或客との対談 (光新聞二十五号)

客「貴教団の凡ての行り方は洵に我意を得てゐるが、ただ一つどうかと思ふのは、余りに病気治療に専念し過ぎはしないかと思ふが此点御高見を伺ひたい」

私「貴君のそう思ふのも無理はない、既成宗教の行り方が常識となってゐる現代人としてそう見るのは無理はないが、本当の事をいえば私のやってゐる事は宗教とはいえないかもしれない。では何であるかというと救の業といふべきであらう。救の業とは一言にして言へば病気を治す事だけで外には何もないのである、というと一寸変に聞えるであらうが、実は斯うである。みんな病気を狭義に解釈してゐる、病気といえば人間だけと思ってゐる。処が私は広義に解釈する、即ち病気とはひとり人間のみではない、社会も国家も世界も、現在は悉く病体である。例えば日本だけにみても、支配階級の苦悩は頭痛であり、上層階級の顛落は脳溢血であり、悪思想の蔓延は肺結核で、心臓の悪いのは社会一般の不安恐怖である、金詰りは血行が悪く貧血であり、勤労階級の苦悩は手足の苦痛というように、国全体が病体であり半身不髄で苦しんでゐる。世界も勿論同様であらう。とすれば之を如何にして健康体になすべきやというのが、人類に課せられたる少くとも文化人に課せられたる大問題である。

処が、基督教は別とし、今日迄の宗教、道徳、法律等では一時的苦痛緩和のカンフル注射位の効目はあるが、全治させる事は不可能である事は、現実が證明してゐる。此意味によってどうしても絶対的強力なる療法が生れなくては、人類の不幸は益々甚しくなるばかりだ。本教が生れたのも全く生るべくして生れたのである。勿論広い世界と雖も二十億の個人の集団である。とすれば、先づ個々人の病気から解決してゆかなければならない、それより外に有効な方法はあるまいからである。

最初に私が言った本教は宗教ではない救の業といふ所以で、本教が最も治病に力をそそぐといふ事も理解されたであらう」

客「成程、判りました」といって帰った

(光新聞二十五号 昭和二十四年九月三日)