医学の迷蒙

左の患者は、初め肋膜炎を煩い、それを療養中脊髄カリエスとなったのであるが、これなどは全く医療で段々重症にしたのである。というのは最初胸部に腫物が出来たのは、肋膜の水が膿化し、腫物になって出ようとしたのであるから、全く自然治癒作用が起ったので放っておけば充分腫れて穴が穿き、全部排膿されて快癒するものを、それに無智である医学は切開し、病気とは無関係である肋骨までも削ったのであるから乱暴極まると言うべきである。それが為膿の自然排除を妨げられた結果膿の集中作用が停止され、他の部から出ようとして腫れる、という訳で、それを脊髄カリエスと間違えられたのであるから患者は気の毒なものである。これなども医学が病気を作る一例である。

瀕死のカリエス再三の御浄化により救わる

岡山県 H・Y
限りなき大御心に救われ、あらゆる不幸から甦らせて頂きました偉大なる御守護の数々、常識では到底解し得られぬ大奇蹟の数々を御報告させて頂き、謹みて明主様に御礼申し上げます。

私は昭和二一年の暮南方から復員して帰りましたが、東京の家は焼け出され、家族は散り散りばらばらで妻は岡山県の実家に身を寄せて居りましたが、半年前から肋膜を病み四回にわたって洗面器に二杯からの水膿を取り、医師も「これ以上溜ったらもう駄目だ」と言われた位体力は衰えて居りましたが、かろうじて小康を得、自分で用便にだけ行ける様になって居りました。「これで大事に養生をして順調に行けばまあ大丈夫だろう」と、はかない希望を持ちながら兎も角生きて帰った私を囲んでみんな喜んで呉れ、裸一貫で新生活に向う私共を励して呉れたのですが、運命は皮肉なもので、それから三日目妻は右胸部に拳大の腫れが出来、診断を受けますと肋骨カリエスとの事、早速切開手術を受けさせましたが、復員したばかりの私には医療費がありません。然も私の家は複雑な事情がありまして長男でありながら家に帰れない有様で妻の実家に厄介になったので、何時までも医療費までお世話になる訳には行きません。これより私の苦難の生活が始ったのでございます。

なんとかして今一度元気にしてやりたい、最大の治療を受けさせ一日も早く良くなって貰おうと、一生懸命医療を受けさせましたが結果は全く反対でした。二回目の切開手術をしましたが良くならず、二二年九月高梁市の某病院に入院し大手術を受け、肋骨を削り取ったのであります。併しこの手術も一時的のもので、只悪い部分を切り取っただけで健康は少しも恢復せず、益々腺病質になるばかりでした。お灸が良いと言われればお灸もやり、色々迷ったのですが元気にはなりません。その内また化膿して再度手術をする様に言われましたが、手術の苦痛と今まで何回手術しても治らないので、一日のばしにのばして様子を見て居りました。とこ ろが二三年一〇月末、突然腰に痛みを訴える様になり、のびもかがみも出来ないと言うので、大学病院へ行きました処、「脊髄カリエスで右の腰に溜膿があり重症だから早速入院する様に」と言われ、翌日入院したのであります。ここで大学病院について一寸お話し申し上げねばなりませんが、重症患者を診察するのに診察室で一時間以上も待たせた上、教授の先生が助手や研究生を一〇名位つれて来られ、先ず先生が一応診察して今度は一人一人の研究生が診察して先生に報告し、ああだこうだと研究すること実に二時間にも及ぶのであります。まるで研究材料たる一個の物体に過ぎない扱いですから、患者は堪ったものではありません。良くなるどころかへとへとに疲れてしまい、二日目には遂に悲鳴をあげ、大学病院を出てカリエス専門と言われる岡山のS病院に移り、一一月六日から翌年一月一八日まで入院し、その間首を吊ったり足を引張 たりしてギブスベッドに寝たり、只管療養に努めました。腰の膿も二回抜きましたが、抜いても又直ぐ溜りはかば かしく行きませんので退院して自宅療養をすることに決め、帰ってからも医者の言うことを忠実に実行して絶対安静を守り、一生懸命養生しましたが結果は全く反対で段々悪くなり、顔は全く死人の様に蒼白で、体は痩せ衰えて背中は曲り、憐れな姿となり治ると言う希望は全く無くなってしまいました。こうした絶望感もそう長くは続きませんでした。遂に神様は偉大なる救いの御手を差しのべて下さいました。

忘れもしません。二四年の四月一〇日私が仕事から帰って見ますと、妻が嬉しそうに「今日救世教の先生が近所の方の紹介で来て下され、手を翳して下さったがとても気持が良く、有難くて止めどもなく涙が流れた」と言うのです。私は信仰心など無かったのですが別に反対もせず傍観して居りました。四、五日すると「お守様を頂いて呉れ」と申しますので「治ってからにしなさい」と言うと、「どうしても欲しいから貴方が受けて呉れなければ私の着物を売ってでも貰う」と言い、また「ギブスベッドを外しても良いと言われた」と言って外すので大変心配になり、「若し悪くなったら何うするか」と言えば「絶対悪くはなりません、私は救世教でなければ救われません」と言い、弱虫に似ず中々強硬です。まあ本人の意志に任せようと思い、四月一七日妻は入信させて頂くべく教会にお参りしたのでありますが、先生は「貴女が入信するより先ず主人に入信して貰い、浄霊して貰いなさい」と言われましたので、私が先に教修を受けたのです。今から考えますと全くこれこそ神様の大慈悲であり、お仕組だったと思われます。若しこの日予定通り家内が入信させて頂いていたら、恐らく私は入信するに至らず、妻も中途で挫折して今日の喜びを得るに至らなかったと思うのです。さてその日から半信半疑の儘私が毎日御浄霊をさせて頂きました。浄霊しますと気持が良いと言い、一週間もたたない内に起きだしてぼつぼつ炊事もする様になり、教会にも毎日歩いてお参りする様になりましたが、それでも私は気のせいではないかと半信半疑だったのです。

その内に私も御神書を拝読させて頂き、初めてこの時目覚めさせて頂き、改めて先生のお話が聞きたくなり、五月一七日進んでお参りさせて頂き、その家内も入信させて頂いたのでございます。それよりN先生の力強い御指導を頂き、七月には初の箱根御参拝も許され、家内の腰の溜膿について明主様にお伺い申し上げ「膿は溜るだけ溜ったらふっ切って出る。早い遅いは浄霊する人の霊力に依るのだから気長にやる様」との力強き御垂示を賜わり益々意を強くしてお縋りさせて頂き、八月には御神体を奉斎させて頂き、只管御浄霊に励みましたところ、腰の膿もだんだん大きくなり足が引き吊って思う様に歩けず、おまけに神経に響くので一人では教会にお参りする事も困難なので、毎晩自転車の後に乗せて引いて通いました。一〇月には足に御浄化を頂きカリエス特有の神経痛で指一本触れても全神経に響き、身動きも出来ない程でしたが、それも一〇日で良くなりました。二五年になってから右腰だけだった溜膿も左腰にも溜り、右大腿部にも下り、又内股にも拳人に溜結して、もうふっ切るのも間近い事と嬉しくて待ち遠しい思いでした。ところがその年の一〇月突然お腹が大きくなりだし、七日目には妊娠七ヶ月位になり腹膜症状となりました。同時に毎日五、六回の下痢をし、また寝ると朝まで引切りなしに咳をしてその度に多量の痰を出し、八日目頃からお腹がだんだん小さくなり出しました。下痢と痰は一ヵ月も続き、この変化が起りましてから腰や股の膿が軟くなり、浄化の進むに連れてだんだん小さくなって行き、浄化が済んだ時には膿は全く無く腰も自由に曲る様になり、顔色もすっかり変って紅をさし誰が見ても驚くばかりです。然も不思議な事にこれだけの御浄化にも左程苦痛を伴なわず、一ヵ月の間殆んど一睡も出来ない位せき通したに拘らず、昼間は平常通りお洗濯もし、台所もしてお参りもしていた事でございます。予想に反し余りにも安く越えさせて頂きました事は、全く大きな御守護であり、身に余る御恵みであり唯々感激の外ありません。

長い間のカリエスもこうして生まれ変った別人の様に元気にして頂き、今では遠い山村に出掛けて行き、二里も三里もの山道を毎日歩いてお救いのお手伝いをさせて頂いて居ります。入信以来今日に至るまで私共の頂きました御守護の数々は余りにも多く、余りにも大きく口や筆 には現わし様もございません。唯々明主様に心よりお縋り申し上げて居ります。

ここに謹みて御礼申し上げますと共に今後共何卒御神業の末端にも御役に立たせて頂けます様御願い申し上げます。

明主様誠に有難うございました。

(昭和二七年九月一七日)

(世界救世教奇蹟集 昭和二十八年九月十日)