われわれ宗教家にとって、何よりも平和主義が建前であるのは今更いうまでもないが、そうかといってその時代によってはそれを立て通す事の至難の場合も往々あるが、これも止むを得ないであろう。これについて現在の世界情勢を見る時、今の時代が丁度それではないかと思うのである。というのは今日如何程平和主義を唱えようとしても現在の世界では鉄の壁じゃない鉄のカーテンに突当ってどうにもならない事実である。ところがそれだけならまだいいとしてもここに問題がある。というのは鉄のカーテン外の国だけが、思い通りに平和主義になったとしても、その結果果してプラスであるかを考えてみなくてはなるまい。というのは鉄のカーテン内の国が、いつかは武力を以てカーテンを突き破り、進出して来ないと誰がいい得るであろうかである。この危険を思えばただ漫然と平和主義を唱え、平和運動を行う事は、大いに考慮を要すべきではないかと思うのである。
この事を今日、日本に当て嵌めてみても同様に思える、というのは現在再軍備の可否についてであるが、この問題は相当以前から喧々囂々(ケンケンゴウゴウ)として今以って国論一致せず、結論を得られないにみても、その困難さが想像に余りある。そうして差当って世界の情勢であるが、今度のアイク次期大統領が朝鮮問題を積極的手段でなくては解決の出来ないという意志を発表した事でもしそれが実現するとしたら朝鮮戦争は拡大しないまでも、今迄より激化するのは当然であろうから、場合によっては日本も或る程度まき込まれない訳にはゆかない事態となるかも知れない。そうなったら今日の再軍備論など一遍に消し飛んで了うのは勿論であるから、この点予め覚悟しておくべきではないかと思うのである。
というわけで吾々宗教家としても、徒らに平和主義を振りかざすわけにもゆくまいから、ここに難しい課題がある。せんじ詰めればこういう厄介な問題の発生しない世界を造るのが、宗教の使命であるのは言うまでもないが、現在としてはそのような理想よりも、現実の問題の方が切実であるので、善処しなくてはならないと思うのである。
(新宗二十六号 昭和二十八年一月十五日)