明主様は現代の画家の方はお気に要らないのですか”と言うのです。そんな事はない、私は買いたいが金を出して買おうという絵がないから買わないのです。昔の絵と比べてみてもてんで手が出ない。何ういう訳かと言うから、下手過ぎると言うのです。絵をみると病人の絵の様です。みんな弱っている。何処に原因があるかというと医学にあるのです。松竹会社は医者の方はとても行届いているので、一寸悪いと博士が飛んで来て、機械から薬から実に完備しているのです。頼まなくても医者が始終来るのです。それで医者の手にかかれば体が弱って死ぬというわけです。菊五郎なども医者が付ききりでした。死ぬ少し前には自分で注射していたのです。随分とそれを知らせ様と思っていろいろしてやって、結局死ぬ一、二年前ですが教修を受けるという事になったが、岡田大先生直接なら受けるが弟子なら嫌だと言うので、こっちも絶対にそうはいかない、弟子でなければ駄目だというので、随分我儘を通そうとしたが、神様の方は人間の我儘はどんな偉い人でもそうはいかないから、結局ああいう事になったのです。だから俳優が死ぬというのはそれです。それから画家が少し有名になると体を大事にする。だから安田靭彦さんは丸で医者が付ききりです。医者の言う通りで年中フラフラしてます。だから靭彦さんや古径さんの画いた絵は、病人の画いた絵の様でそこに迫力がないのです。それで結局一番の原因は種痘の為に人間の毒素排除を止めているから、それで体が弱ったのです。日本もそうですが、外国もそうです。外国にも名人というのはありません。今音楽で名曲と言えば百年から二百年前のものです。大抵百年前です。シューベルト、ベートーヴェン、バッハという名曲を作る名人は、みんな百年以上前です。だから近来は西洋音楽の良い作曲家が出ないのです。ドビッシイくらいでしょう。しかし私はドビッシイは少しも面白くないのです。結局種痘が出来てから名人が無くなったのです。名人を出すには種痘をやめなければ駄目です。日本でもそうです。長唄の小三郎師が来ますが、名曲は今もってやはり百年かその前のものです。明治以後の名曲というものは殆どないと言っても良いくらいです。というのは気にいるまでの曲を作るという根気が無くなったのです。いい加減な処でやめてしまうのです。それは経済的の理由もありますが、しかし第一番は人間の体が弱った事です。そういう点を言って段々分らせる事です。それで本当言うと“⇒アメリカを救う”という本もそういった事が骨子になってます。
この間もヨーロッパから帰って来た人の話を聞くと、英国人でも仏国人でも丸で活気というものがないそうです。ただ安楽に食ってさえ居れば良いという様で、実に元気がないそうです。そこでそれを狙ったのが社会主義なのです。社会主義というのは、働く奴と怠ける奴との差別をあんまりつけないのです。ですから英国は社会主義の理想的な国になってます。障害保険とか失業保険とか生産分配にしろ、そういう事は実に完備してます。それで優勝劣敗がないから、段々国が衰えていくのです。米国や日本は種痘が遅いからまだ活気があるが、もう五十年百年と立つと、英仏のようにただ無為に食っているという人間ばかりになります。又私がこれはいかんなと思ったのは、中共政府が出来て英国が一番先に承認したが、ああいう事は決してある筈はない事だが、これは英国が共産主義に屈服する様なものです。暴力者に屈服する様なものです。さすがに米国はがんとして今もって認めないのです。ああいうことはやっぱり英国などは戦争が恐しくて、正義と言うか国際正義というものがなくなっているのです。それで香港の貿易を失うのが一番怖くて承認したのです。
所で米国、ソ連、日本というのは種痘が遅いのです。年数は約半分ぐらいでしょう。日本は明治になってからです。ソ連も非常に遅いのです。スターリンになってからですから一番遅いかも知れません。そういう国だけに元気があるのです。だからここで世界中に早く分らせないと、世界中の人間は半世紀後には丸でヒョロヒョロになってしまいます。それで「世界救世教」と言って、世界を救うというのです。
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「十二月二十三日は御誕生祭でございますが、二十三日に月並祭を致しております所が多い様で、今月に限り変えさせて戴きまして」
良いです。日は何時でも良いです。
「御誕生祭には御参りさせて戴きます方が宜敷うございますから」
決った事はしなければいけません。それで誕生祭というのは意味が違いますから……。
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「本年九月二十一日入信の五十五才の男でございますが、十月二十一日に御守様を失いました。その事につきまして御詫びと御伺いをさせて戴きます。入信する一週間前に炭竃が焼け、その二、三日後に家の中にあった全然火の気がないストーブから火が出て、周囲に積んであった薪だけが燃え、家には全然火がつきませんでした。御守様を無くした当日は家の廻りで仕事をしており、お昼にはございましたそうですが、夕方に御浄霊を頼まれて気が付きましたそうでございます。本人は外した覚えは全然ないそうでございます。御詫び並びに御伺い申し上げます。なお樺太よりの引揚者で、蛇を殺すのが好きで、当日もマムシ何匹かを背中を割って吊ってありましたそうです。蛇を殺しておりますので、その方の事で何かあるものでございましょうか」
蛇と火事は関係ありません。それからどうしました。
「御詫びを致しまして、もう一度戴く様に致しております」
それで良いです。火事は結構なのです。さっき言った通り資格が足りなかったので、汚ないものは焼いて、それだけ浄めた為に入信出来るというわけです。それから御守様が無くなったのは、蛇とかという事でなく他に意味があるのです。それは今に分ります。御守様が無くなるとか汚ごすとか、いろいろな事は深い理由があるのです。
「御守様を戴きましてから今日まで十八年以上になりますが、その間二度ほど落そうとしました事がございますが、その事で考えさせて戴きました事は、兼々御守様を物質扱いにしてないと、落ちなければならない時も奇蹟的に落ちないという事でございます。一度はお風呂に入ります時にシャツと一緒にぬぎまして竹にかけ、風呂に入りましてから気が付き、見ますとシャツのボタンに紐がかかっておりました。もう一度は、まだ箱の中にお仕舞い申し上げました当時にお仕舞いしようとする時用事で立ちました時に落しまして、思わず手ですくいましたら、下に落ちる前に紐が手にかかっておりました。その事から、常々想念を正しく持っていれば御守護を戴けるという事でございます」
そうですよ。今の人のも、そこに非常に曇があるのです。むしろ御守様を無くしたという事は、その曇を除って呉れたのです。御守様が背負って呉れたのです。焼けたのもそうですが、それだけでは足りないのです。罪にもいろいろ種類があり、罪穢によって、先祖がいろいろ徳を積んだりしているので、その罪穢を除って救われるという因縁があるのです。だから御守様が無くなったという意味は悪い意味に解釈出来ないのです。むしろ良い意味に解釈して良いのです。
「七十才の男でございますが、御守様を無く致しましてそれが出て参りましたという事がございます。二年程前の事でございますが、山に行きまして無くし、その夜大光明如来様に御詫び致しまして休みました処が、夢の中にはっきりと、茨の生繁っている処にひっかかっている場面を見て、朝になって行ってみますと、夢の通りにございましたそうで、しかも前夜はどしゃ降りの雨でしたが全然ぬれてなかったそうでございます。御礼を申し上げます」
面白いですね。そういう時は正守護神が夢で知らせるのです。これは大した意味はありません。不注意とかのそういった軽い意味です。
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「病気は浄化作用だという事は良く分らせて戴いている人はありますが、他の事になりますと悪い事があったという観念が抜けない人がある様でございます」
それも一切が浄化作用なのですが、一寸のみ込みにくいのです。心配事も浄化作用です。だから悪い事や心配事があるという事も、やっぱり仕方がないので、その浄化によって境遇が良くなるのです。
「貧の御浄化という場合に、曇がある為に抜けられないという状態でございますが、御用を励まさせて戴きますと、その為に……」
それは霊界の地位によるのです。貧乏しているのは、貧乏をする地位にいるのです。ここの層は貧乏の人の霊界です。そこにいるという事は、それだけのものがあるからです。そうして上に上って、ここは貧乏が大分楽な世界になるのです。ここ(更に上層)に行くと、もう豊な人の世界です。そういう様なもので霊界の地位の問題です。だからどうしても仕様がないのです。それで地位を上らなければならないのです。地位を上げるには浄まらなければならないのです。その為には自分が苦しむとか、人を助けるその手柄その働きによって早く上にあがって行くという事です。だからこの辺に行けば物質に恵まれ、良い事の世界なのです。又ここまでには時期が行ってないから、この辺(一寸下層)までは行けるのです。結局霊的状態、霊的地位が上るという事が一番です。
「よく明主様が頭が悪いという事を仰言いますが」
それもそうです。丁度山と思えば良い。ここよりもここ(少し上)に行けば良く見えます。頭が悪いという事は、ここ(下層)に居れば一寸しか見えないからです。ここ(最上部)に行けば何でも見えるから、頭が良いというわけです。
「徳を積めば良いという事で、どうする事が一番徳を積む事になるかという事をよく聞かれますが、その一番の事は明主様の御仕事の御手助けになる事をさせて戴くという事が一番良いという事でございますから」
それは間接な言い方ですが、直接には人を仕合わせにする事です。要するに徳を積む事です。それが明主様の御仕事の手伝いをするという事になるのです。
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「もう一つは、人間の目で見ました処では、ああいう人、こういう人という事がございますが、一番はっきりしている事は、一万円と二万円は誰にでも分ります。それから期間で、その連続が一番御蔭を戴くというわけでございます」
そうです。はっきり分るのです。だから要するに理窟は簡単なものです。ややこしい事はありません。むしろ簡単なために分らない場合がよくあるのです。こうして(御浄霊)病気が治るという事と同じです。医者が大騒ぎをして治らない、こうして治るものか、と。反って簡単すぎる為に分らない事が多いのです。それは今迄ややこしい面倒臭い世界に住んでいたからで、丁度薄暗い所に住んでいたから見えないが、明るいとすぐ見えるのです。それが霊的であって物質的でないから、すぐに分らない。従っていろいろと分りにくいわけです。それが一つの仕事というわけです。だからその人によって、話で分らせるのの上手下手と言うか、急所ですが、さっきも言った通り急所を見るのです。この人にはこういう事を言えば分る、しかし又人によって違うのです。この人にうまく言った事を他の人に言っても分らないのです。人を見て法を説けという事です。それは別に考えなくても自然になるものです。その人の心が素直になって、要するに邪念がなくなると、自然にその人の急所に行く様になるのです。それがそうならないということは、その人に我があったり邪念があって、自分が喋ろうということになるから、それでスーッといかないのです。この教えは応身というのですから、先方に応ずる様にすると、丁度先方に触れる様な話になってしまうのです。これは中々易しくて難かしいのです。それが一つの修行です。そこに行く様に段々やる事です。そうすると急所にいくから、先方でなるほどと心が動くというわけです。だから頭が良いとも言えるし、霊位が非常に高くなるとそうなるのです。無闇に喋っても割合に効果がないのがありますが、鉄砲打の名人みたいなもので、一発で中(アタ)るのと、散弾などをバラバラ射って、やっと一つ中(アタ)るというのと同じです。
「やはり叡智と濁智でございます」
そうです。そういった味わいは面白いものです。あんまり喋ってはいけないし、喋らなくてもいけないし、時と場合によって千変万化自由無碍というわけです。だから一つの学問みたいなものです。ただこの方の学問は世の中の学問とは違うわけです。こっちは高級なのです。大学以上です。だからそういう風になれば、どんな学者や大学の先生でもちゃんと先方で頭を下げます。私は高等小学だけみたいなものですが、先方は大学の先生でも頭を下げて来ます。これはその一つの見本です。
「先日泰さんという作家の人が、明主様に御目にかかりました後で私の処に来まして一時間半くらい話しましたが、今日は来て良かったと非常に喜んでおりました。その場合にもどんな人と会いましても、相手が感心する様な事を話させて戴け、一歩上の事を言わして戴けます事は、実に有難い事でございます」
それはそうです。世界が違いますから。
(垂十六号 昭和二十七年十二月十五日)