日置昌一氏との御対談 私は不幸を免れた

日置氏 私なども、幾度かいろんなことに遭遇してきたが、やはり自分は不幸にはならぬという自信をもっておった。だから、いつも最後の場合には、それを切抜けている。面白いのは大正十二年の夏、私は本所の大石という当時の東京府会議長の家に下宿していたが、八月の三十一日になったら、その家がなんだかいやになってしまって、ひまをもらいたいといったところ、ちょうど九月五日が府会議員の選挙で、今忙しいから、だめだと断わられた、しかしどうでもいやになって、その晩家出して岐阜の家へ行った。ところが、その次の日が大地震で、そこの家にいた十七人中、生きているのはボク一人だけだ。

明主様 そこに霊的の意味がある。つまり一人一人の人間に守護神--外国では守護霊というが--それが、ついていて助ける。

日置氏 もう一つは、昭和十九年の五月二十三日に豊橋の百六十部隊の工兵隊へ入るよう召集が来た。困ってしまったがいまさら隣近所に派手に送られるのは阿呆らしいし、こっそり一人で家を出て二十五日に豊橋駅前の宿屋へ行って、御飯を食べるときに、もって来てくれた静岡日報をひょっとみると、二十年ほど前に下谷での下宿で、隣の部屋に陸軍大学に行っている中西という人がおった。この人とは昔からとても懇意で、しまいには兄弟みたいにしていた。それがその静岡日報に偶然その人が、前日にシナの某地の部隊長からぼくの入る部隊長になって、いま宮中に参内して豊橋へ着いたという記事が出ている。驚いてぼくは、急いで電話をかけた。彼は出てくるなり『本当に日置か、オレは貴様に会いたかった』と言って、『すぐ行くからそこを動くな』と電話を切るや、ほどなく自動車でやって来た。そして靴のまま上って来て、ぼくを抱いてポロポロ泣いている。いろいろ話しているうち『実は召集が来て、しかもお前の部隊へ二等兵で入るのだ』と話したところ、『それは困るな。しかし、まあ今晩はうれしいから大いに飲み且つ食おう』というわけ。翌日は彼は一日休んで一緒に渥美半島を一回り回って帰ってみたら、表に馬が一頭つないである、応接間へ行くと軍医少佐が来ていた。部隊長の彼は、ぼくのことを軍医少佐に『上官としていうのでないが、自分の親しい友人でワシの部隊に入ることになっているが、ちょっと身体の具合が悪そうだから事前によく調べろ。この男はぼくの部隊へ入っては非常にぼくが迷惑するということだけいっておく』といって帰った。翌朝迎えの自動車が来て軍医の部屋へ連れて行かれたが、軍医は看護兵にそれぞれ用をいいつけて外へ出してしまい、私を診断して両肺浸潤、再起不能で兵役免除と判をおした。そして閣下の方は、自分からお知らせするからという。そんなことで、ぼくは、さっさと東京へ帰ってしまった。その部隊が、全員硫黄島で三、四カ月のちには玉砕です。

明主様 だから助けるべき霊がついている。理屈では説明できないね。

日置氏 こういうことはあまり信じないが、ぼくが璽光尊にはじめて会った時、『あんたには面白い人がついている、顔にホクロがあり肥って髪の毛が半白で六十前後の人だ』と言う。よく考えてみると叔父なんです。この叔父は、とにかく百姓をしながら歴史が好きでしようがない。郡一番の蔵書家で、長男のため自分は志をとげられなかったから、ぼくを引取っていろいろなことを教えはじめた。二、三歳でいろんな物語を話し、四つのころには大抵の字は書かせるようにし、五つでは漢文さえ読ませる、七つのころはもう日本外史などスラスラ読んだ。叔父は早く死んだが、そういう育て方をしたから、ぼくはどっこも学校を出ないで今日あるんです。それを璽光尊がパッとあてた。あんたは危ないところを切抜けて四回逃げている。叔父さんのおかげだと言った。

(昭和二十七年十月二十五日)