為郷恒淳氏との御対談 浄霊は信じなくても出来る?

為郷氏 それから神様は悪人を造って、その悪人を救わないのでせうか。

明主様 いや救うのです。神様は悪人を作っておいて救うのです。救わなければならない必要があるのです。と言うのは、悪人と言うのは、要するに、汚いものは綺麗にしなければならないのです。そこで、之は精神的にも言えますが実に面白い訳なのです。之は私は今書いていますが、一寸簡単な説明は出来ません。

為郷氏 例えば悪人があって、悪人が悪人のまゝで死ぬ場合がありますが、之は救われないのですか……

明主様 処がそれは霊界を信じないからです。霊界が判るという事が必要なのです。之でなければ問題の解決は出来ません。私は最初、霊界の研究をウンとやりましたが、寧ろそれが出発とみていゝです。ですから霊と言うものの根本を把握しなければならないです。ですから、先刻御覧になったでしょうが病人の頭が痛いと言うと、斯う(御浄霊)やれば良いのです。先刻の集りの時、私がみんなをやっていたのを御覧になっていたでしょう。あれで病気が治ると言う事は沢山あるのです。私は不断は別ですがお祭の時は大勢ですから時間もかゝりますしこっちもやっかいですが、やって呉れといってきかないのです。それでやってやるのですが、中には病気が治るのが沢山あるのです。大体空間で何もないのですが、中には熱くなる人が随分あるのです。斯う(浄霊)やると汗をかく人も沢山ある。そうかというと、スッと気持が良くなる人、ピリピリ電気の様なものを感じる人もありますし、人によって色々です。兎に角それによってみんな非常に工合が良くなるのです。之は何かと言うと、之が霊なのです。見えざるものです。斯う(浄霊)やって、どうして病気が治るか、といふ事は理論科学的にも説明してありますが、私の方の根本は病気を治す事です。病気を治せば、あらゆる問題は皆解決がつくのです。思想問題でも何でもそうです。病気を治すといっても、健全な思想の人間になればいゝのです。健全でないと言う事は、人間の霊が病気になっているのです。人間といふのは体ばかりではないのです。之は科学といふものは間抜けなもので、斯ういふものが人間としてあるのですから、人間が生きて働いて思想もあると言う事は、物質ばかりではないのです。なにかがあるのです。ただ目に見えないからないといっているのです。丁度野蛮人に空気の説明をしてもないと言うのとおなじです。だから霊のあると言う事を信じさせる事が救いの根本です。その霊を治せばいいのです。そうすると体の病気は治ってしまうのです。ですから輸血といふ事は私の方では笑ってますが之(御浄霊)が輸血です。否輸血以上のものです。何故かと言うと、出血で今にも死にそうなのが斯うやる(手を翳され)と生きかえるのです。

為郷氏 そう致しますとお光をなさると言う事は誰でもいゝと言う事ではないのですか。

明主様 やる人は誰でもいゝのです。熊公でも八公でも、人間であればいいのです。

為郷氏 例えば私でも斯うやればいゝのでせうか。

明主様 そうです。博士の見離したものでも治ります。

為郷氏 併し私が霊界というものを信じなければいけないのではないでせうか。

明主様 そんな事はありません。ですからそこに価値があるのです。自力と言うのは少しもないのです。自分が一生懸命になると言う事は自力が加わる事です。ですから人間の力は不必要です。要らないのです。六つか七つかの子供が親を斯うやって(浄霊)治るのですから素晴しいものです。

(昭和二十七年十月二十二日)