霊と体

前述の如く、物質及び空気は、何れもその存在を捕捉し、確認せらるるのであるから、空気と雖も物質として扱はるべきものであるから、無と同様の存在である。霊気と対照してみる時、一の霊と二の体と区別してみると、霊と体とになるのである。然るに、此無と想へる霊、即ち、霊素なるものが物質を自由自在に左右するのみならず、万物を生成化育し、生物の死生も自由にし、人の運命も国家の興亡も社会の変転も、世界の争乱もその尽くの根源が、之によるといふ事を識る時、実に驚歎の外はないのである。故に人は、霊の存在及び霊界の実体を知識する事によって、人生観は一変して真の幸福の第一歩を踏み出す事になるといふ事も過言ではないのである。何となれば、人生の幸福の最大条件たる健康の真諦を、根本的に把握し得られるからである。(医学試稿 昭和十四年)

霊と血と正しき信仰

抑々、人体の構成原素を大別すれば二種の原素から成立ってゐる。それは、精霊と肉体とである。然るに、今日迄の科学は、肉体あるを知って精霊あるを知らなかったから、半分だけの認識であったのである。それは、科学が進歩したと謂っても、精霊の実在を測定なし得る迄に到らなかった為である。而して、再三述べた如く、病気の根源は、精霊に最初発生するのであって、其順序として精霊の曇りが血液の汚濁となり、血液の汚濁が肉体への病気となるのであるから、血液なるものは、実は精霊の物質化であるとも言へるのである。其證拠には、人間の死後忽ちにして血液は凝結するので、血液の量積は何百分の一に減少する訳である。即ち、血液を全身的に流転活動させつつあった其ヱネルギーの脱出である。然らば、其ヱネルギーは何である乎。其Xこそ精霊其物である。故に、死は精霊の脱出である。謂はば、最早使用に堪えなくなった肉体を精霊は捨て去って何処へか行ったのである。別な意味から言えば、精霊を繋ぎとめるとしては、余りに肉体が破損し過ぎて了ったのである。宛かも壁は落ち、軒は傾き、雨露を凌げなくなったから、止むを得ず、其破家を捨てて永年住んでゐた住居人が引越して行った如なものである。
故に、人間の健康上最も緊要なのは清浄なる血液である。然るに、此血液を浄化する方法は、今日迄絶対に発見されてゐなかったのである。薬剤も、光線も、電気も、此力は無いのである。それは、血液なるものは精霊の物質化である以上、血液を浄めんとすれば、どうしても先づ精霊を浄めるのが先である。然し、精霊の実在を知らなかった科学は、血液浄化法を発見されなかった事は当然な訳である。然し、此隠れてゐる力である精霊なるものは、肉体以外の全部ではない。実は、精霊は外殻であって、其中に心なるものがあり、其又中心に魂なるものがあるのであって、魂こそ実に人間五体の支配者であり、主である。そして、此魂なるものこそ、神から付与せられたる最貴重なるもので、実に良心の根源である。故に、此魂の発動が意思となって心を動かし、其心が精霊を動かし、精霊が肉体を動かす順序である以上、魂から出発した良心の命ずる儘に動けば、不正はないから、決して失敗はないのであるが、茲に厄介なのは、精霊には種々の動物霊が憑依する事である。此様な事を言えば、現代人は嗤ふであらふが、私は嗤ふ人達を嗤ひ度いのである。何となれば、事実は儼然として否定すべくもないからである。其動物霊とは、狐狸、天狗、蛇、犬、猫、馬、蛙、鳥類等が主なるものであって、之等が精霊内に在って、伸縮自在、無碍に活動してゐるのである。普通は一個体であるが、人により二個体以上憑依の場合もある。如何なる人と雖も、一個体は必ず憑依してゐるのであって、此常憑者の外に、臨時に他霊が憑依する場合もあり、人間の死霊が憑依する事もあるのである。而して、是等憑霊は、一切の悪の根源である。故に、神から附与の内奥部の魂から発する善と、外部から憑依した動物霊から発する悪とが、絶えず心を専有せんと闘争してゐるのである。随而、此中間に挾まってゐる処の心は、内からの魂に組せんか、外からの憑依に組せんかと、絶えず動揺し、昏迷しつつあるのが、現在に於ける人間の想念の状態である。此理さへ解れば、信仰に対しての正邪の区別が判然するのである。 正しき信仰は、主の神が中心である。主の神は太陽神たる天照大神であるから、絶えず太陽の光明に照らされるのである。此太陽の光明に人間が照らさるる時は、憑依してゐる動物霊は畏縮して、自己の活動力が衰弱するので、本来の悪の活動力が鈍り、悪を以て心を捉える事が不可能となるのである。悪の誘引が弱れば、心はどうしても魂、即ち良心に組しない訳にはゆかなくなるのである。此状態になった人こそは、真の信仰を把握し、魂の磨けた有徳者になったのであるから、此処までに成った人間は、病気、失敗、不幸からは全く解放されて、一身一家は栄えゆくばかりで、法悦を味ひ得る処の光明の生活者である。之等の完全人間を造るのが我観音運動であって、此力は観音力より外には無いのである。
酒を好むのも、姦淫をするのも、争を好むのも、皆此憑霊が本来の悪を以て、其人の心を専有した結果である。然るに、今日迄の如何なる宗教と雖も、此憑霊を畏縮さすべき光の力が無かったのであるから、光明生活者たり得る者が無かった訳である。其證拠には、病者、飲酒家、姦淫者、争等の全く無い宗教団体は在ったであらふ乎。遺憾乍ら否と言はざるを得ないのである。
我健康協会会員には、病者、飲酒家、姦淫、争は無いと言っても可いのである。唯然し、新しく入信したての者は、過渡期の現象としての右の残跡あるは止むを得ない事ではあるが、時日の経過と共に、一歩一歩より向上しつつ、終に全く完全人間、光明家庭を作り得るのである。(新日本医術書 昭和十一年四月十三日)