私は若い頃から、非常に映画が好きな為、映画監督にならうと思った事がある。然しよく考へてみると、映画監督では仮令出世した処で大した事はないので、いっそ映画事業をやって成功者とならうと思ひ、先づ其手始めとして映画館を造ってみやうと思ひ立ち、心掛けてゐた処、恰もよし映画館設置の権利を得たが資本が足りないので困ってゐるといふ人の話を聞いたので、恰度いいと思ひ、早速本人に面会しよく確めた処、其通りなので、私も乗気になり、最初は共同の約束をしたが、中途から私が主脳者となる事にした。何しろ物の安い頃とて、資本金二万五千円全額払込の株式会社を設立するとして、私が半分の株券を持つ事となったのである。勿論私が専務取締役となるや、適当な土地が見つかったので早速購入し、愈々建築に取掛ったのである。処が全然今まで興行などには無経験なので、仲々容易ではないが、併し私は何も経験だと思って、苦心惨澹、兎も角、小さい乍らも一つの映画館を作り上げ、茲に開館する事となったのである。
処が其頃の所謂活動写真館は、今日と異って弁士や楽隊、チョボなどを雇はねばならず、又町内の顔役への附届けだとか、何や彼や別世界の連中を相手にするのであるから、其気苦労は生易しいものではない。而も其社会の裏面など全然知らない素人の青二歳が、急に飛込んだのだから大変だ、私は甘く見られ、舐められてどうしていいか分らなかったのである。
処が実に不思議な事があった。それは最初の時から、原因不明の発病である。それが建築や何かを見廻る予定の日は、判で捺したやうに発熱、不快に悩ませられる。それを我慢しいしい出掛けてゐたが、驚いた事には開館式当日の事である。何しろ私が専務であったから、区長や町長、名誉職などを招待してあるので、どうしても私が出なければならないが、其当日となるや朝から四十度の高熱と来て、ウンウン唸ってゐるといふ騒ぎ、これでは流石の私もどうする事も出来ず、止むを得ず代理を頼んで済ましたが、全く不可解で考へやうがなかったのである。
そんな訳でも兎も角開館はしたが、不思議はまだ続いた。それは当時一日置位に館へ出張しなければならないが、そうなってから館へ入ると急に腰が痛くなり、梯子段を上らうにも、漸く手摺に掴まって這ふやうにする位だが、家へ帰るとスーッと治って了ふのである。処が右の話を聞いた或人が、それは何かの祟りかも知れないから、自分の知ってゐる某宗の行者によく判る人があるから、一度見て貰ったらどうだといふので、早速見て貰った処、行者が曰ふには、舞台の真中辺に死人の顔がみへる。恨めしそうな顔をして睨んでゐるといふので、私はゾッとした。併し其頃は無神論のカチカチだったので、其儘信ずる事は出来ないが、何しろ現実に不思議な事が続くので、そんな事もあるものかなァー位に思ひ、兎も角も此事業から手を引く事にした処、それから病気は日に日に快くなったのである。
以上の事を今日考へてみると、神は私の使命に対し、そういふ事業に手を出しては不可ないとして、止められた事はよく分るのである。
(昭和二十七年)