結核と精神作用

既に説いた如く、現代医学が結核増加の役割をしてゐるといふ事は、真実とは思へない程の悲劇である。然るに精神的方面に於ても拍車的役割を演じつつある事に注意を払はなければならないのである。

元来吾々人間が他の動物と特に異る点は、人間には精神生活がある事である。即ち喜怒哀楽等の感情を有し、外部からの刺戟や暗示による感受性の鋭敏なる事である。従而精神が肉体に影響する事は予想外に甚大なる事は誰もが経験する処である。何人と雖も心配や不安に襲はるる場合、食欲の減少、顔色蒼白、沈黙、憂欝、不眠、頭脳の混惑等の症状が、多少は必ず起るものである。そうして人により神経衰弱となる者もあり、甚しきは精神病者となる事も罕(マレ)ではないのである。

右の理によって今日結核問題を考慮する時精神作用の影響が如何に軽視し得ぬものがあるかを述べてみよう。それは結核ならざる者が、精神作用によって真の結核となるといふ例である。先づ茲に或家庭に結核患者が一人発生したとする。然るに家庭の誰もが何時かは自分に感染するかもしれないといふ危惧の念に駆られ、その観念が頭脳から放れない。するうち偶々風邪を引く、普通ならば単なる風邪として放置するか、又は売薬位で治ってしまふが、此場合はもしや自分に感染したのではないかといふ疑念が起る-その結果早速医療を受けるといふ訳で、医療は再三説いた如く逆効果であり、而も前記の如き不安も手伝ふから捗々しく治癒に向はない。又医師としても家族の一員に結核者のある事によって或は感染ではないかといふ疑念が起るといふ訳で、それが又患者の神経に響くから漸次不良な状態に進んでゆく。遂に医師も万一を慮って明瞭に結核を宣告するか、そうでないまでも患者に悟れる位の事を言ふ。是に於て患者は結核は不治といふ潜在観念に囚はれ絶望的となり病気は倍々増悪する。畢に不帰の客となる-といふのが最も多い実例であらう。嗚呼、単なる風邪で簡単に治るべきものが、誤れる医学による精神作用が終に貴重なる生命を奪ふといふに至っては洵に軽視出来ないものがある。

之に就て二三の例を挙げてみよう。その一は有名な外国の例である。仏国パリーの或監獄に於ての実験であるが、健康な一囚人に対し、医師が健康診断の折、『お前は結核に侵されてゐる』と言ったが、その囚人は『自分はそんな筈はない。多分医師の誤診であらう』と意に介しなかった。暫くして又健康診断の後『お前の結核は幾分進んでゐる』と告げたが、それでも本人は別段意にも止めなかった。然るに第三回目の時医師は『お前はもう立派な結核患者になった』と言った所、其時から俄然変化を起した。それは日に日に衰弱を増し、数ケ月の後畢に死亡したといふのである。次は米国での実験であるが、之も或囚人を眼隠しひし、手指を一寸負傷さして足許にバケツを置き、血液が少しづつ落ちるやうな音を水滴によって聞かせ、暫くする裡実験者が、『お前はもう大分出血をし、最早致命量に達した』と言ふや、間もなく絶命したそうである。

次に動物にも結核がある。即ち牛である。結核に罹る牛は相当の数に上るとの事であるが、此動物は結核牛となるも、寿齢には些かの影響なく、健康牛と同様だそうである。勿論人間と異り、精神作用が全然ないからであらう。

右の例によって鑑(ミ)ても、人間の精神作用が如何に影響するかが知らるるのである。

(天国の福音 昭和二十二年二月五日)