今日結核は伝染するものとして非常に恐れられ、其為の国家及び個人の手数や負担の莫大なる事は洵に驚くべきものがある。一般世人の伝染を恐れる事甚だしく、親子夫婦と雖も接近し語り合ふ事さへ医師から厳禁せられてゐる。従而、家庭内に結核罹病者一度発生するや、家族等は戦々兢々として何時伝染するやも知れずとなし、危惧の日を送ってゐる実情である。成程実際感染するとしたら右の如きも止むを得ないとするも、私の発見によれば結核は決して感染する憂へはないのである。元来結核菌なるものは伝染ではなく自然発生のものである。それは如何なる訳かといふと曩に病原として説いた毒素の固結が体内に残存し、時日を経るに従ひ腐敗する。腐敗せるものに微生物が自然発生するのは万物共通の事実である。視よ、木材が腐敗すれば白蟻が湧く、如何程精白した白米と雖も古くなれば蛆が発生する。腐敗によって無機質から有機物が発生するのである。白米を如何に厳重に密封しても必ず蛆が湧くによってみても、蛆の卵が他から侵入したのでない事は明かである。故に結核は非伝染である事を、何れ医学に於ても発見する時が来ると私は信ずるのである。
右の理を実證する為私の経験をかいてみよう。私の家族は私等夫婦の外に子女が六人(其当時二三歳乃至十五六歳まで)常に同宿してゐた。そうして十数年に渉る間、研究の為、重症結核患者と大病院に於て診断された者常に一人か二人同宿さして治療したのである。少くとも二十数人に及んだであらう。勿論一切家族と同様に取扱ひ、食事も共にし食器等も一切消毒はしなかった。私は実験の為患者と子供を同室に寝させるやうにした。その中の数人の患者は私の家で死亡した事によってみても、何れも重症で、医師からは不治の烙印を押された者ばかりであった。然るに十数年を経た今日に到るも六人の子女は一人の感染者もないばかりか何れも健康そのもののやうな者ばかりである。此実験によってみても、結核は非伝染である事は、私の断言して憚らない所である。
故に私は何時でも結核感染の実験をして貰ひたいのである。私自身でも私の家族でも、又は私の弟子又はその家族数万人と雖も欣(ヨロコ)んで実験台に応ずる事は言ふまでもない。之に就て私が以前出版した著書に結核の非伝染を載せた所、それが当局の忌諱(キキ)に触れ発禁になった事があって非常に残念に思った。何となれば、右の如く実験に応ずる事を書いたにも拘はらず、それを実行もせずして独断決定したからである。多分既成理論を絶対の真理と信じた為であらうが、其頃の日本の当局者が、頑迷で如何に文化の進歩を阻害するに忠実であったかが知らるるのである。
私の唱へる細菌の自然発生説に対し現代科学者は嗤ふであらう。何となれば彼のフランス細菌学の泰斗パスツールによる細菌発見説が出て、それ迄の一般科学者に支持せられてゐた自然発生説が覆へさせられたからである。それに就て簡単に述べてみよう。
それはパスツールの実験であるが、彼は先づ羊肉の搾り汁を二つの硝子瓶に入れた。一つは口の曲れるもの、一つは口の真直なるものであった。然るに口の曲れる方は微生物が発生しないのに、真直な方は微生物が発生したといふ事実である。それ以来自然発生説は覆へされ、空気に因る伝染説が信ぜられ今日に至ってゐるのであるが、此原理に就ては、後に霊と物質の関係に就て詳説するから茲では簡単に説明する。
抑々森羅万象の構成は火素、水素、土素であり霊気は火素を主とし、空気は水素を主とし、土壌は土素を主とする。又、霊気(火素)は経に上下動し、空気(水素)は緯に流動する。そうして微生物の発生は熱即ち火素に因るのであるから、口の曲れる瓶は、経に昇降する火素をガラスが遮断する為である。此理論を最も簡単に知る方法として、人間が横臥する時は寒く起座する時は温暖であるといふ事実にみても判るであらう。
又十九世紀の医聖と謂はれたウィルヘョウ博士が細胞病理学を唱へるに及んで近代医学は新時代を劃したといはれる。それによれば「人体は皮膚、粘膜、筋肉、骨格、毛髪等凡て無数の細胞から成立ってゐて、その細胞の一つ一つが生命と生活とを有し、各々の細胞の生命と生活とが集って一個の人体を構成してゐる。病気といふのは詰りそれ等細胞が変性し、その生活が衰へた状態を指すといふのが細胞病理学な大体である。
例へば肺結核に於ては、結核菌が肺の組織中に侵入し、繁殖し毒素を出す為に、その部分の細胞が変性或は破壊され、破壊された細胞は血液中に吸収されて全身の機能に障碍を及ぼし、発熱、盗汗其他の症状を起すのである。
そうして結核患者の熱は、結核菌が肺臓内に侵蝕して病竃部を作り、此病竃部と菌自身から出す毒素の為に発熱中枢が刺戟されて発熱する」といふのである。
右の病理説の誤謬である事を指摘してみよう。もし細胞の生活が衰へてそれが病原になるとすれば、新陳代謝の最も旺盛であるべき青年期に結核は発病しないで、老年期に至る程発病するといふ道理になる。然るに事実はその反対であるにみて多くを言ふ必要はあるまい。
又肺結核に於ける発熱は、菌自身から出る毒素の為に発熱中枢が刺戟さるるといふのであるが、一体発熱中枢とは如何なる機能で、如何なる局所にあるか、医学に於ては頭脳内にある如く解釈してゐるが、荒唐無稽も甚しいのである。私の研究によれば発熱中枢などといふ機能は人体何れの部分にも全然ない事を言へば足りるであらう。 以上の如き杜撰幼稚なる病理を金科玉条として来た医学である以上、今日の如く行詰るのも又止むを得ないであらう。
次に、結核の特効薬程無数に出現するものはあるまい。それは出現当初は奏効顕著として持囃されるが、何時しか忘れられるといふのは如何なる訳であらうか。即ち効果ある如く見ゆるのは、浄化停止の薬力が偉効あるからである。日本に於ても最近BCG及びセファランチン等の新薬が推奨されてゐるが、之等も遠からず放棄さるる事は火を睹るよりも瞭かである。
(天国の福音 昭和二十二年二月五日)