私は科学篇、宗教篇を次々かいて来たが、之から最後の天国篇をかくのである。併し此所論は真の意味に於ける前人未説のものであって、文明世界設計の根幹ともなるものであるから、そのつもりで読んで貰いたいのである。併し初めて之を読む人は、現実と余りに懸け離れた理想論としか思われまいが、決してそうではない。立派な実現性のある事は、読むに従って分るであろう。抑々、主神の御目的である地上天国を建設する基本条件としては、何よりも大自然の実相そのままを表わす事である。というのはいつも言う如く、宇宙一切の構成は、日月地が根本となっており、此本質が火水土であるから此三位一体の力によって、万物は生成され、化育され、世界は無限の発展を遂げつつあるのである。処が今日迄の霊界は、屡屡説く如く夜であったが為、日は隠れていたのである。つまり月土日の順序となっていた。無論之は正しい順序ではないから、之迄の世界は一切に調和が欠け、紊れに乱れて、現在見るが如き地獄世界を現出したのである。之というのも善と悪について曩に説いた如く、善悪の軋轢が必要であったからで、全く深甚なる神意に外ならないのである。其期間中僅かに宗教によって緩和されて来た事もかいたが、全く釈尊の唱えた苦の娑婆と諦めの言葉も、キリストの贖罪と隣人愛も其意味に外ならなかった。
処で私の唱える夜の世界が、昼の世界に転換するという事であるが、本来宇宙の原則としては、日月地の三段階が正しい順序であるに拘わらず、そうでなかったのは前述の如き意味であったからで、それが今度愈々完全の形となるのである。言わば世界は百八十度の転換であって、実に空前の一大異変である。従って現在の文化形体も一変するのは勿論、其大綱としては、前述の如き大自然の形となる以上、一切の機構も三段階になり、分れて六となり、又分れて九となる、つまり三六九で、之を縮めればミロクとなる。地上天国一名ミロクの世とは此事である。ではミロクの世とは具体的にはどのような世界であるかを、順次説いてみよう。
(文明の創造 昭和二十七年)
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それから、五六七の世に就いて、「文明の創造」の天国篇を書始めたですが、天国篇の最初の――大体基礎的の意味ですね。そう言う事を書いたんですが、今読ませます。
(御論文「⇒天国篇」) 【註 栄光 第一三七号】
之から、色々――経済、教育、芸術、社会機構ですね。そう言うものも、私が書いていく積りです。人類世界と言うのは、こうなるべきものだ。こうすべきものだ。こうすれば、戦争とか病気とか貧乏とか言う――色んなそう言う苦しい事はなくなると言う説明書ですね。で、之を、出来上つたら、英文に訳して世界中の主な識者ですね。そう言う方面に読ませるんです。要するに、新しい文明ですね。新しい文明の教育ですね。それをして、そうして成る程こう言うやり方は本当だと言う――昔から――西洋の学者の言う――つまりユートピヤ的な理想や、色々書いたのがあるにはある様ですが、つまり徹底しなかつたものを――今後は、はつきりと、こうだ。と言う様に書いていくんですね。私はあんまり見ないけれども、そう言う風に思われるんです。そうして、つまり、やる事が――設計書と言うのが、之が天国の福音なんです。聖書にある「天国の福音を普く述べ伝えらるべし」と言うのは、之なんですね。「然る後末期到る」と言うんですね。そうして、浄化力が強くなる。浄化力が強くなつて、一番現われるのは病気ですね。人類が、病気が起つて、どんどん死んじやうんです。そうすると、医学で治そうとして、一寸触ると、ころつと死んじやうと言うんです。注射したら、即座に死ぬ。つまり浄化力が強いから、固まつている時間がないから、医学じや駄目です。で、メシヤ教が言つたあれに違いないと言うので、わーつと来て、頭を下げるんです。そう単純に――直ぐにはいかないですが、結局そこにいくんです。そうして五六七の世が出来るんです。今読んだのは、世の中の――世界の組織ですね。その根本ですね――そう言うものを書いたんですがね。「文明の創造」と言う本は、天国の福音と――その「天国の福音を普く述べ伝えらるべし」と言つた処で、之は世界人類に知らせなければならない。それを信じないで亡びるのは、自業自得なんですからね。神様の方は、ちやんとやる丈の事はやつて、世界中に沢山、掴まる様に綱を出している。掴まらないのは、掴まらない者が悪いんだから、亡びるよりしようがないですね。そう言う根本は、意味があるんです。段々メシヤ教の動きと、世界的に浄化が段々強くなると言う事や何かも、それから色んな事がありますけれども、結局段々そこにいくと、大体解る訳ですね。
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御講話 (昭和十年四月十一日)
私は日本医学といふものを拵える事と、それから、宗教の本当の行り方、本当の考へ方そういふものを段々と発表してゆくつもりなんであります。
で、何が人間は結構であるかといふと、先づ何より彼より第一番に健康である事は、いつもお話する事であります。仮令、如何なる結構な宗教や救ひが出やうとも、人間を健康にする力がなかったら、決して結構な宗教でも救ひでもない。
どんな偉い方でも、どんなにいゝ身分であっても、病気で苦しんでゐて何が結構と言へませう。どうしても健康を解決し得るものでなくしては、本当の宗教ではない。何年何十年と信仰してゐても病気で早死するものがありますが、それは決して本当のものではない。
段々観音会が進展して行くと、観音会には病気がない。もしあれば、観音会をやめた人か、お邪魔する人かで、病人はないと私は断言するんであります。之が段々拡がって行くと、病人のない団体が出来るんで、恐らく世界始って以来病人のない団体といふものは、未だ聞いた事がない。それで病人のない世となれば、貧乏の半分は解消するんであります。
今貧乏の原因は殆んど病気で、病気の為に稼げぬとか、病院は高くてなかなか治らぬ。金持ならいゝが中流以下ではとてもかゝれぬ。重病などになると、先づ長い間稼いだものさえも潰れて了ふ。少し重い大病などがあれば大抵の身上だったらふっ飛んで了ふ。之は多くの人々の普通の道程であります。
今日皆さんが稼いで貯金するのは何の為かと申しますと、何時病気になるか判らぬ。病気になったその時病院へ入れぬやうな事があったらといふ心配からであります。
それで病気は金で治ると思ふより仕方がない。一家に四、五人の家族があるとすると、大抵は何年目かに病人がある。するといくら稼いで貯金をしててもすぐに無くなる。
そこで、病気がなくなり健康であれば、貧乏になる大半は救はれる訳であります。で、貧乏が救はれれば争ひがなくなる。大抵の争ひは経済上の問題の場合が多いのであります。ですから、先づ病貧争の大部分は健康から解決出来るといっても過言でないと思ひます。
それで一方、精神方面の事をお話すれば、本当は他宗の攻撃するなどよくないのですが、よくないけれども黙っておっても仕方ない。黙っておって解決すればいゝのですが、黙ってばかりいても解決がつかぬ。やはりいゝ事はいゝとし、悪い事は悪いとせねばならぬ。
それは、確かに既成宗教に依って救はれてる点は沢山にあります。若し釈迦、基督が現はれなかったならば、もっともっと人類は悲惨な状態になってゐたか知れない。如何に今日迄人類を救った事か、その点は大いに感謝しなければならぬ。
で、それでも今日のこういふ社会を結構と思ふ人はない。それはどこまでもよくしなければならない。進展止むなきは神の御心であります。でなくば、宇宙意志とも言へます。
人類は是まで進化したけれど、もっともっと、より一層高等の文化をつくり、高等の人類にしなければならない事は当然の事であります。で今迄の宗教の力ではそれ以上高等にはならない。
それには、それ以上に人類を進化せしむべき力が要る。それが観音力であります。 例へてみれば、今日人間は大変な進化をした。成程、野蛮未開の時代からみれば、大変な進歩をしたんであります。成程、徳川時代には試し斬りとか、切取強盗等といふものがあって、人心は安心して暮せなかった。
今日は電気など出来て明るくなり、何等そういふ心配はなくなった。それは大いに感謝しなければならぬが、それでも、今日の世から警察とか、法律をとれば果して安全かといへば、之は誰しもうなづけぬ事であります。各地に厳めしい警察があり、裁判所あり、コンクリートの牢獄あり、各町には交番が幾つもあって、巡査が始終見廻ってゐる。それでも尚足らず、刑事や特高、探偵などが扮装して隈なく徘徊して、種々の取締り機関があって初めて安全を得ております。
それでも未だ本当じゃなくて、刑事民事にも種々の設備があり、或は人事相談所があり、不倖せな者に対しては、養老院だとか孤児院だとかがあり、或は救世軍だの本願寺だなどといふものがあって社会事業に尽し、法律は益々微に入り細に渉り出来てゆく。
それで初めて人類は安心してゐるやうだが、それでも未だ安心が出来ない。 昨日の新聞でみると、少年神兵隊といふものが出て、偉い人達、西園寺など国家の元老、あゝいふ人達の身辺を狙ってゐる故、此間の満洲国の皇帝がみえた時でも、お側でお顔が見えぬ位に警戒が厳重であります。
そういふやうに種々と人間を取締る道具は実に完備したといへる位にある。此為に使ふ費用は大変なものであります。それ程迄にしても、未だ未だ人間はわるい事をするんであります。未だ未だ法律の網をくぐる悪い人間が沢山にゐるのであります。
金を借り倒したり、家賃をふみ潰すとか、詐欺、万引、強盗、殺人など、それをくぐってわるい事するものが未だ未だ沢山ゐて、子供でも感化院などあり、或は宗教的感化をする設備など沢山にある。
それで人間は文明になって有難いと言ってゐるが、未だ未だ神の御目から御覧になれば人間といふものは仕様がないのであります。
種々とおっかない道具立てをして、僅かにわるい事をしないやうにしてるだけのもので、恰度、虎狼を檻に入れて監禁しておくに等しいと思ふのであります。之で万物の霊長だなどと威張ってゐるのは恥しくないかと思ふのであります。