観世音菩薩

前項迄に、観世音に就ての因縁を、色々な面から説いて来たが、そうなられる迄の根本と言へば全く素尊の暴圧が原因であった事は、既に述べた通りである。処が伊都能売神去り給ひし後の日本は、どうなったかといふと、其弟神であったのが、彼の天照天皇であって、此天皇は惜しくも、何の理由もなく俄かに崩御され給ふたので、止むなく其皇后を立てて、御位に即かせられたのが彼の女性である天照天皇であった。今も尚天照大御神が日の神であり乍ら女神として祀られてゐるのは、そういふ訳なのである。又以前私はかいた事があるが、素尊は日本の統治権を得んとして余りに焦り、目的の為に手段を択ばず式で、力の政治を行った結果、人心は紊れ、収拾すべからざるに至ったので、茲に父君である伊邪那岐尊の御勘気に触れ、譴責(ケンセキ)の止むなき事になった。といふのは素尊は、本来朝鮮系統の神でもあったからである。而も其後悔悟の情なく、依然たる有様なので、最後の手段として日本を追放される事になったのである。

此時の事を古事記には斯う出てゐる。素盞嗚尊の素行や悪政に対し、伊邪那岐尊の御尤めを蒙り、神遣にやらはれたとあり、其行先は黄泉の国であるが、黄泉の国には母神である伊邪那美尊が在すので、罪の赦される迄母神の許にゐて、暫くの間謹慎すべく思って、出発の前、天に在す姉神天照大御神に暇乞ひをせんとしたのである。此事を古事記には斯うかいてある。素盞嗚尊は忽ち山川響動(ドヨモ)し、天に昇らんとした処、それを知った天照大神は大いに驚き、さては弟素尊は、自分を攻めに来たのではないかと疑心暗鬼を抱いてゐた処へ、素尊は天に上り、天照大神に面会された処、どうも姉神の様子が普通でないので、之を見てとった素尊は、姉神は私を疑はれてゐるやうであるが、自分の肚は何等の邪念はない。此通り潔白であるから、今其證しを御眼にかけると言い、素尊は剣を抜き天の真奈井の水に注ぐや、忽ち三女神が生れた。即ち市杵島姫命、湍津姫命、田霧姫命である。すると天照大神は、では自分の清い心も見せようと申され、胸に掛けた曲玉を外し、同じく水に注ぎ揺らがした処五男神が生れた。即ち天忍穂耳命、天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野樟日命である。勿論之は比喩であって、実際は其時、素尊は三人の息女、天照大神は五人の重臣を呼んだのである。といふのは此時両神は、右の五男三女を證人として、一の誓約をされやうとしたからで、其誓約とは近江の琵琶湖一名志賀ノ湖、又右の天の真奈井もそうであって、此湖水を中心として、東の方を天照大神、西の方を素盞嗚尊が領(ウシハ)ぐといふ約束をしたのである。つまり今日で言ふ平和条約である。之によって兎も角一時小康を得たが、其後素尊は相変らず謹慎の色が見へないので、茲に本当の追放となったのである。此時の事を八洲河原の誓約(ウケヒ)と言はれてゐるが、今日でも琵琶湖の東岸に八洲河原といふ村があるのは、此地点であったのであらう。

茲で昔から、人口に膾灸されてゐる竜宮の乙姫といふ女神の事をかかねばならないが、之に就ては、少し遡ってかく必要がある。それは伊邪那岐、伊邪那美尊から生れた五柱の男女の兄弟がある。即ち長男は伊都能売天皇、次男が天照天皇、三男が神素盞嗚尊、長女が稚姫君命、二女が初稚姫命である。そこで伊邪那岐尊は、最初伊都能売尊に日本を統治させ次で天照天皇次で天照皇后の順序にされたのであるが、素盞嗚尊には最初から朝鮮を統治させたのである。そうして素尊の妻神とされたのが、勿論朝鮮で出生された姫神であって、此姫神が弟の妻神となった、言はば弟姫であるから、之を詰めて音(乙)姫と呼ばれたのであるが、昔から乙米姫とも言はれたが、之は未婚の時に朝鮮名の中に、米の字が入ってゐたからであらう。右の如く、弟姫即ち音姫は、夫神が流浪の旅に上られたので、それからは孤独の生活となったのは勿論で、間もなく故郷の朝鮮へ帰り、壮麗な城廓を築き、宮殿内に多くの侍女を侍らせ、空閨を守ってゐたのである。

処が其頃信州地方の生れである太郎なる若者が、漁が好きなので、常に北陸辺りの海岸から海へ出てゐた。すると或時大暴海に遭ひ、辛じて朝鮮海岸に漂着して救はれたが、当時としては日本人も珍しがられてゐた事とて、遂に男禁制の王城内に迄招ぜらるるに至ったのも無理はない。処が当時女王格である音姫様は、寂寥に堪へなかったからでもあらうが、兎に角御目通りを許された処、太郎といふ若者が、世にも稀なる美貌の持主であったから堪らない。一目見るより恋慕の情堪へやらず、遂に何かの名目で、城内に滞在させる事となった。其様な訳で、太郎に対する愛情は益々熱烈を加へ、日夜離さず御傍に侍らせるといふ訳で、此事がいつか人民の耳に入り、漸く非難の声喧しくなったので、茲に絶ち難き愛着を絶つ事となり、素晴しい宝物を箱に納め、土産物として太郎に遣り帰国さした。之が彼の有名な玉手箱である。又之を開けると白髪になるなどといふ伝説は、誰かの作り事であらうし、又浦島といふ姓は、朝鮮は日本の裏になってゐるからで、後世の作者がそういふ姓を付けたのであらう。

そうして音姫が朝鮮の女王格であった時代は、日本も支那も圧倒されて了ひ、印度以東は朝鮮の勢力範囲といってもいい位であった。勿論それは素盞嗚尊が、一時飛ぶ鳥も落す程の勢ひであったからでもあり、其上音姫といふ女神は男勝りの女傑であったからでもある。恰度其頃印度の経綸を終えた観自在菩薩は、帰国しようとして南支方面に迄来た処、まだ日本は危険の空気を孕んでゐる事が分ったので、暫く其地に滞在する事となったので、其時からが観世音の御名となったのである。といふ訳はつまり印度滞在中は、自在天の世を客観してゐたので観自在といひ、今度は音姫の世を静観する事となったので、観世音と名付けられたのである。即ち観世音を逆に読めば、音姫の世を観るといふ意味になる。

そうしておいて菩薩は、南支那地方民に教を垂れ給ふた処、何しろ徳高き菩薩の事とて、四隣の民草は親を慕ふが如く追々寄り集ふ有様で、此時から観音信仰は遂に支那全土にまで行き渡ったのである。処が御年も重ね給ひ、之迄で経綸も略々成し遂げられた事とて、遂に此土地で終焉され給ふたのである。そうして今日と雖も支那全土即ち満州、蒙古、西蔵辺に到る迄観音信仰のみは、依然として衰へを見せないのは深い理由のある事であって、之も追々説くが、茲で遺憾な事は、南支地方に観音の遺跡がありそうなものだが、全然無いのは、全く其地方が幾度となく、兵火に見舞はれ、地上にある凡ゆるものが消滅した結果で亦止むを得ないのである。

(文明の創造 昭和二十七年)

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(お  伺) 
御神書「文明の創造」の宗教篇中に伊弉諾尊様の子供に五柱の神様があり、長男が伊都能売大神、長女が天照大神云々と御座いました。そして二千六百年前の事だと御教示戴きましたが、人類が地球上に生息する様になつたのは幾万年も昔の事と思います。伊都能売大神様の父神伊弉諾尊は人類発生の祖では御座いませんでしようか。年代の点で解らない処が御座いますが、御垂示御願い申し上げます。

〔御  垂  示〕
之は飛んでもない間違いです。人類発生と言うのは、先ず――そうですね――百万年位前ですね。百万年以上ですね。私は神様から、以前に神憑りで、五十万年前から知らされた。その時には相当人間だつたんですからね。少く共人間の形をしていたんですね。伊弉諾、伊弉冊と言うのは、極く僅か前ですよ。それを歴史に書いてありますからね。大体、天照大神だつて、極く僅か――二三千年前ですからね。ですから、神代史や何かに色々あるのは、皆んな近代です。そう思つていれば良いです。神道の方でいきますと、天御中主尊が最初で、高皇産霊に神皇産霊とある。豊国主尊、伊弉諾、伊弉冊となつたんですが、日本では約三千年位前ですね。極く近代ですね。そう思えば、何でもなく分るんですよ。それ迄の歴史と言うのは、どうせ想像もつかない程長くかかつている。漸く人間らしくなつたのが、大体エジプトですね。あの時代ですね――人類の文化の最初と言うのわね。だから、大体五、六千年前からですね。その前は、文字は無く、半獣生活ですね。私が神憑りで教えられたのは、五十万年前から七千年前迄ですね。それでパツと終つちやつたが、七千年後が、大体歴史で推定出来るものですね。五十万年前を、いずれ私が書きますが、それは、殆んど獣と人間の間位のものでせうね。皆んな穴居ですからね。地に穴を掘って居て――始終獣に襲われるので、獣との闘いですね。そう言う生活をして居た。今の神様の事は御伺ひ事項と違います。病気の事だけですね。私もうつかり答弁しちやつたが――之は特別面会の時聞くべきものですね。

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御講話(速記)

之は文明の創造に於ける宗教篇です。この前読みましたがその続きです。之は皆が分らない事を随分書いてますから面白い点も大いに有りますが、又非常に参考になる点もありますから特別耳の穴をかっぽじって聞きもらさぬ様に……。

(御論文「仏教の起源」「伊都能売神」「観世音菩薩」のあとの御言葉。)

之で未だ色々面白い事があるが一寸書けない事が相当あるのですからそう言うのは話をするかしようと思ってゐるが、ここに伊弉諾尊の子供で五人としてあるがもう一人ある。もう一人と言うのは伊弉諾尊と言う神様は国常立尊になるんですね。息子に国武彦尊と言うのがありそれが一番長男になる。当時大将軍と言い勇猛で可成り勝手な事をやって居たその罪によって言はば地獄に行かれた様な事になる。一番末が初稚姫尊と言い之が天理教祖の中山みき子となる。そうゆう様に幾度も生れ変ってゐる。大将軍の妹になる。そこで霊界で地獄と言っても普通の人間と違ひます。修行するんです。修行した結果大いに世の中の為になろうと言うので天理教祖の中山みき子に憑った。それで中山みき子に最初憑ったのは夫の大将軍が憑ったんです。そうゆう因縁なんです。そこで最初の中は力がありますから病気治しもさせたが、その力によって良く病気が治った。それで最初は病気治しで世の中に出たんです。

それからもう一つ日本民族の霊的考察の中にありますが、そこにもっていってそれを出雲系-素盞嗚尊が利用した。利用して、そうして、盤古神皇に取って代ろうとした訳です。それが徳川家康の系統なんです。それは霊的考察にざっと書いてありますが、そう言う意味です。

天理教の本体を書く事は天理教に悪いですからそこで書かなかった。それからもう一つ書こうと思って止した事がある。今の稚姫君尊ですね。之がこの次に書きますがお釈迦さんですね。ですから釈迦、阿彌陀と言うのは伊都能売神皇が印度に行かれて観自在天と言ふ御名前になられ、これは釈迦と阿彌陀となった。阿彌陀は素盞嗚尊です。そこで稚姫君尊は釈迦になる。そこで釈迦は変性女子と言はれたと言うのは稚姫君尊だから女になる。

それで彌勒三会にあります「鐘の音」と言うのがありますが、三人の彌勒と言うのは釈迦が報身、報いると言う字です。阿彌陀が法身彌勒、観音は応身彌勒、之が三尊の彌陀になる。処が彌勒三会と言うのは大本教になる。大本教はその為に出た宗教です。大本教祖出口直と言う方は釈迦の稚姫君尊です。大本教のお筆先にあるが「直の御魂は半分は国常立尊、半分が稚姫君尊である」と言うのはそうゆう事です。出口王仁三郎聖師様この方が阿彌陀になる。それで自分は月の神様で、瑞月と言う名前をつけたんですね。だから寂光の浄土と言いますね。月の天国と言うんですね。そんな様な訳で、大本教の教祖さんが釈迦になる。そうして聖師さんが阿彌陀となる。そこの二人に生れたのが私です。私が応身彌勒ですね。この三人が会った。之は誰も知らない。私は知らせたくないと言うのは、大本教の信者がこっちに来て了うからね、だから書きたいが書かないんです。分ったら大変だからね、そんな様な訳で応身の彌勒と言うのは観音です。そこで観音会をつくった。観音を芯にしてやっていたからね。つまり大本教は天理教と姉妹教になる。それで大本教では天理教の教祖を祀ってやってゐる。教祖さんの出口直の妹になる。で、その親が伊弉諾尊-国常立尊になる訳です。中々ここの処は不思議です。すっかり分れば何でもないが、中々ね。

それで仏と言うのは神の化身です。化身と言う事は印度は大自在天が支配していた時、バラモンと言うのが印度ですから、そこに仏教を弘めなければならないと言うので、最初稚姫君尊と素盞嗚尊が行って仏教の基礎を作った、そこに伊都能売神皇が行った。それを化仏化神と言う。その時天の八人のお子さんで五男三女と言う、之が八大龍王になる。何故と言ってその時五男三女と言うのは、自分は印度に行くのは嫌だと言ってどうしても日本に居ると言ふ。仏はいずれ仏滅の世になると言うので龍神になってそれを待たれた。日本の近海ですね、越後と佐渡の間だとか、東北の方にもあるし、房州と関東の間の海、九州の有明、そうゆう処に飛び込んで時を待った。それが八大龍王です。そうして総大将が伊都能売神様ですね。それが日本に帰ろうと思った処、今読んだ様に帰れないので霊で日本に来て自分も仏滅迄隠れていると言うので、先にも言った通り近江の琵琶湖に入り琵琶湖の底に龍神となられて、之が金龍ですね。それで霊でも霊と体がある。霊の体の方は木の花咲爺姫で、そうして富士山に祀られている。それから琵琶湖の方が伊都能売金龍として隠れてゐる。この事は先に書きましたが、そうして時を待たれた。そうして約三千年、本当言うと二千六百年ですが、之が最初三千年の積りだったが神様の方で力を強くしたんですね。

それで邪神の方も書きます。邪神の方の活動ですね、大変なんです。こう言う宗教的なものは今迄何もないが中味をさらけ出す訳です。今迄は之を分らせる事が出来ない。何故分らせる事が出来ないかと言うと時期が早いからです。やはり成功しないからです。と言うのは色々夜の世界と昼間の世界の関係もありますからね。邪神の方の活躍ですね。未だずっと先までやる積りだったが段々神様の方でも強くなって、邪神の方がこの辺で往生する事になる。邪神の活躍というのももう直きなんです。それで五六七の世が出来るんですがね。大本教のお筆先にありますが、「遅き速きはあるが一度神の申した事に違ひはないぞよ」之は千変万化邪神に対抗していく事になるので、今迄の私とメシヤ教に対する色々な手も邪神との闘いです。今もって続いている訳ですがね。段々こっちの方が勝って行く訳です。もう一息ですね。もう一息でこっちが本当に勝って行く。そこでその期限と言うのは来年あたりですね。来年は勝って行く。然し先でも色んな妨害があるんです。五六七の世まで続くんです。然し先の方で段々弱って来ますから同じ闘いでも楽になって来ますね。ですからもう僅かです。もう一息です。来年から再来年にかけて素晴らしい色んな面白い事がある。それから霊界も中々複雑な色んな事がある。丁度今出てますがね。中共と聯合軍との停戦協定ですが良く現はれている。邪神の方でも中々ね。それから神様の方でも、つまり一挙にやって了えば邪神が負けるんですが、そうすると救われない者や亡ぶ者が沢山出来ますから、神様の慈悲によってそう言う者を救い乍ら分らせる。そうして被害を少なくしようと言うのが神様の慈悲なんです。その為にまだるっこい様な事があるんですね。

あんまり纒まらない話ですが、大本教との関係ですね。一つ面白い事がある。私が大本教に居る時、東京の支部長というので羽藤と言う軍人ですが、陸軍の中佐かあたりで現役じゃなくて退役ですが、大本教で方々に冠句の選に招ばれた。之が中野の支部長をやってゐた。そこで冠句の句を訂して書いた処、この羽藤と言う人の魂に余程刺戟を与えた。之は大変だ、岡田さんは唯者(タダモノ)じゃない。そこで遂に精神病になって綾部に行ったんです。私が羽藤さんを発狂させたと言う噂がたった。それで綾部に行って中野武営という人で熱心な信者で幹部になったが、そこの家は羽藤という家と幾らか親戚で、すると聖師さんから私に電報が来て直ぐ来て呉れというので行った。今羽藤が気違いになって私の処で治らないからあなた治してくれ、どうもあなたが原因らしいと言うので、兎に角会いましょうと言うので会った。皆がいる処では話が出来ないと言うので別間に行った処、普通の精神病とは違う、真面目です。私の御魂はこう言うんです。私は世の中をもち荒した邪神の頭目じゃないが、邪神の頭目にすっかり瞞されて世の中をもち荒した。それでどうしても霊界に行かなければならない。そうして今迄の罪を贖罪しなければならない。然しあなたは霊界で長い間苦しまれていたが、私と交替になるのでしっかりやってもらいたいと言うんです。気違いどころじゃない。つまり神様は気違いにさせて置いて知らせるんです。だから神様は中々うまい手段で知らせると思った。

国常立尊が閻魔大王で三千年の間霊界で観てゐられた。それが今度出たお筆先に、今度は国常立尊が此の世の閻魔になり世の建替えを致すぞよと言うのがあり、建替とは審判です。だから今度は俺を使って国常立尊が審判をするんだと思った。それからすぐに羽藤という人は死にました。色々な事があり中々神秘です。本や何かに書く事が出来ないんです。

(昭和二十六年九月二十一日)

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天地の根本の神様の概略を知らせる。

宇宙の中心に地球あり、其のまわりに日月星辰あり、総て地球が中心であり、他の火星とか水星とか色々なものには、人間は住っていないのである。

此地球を統治する中心が何かと言うと、図の如き地軸又は地柱と言う。此の神様の事を天照大神と申上げる。此の神様が本当の統治権を持たれて居られたのである。つまり人としてお産れになったのでお姿があるのである。

伊弉諾、伊弉册、御両神様が肉体を持って御現れになり、生殖作用をなされ、右の御三神をお産みになったのである。天照皇大神様は日本に生れられ、素盞嗚尊は朝鮮の祖(後ユダヤ方面迄も御出になられた)盤古神王は支那の祖となられたのである。支那では盤古氏が一番位が高いとなっているのも此の為である。是が天地経綸をなす根本なのである。是れにより日本、朝鮮、支那は兄弟であるということが判る。

古事記の眼目は岩戸開きであります。神代時代に天照皇大神は岩戸隠れをなされたのであります。天照大神様が岩戸隠れ遊ばされた為に、今迄代々天皇陛下が御稜威を犯され遊ばされて御苦労遊ばされたのであります。此の岩戸隠れの時国常立尊は艮の鬼門へ御隠退遊ばされて居られたので、一方又幽界に入られては閻魔大王となられたのである。天照大神様が御隠退遊ばされたことも一方に於ては天地経綸上色々の意味のあった事は申す迄もない事である。

国常立尊及素盞嗚尊がこの地上を治められたが、国常立尊の御経綸は非常に厳格の為に、一般の神々が反対して御隠退なされ、艮の金神と申されたのである。又素盞嗚尊が地上を治められた事もあったが、世が乱れてうまく治まらぬ為、根の堅洲国に居られます母神様の御許に行く決心を以て、一度天に座ます姉神様たる天照大神様に御面会して行かんと天に登られたのであるが、余り勢よく御登りになったので山河動揺し、天照大神様は之を御覧になり、是は素盞嗚尊が謀叛なされ、御自分を征めに来るものと思召され、軍備をなされてお待ちになったのである。

処が素盞嗚尊が、其の様な心はないと御弁解なされて御誓約をなされたのである。其結果、天照大神様は曲玉をお首より御取りになり、天の真奈井にそゝがれると、五人の男の神様が御生れになられた。

素盞嗚尊はお腰の剣を抜き、是を天の真奈井にそゝがれると三人の女神様がお生れになられたのである。

この神様を総称して五男三女という。(五ノ三)即ちイヅノメ天の真奈井とは地上では琵琶湖となるのであります。

富士山と琵琶湖は日本の臍に当り、富士山が表、琵琶湖は裏となり、これを邪神に占領されると日本が自由になるから、観音様が富士山に兄の花姫尊として、又、伊都能売大神様は金龍となられて、近江の琵琶湖にお潜みになられた。此の天の真奈井の天の八洲河原に於て誓約なされたのである。

この如く、両神様が未来に於て御統治をなさる御約束が此の時出来たのである。五男三女の神様は其の時まで龍神となられ所々に別れて潜まれ、五男三女の神様こそは八大龍王の事なのである。

国常立尊……………-(後継者)…………………大将軍
素盞嗚尊………………( 〃 )…………………大己貴尊
盤古神王………………( 〃 )…………………天若彦尊


此の後に至り天忍穂耳尊より御系統が出て瓊々杵尊となり、連綿として今に至る。

主神の御目的と天地経綸の真相(昭和十年七月十五日)

宗教の根源と救世主の出現

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地上の御経綸については、初め国常立尊が善一方の世界を出現させるべく御経綸遊ばされたが、余り厳格なりし為諸々の神様が非常に煙たがり反対された為に是は失敗し、いよいよ善悪二通りで進む事と今後なるのである。二千六百年以前神武天皇に御神勅ありて日本統治をなされた。

素盞嗚尊は西洋にてイスラエル民族を造られたのである。それがユダヤ民族であって、学問を以て世を開発することをお始めになられたのである。

一方伊都能売大神様を印度にお降しになり、布咀落迦山にて南海大士観世音菩薩として仏教をお始めになり、此山にて仏教を釈迦に伝えられたのである。其の時の釈迦の名は善財童子と申されたのであるが、未だ若かりし時既に教を受けて居られたのである。皆之は主神様が準備をなされたのである。

今日本に於いては神道、仏教、基督教とあるが、神道は一寸宗教とは言難いのである。其の中で天理教及金光教が宗教の形態をなし、公認教ではないが大本教も相当発展している。神道中での宗教であると言う事が出来る。金光教は余り教理としても完全なものはないが大本、天理の二教は相当に形態をなしている。キリスト教信者は日本で十万と言うが今は十万とはない。

華厳経に布咀落迦山に観世音菩薩あり、善財童子等大慈大悲教を説かれるのを聞いて居られたが、其の中に既に沢山の弟子が居られ、中にも侍者として二十八部衆在り、大弁財天、大梵天王、帝釈天王、金色孔雀、毘舎門天、阿修羅王等の外、ナーラヤナ金剛、ワーデラバーニ金剛の兄弟二人(此二人を仁王尊という)等の諸天が居られたとあるのを見ても、御釈迦様は観音様から御教を受けたことがよく判ります。

支那天台の祖南岳大師の記にも、「昔は霊山会場にあって妙法蓮華経を説き給い、今は西方浄土に在まして阿彌陀仏と名付け奉る。而も人界普現して救世観音菩薩となり給う。故に過去現在未来に渉る三世の利益は元観音一体に帰す」とあります。霊山会場とは布咀落迦山のことであります。

斯ういふ訳で南岳大師の言う如く、法華経も実は観音様が最初の骨子を説かれたもので、未来に渉り世界経綸の鍵は釈迦が七十三才の時に観音様から秘かに示されたのである。故に釈尊は吾七十三にして顕真実を得たと言われるのも、此の事を指して言われたのであります。それ故正法、像法、末法の後は仏滅が来る事を知らされたのであります。仏が滅すると言うことは観音様から知らされて初めて知られたのであります。

阿彌陀や釈迦は自分の事より外に出来んが、観音様は三位一体の御働きが出来る。其の観音様が御力を現わして居られないのは、阿彌陀と釈迦を余りにもてはやし過ぎて観音様を除外なされて居られた為であって、実に怪しからん事であります。

世界は仏教、キリスト教、マホメット教と此の三大宗教であって、これを主神が御申付になって造られたのであります。

仏教を説くには南無阿彌陀仏、南無妙法蓮華経の事から説いて行く事になります。是を説いたのは釈迦如来である。逆如来となる。「さかさ」の意味なり。

カミは大の字にして五である。
南無阿彌陀仏の事を称して六字の名号と言う。

仏とは人間の向上したるものにして神の次のものなり。
天は五、中界六、地は七である。逆の彌勒の悪の教。
阿彌陀は素盞嗚尊の化神なり。

仏教には密教と顕教とあり、密教は六ケ敷いのである。
天台宗には一番多くあて字がある。

主神が素盞嗚尊に命ぜられユダヤ民族を造られ、物質を始められる様になられたのであるが、皆是は今迄来るべき道程で主神の御経綸であった。

日本の武家時代は大六天魔王の活動であった。今でも未だ是がある。是皆素盞嗚尊の悪の経綸にして、それが為に現今の如く物質文化が発達して来たのであるから、是も必要なる悪の経綸である。是等のことをキリスト教や仏教が聞いたならば驚く事ならんも、今迄の事実なのだから致し方ないのである。

二千年前にユダヤに石屋組合があった。それからユダヤ人が中心となり、世界統一の陰謀国となったので、それが今日に於ては全世界の富の四分の三を持っていて、尚其の外言論機関の四分の三を占めている。是は欧洲米国等ばかりでなく、日本迄も手を延して言論機関は今や掌握されそうである。四五年この方朝日、日日等は占領されて終ったのである。是等は皆ユダヤの資本家の手に帰して終ったのである。読売も半分も手に入った。フリーメーソンは日本でも大臣級の人が入っていて、英国皇帝もフリーメーソンの一員である。

医者(イシヤ) 石屋フリーメーソン医術により人間の命を縮め様としていたので、ユダヤ人の作った医学である。

今や日本の人達の生命はユダヤ人が医者を通じて握って了ったのである。進歩したかのやうに教えられながら誤魔化されているのである。日本人もイシヤに騙されているのである。

三位一体といふ言葉が残されているのは、三尊者合一するといふ意味である。法身は水の働きのみ現世よりも霊界即ち浄土へ救うのが眼目で、西方へ浄土を造るから仏(覚者)となったお弟子を寄こされたいと釈迦に誓って西方へ行かれた。寂光の浄土と云い、寂光とは淋しい光即ち月の光で月の霊界である。

キリスト教では天の父と天の子と聖霊とにて三位一体という。仏教は祖先を祭り子孫へ是を残して行く故狭い。


仏 教  -経-父-小乗-火-東-男-善
キリスト教 -緯-母-大乗-水-西-女-悪


仏教は階級愛-忠孝。東洋民族は善人である。支那の悪は西洋文明に禍されたのである。善なる為に体を無視する。

キリスト教は隣人愛-夫婦愛-西洋人は悪なる為に体を本意とするのである。然し、経も緯も悪いが是を結ぶと良いのである。

イエス・キリストは磔刑に成ったが是になる様にと印を付けたのである。
此の経緯を結ぶのが観音会の使命である。

稜威八紘に輝く、是は善悪二つを結び、日本を中心にあらゆる力が出た時八紘に輝くのである。今は天皇の稜威は現われていないが、今後に於いて日本が西洋を結んで初めて御稜威が八紘に輝くのである。

霊体 ムスビ 日本(今後出来る)

日本人は純金であるが、今の日本人は鍍金位が多い。朝鮮、支那は九金か其処等のものである。

今迄は夜であるから月と星(英米)とが主になって来たのであったが、いよいよ日が出て夜が明けたのである。

素盞嗚尊は黄泉の国へ行ったとあるが、それは黄泉の国(常世)夜の世界、夜見の国、月星(英米)が威張っていたのも夜の世界であった為である。日がいよいよ中天に昇った時は月も星も影をひそめて終うのである。この時こそ大光明世界なのであります。

是に反し仏教の方の説き方は非常に違ふ。余りに安直なる説き方である。

この大乗の説き方で行くと露西亜は日本の一番の恩人である。ロシヤ国がもしも戦争好きでなかったならば、日本が満洲を経営する事は出来なかったのである。日露戦争ありし為日本が満洲を手に入れ、それが起幹となり満洲に進出出来たから大いにロシヤに感謝してよいのである。然し乍らロシヤは悪をやろうとして日本へ善い様にしむけて呉れたのであるから、一方へは善くなるのであるから、善悪不二、正邪一如というのである。張学良も此の点で言うと北大衛の変を起して呉れたから満洲へ進出出来た。日本へ対しては善である。

我々も病気が無かったら観音様を知らなかったのである。其の点で病気に救われたのであるから、この病気は何百年何千年も先迄永久に救われた大恩人となるのである。

小乗的善人は行詰る。大乗で行った人は勝つが非常に間違が起る。小乗で行って導き追々と大乗に導くのである。行いは必ず小乗でやらなければならん。観る時は大乗の頭で以って観ればよろしいのである。

菊の花は平面に見れば日本となり、又経にもなる。天地にも開く。

天へ照せば五風十雨のくるいなく、地へ照せば鉱物の在所が直ちに判る。地下に光がさせば透視することが出来る。先づ金へ光が照らすから反射して山や地中から光が出るので早速金のあるところが知れるのである。それ故入用なだけ掘れば宜しいのである。貧乏をなしにする事の出来るのも此の為である。

国家が金を掘れば人民より無理に税金を取上げなくとも良いのである。又農作物でももっと沢山取れる様になる。今日より三倍位取れる。肥料が不要となるのである。何故肥料が不要となるかと言えば、「光」が立派な肥料となるからである。又光に逢うと虫害がなくなるのである。豊作物は豊富に収穫の出来る時が事実来るのである。

仏教で肝心なのは法滅尽経及彌勒成就経である。滅法後ミロク下生して苦集滅道を説き道法礼節を開示すと出ています。

観音会はどちらも言わぬ、片よらぬ治し方である。

(昭和十年七月二十五日)

観世音の本体
和光同塵(光をやわらげ、ちりにまじわる)

観音様は人類救済の為に如何なる極悪な者も、獣や虫類に至るまでお救いを垂れられる為、馬頭観音の如く、お姿を変えられて地獄の者迄もお救いになられる。

最高最貴の神様がこんなにして迄も一切衆生を救はれる。凡そ人間は神様のお子である為、この苦の娑婆にあえぐ人間達を天国的生活に入らしめんと大変な御努力を遊ばされるので恐れ多い極みであります。何にも捉はれず三十三相に化身されて融通無碍、円転滑脱、対手に合せて喜ばれる様にされる。

天台大師の観音原義のはこじつけで解らんが、世の音声を見る、そして救うと言うが、音を見るなぞとはおかしな話で、物は見る、音は聞くのである。要するに事実を解く事が出来ないのである。

梵語-観 世 音(アバロキテシュバラー) 支那の鳩摩羅什(クマラジュウ)が観世音としたのである。

天照皇大御神が御現れになり、天忍穂耳尊がお生れになった。この時分に相当に人類はあったが統治は出来なかったのである。

国常立尊は忠義というより、実に誠忠無比の神様で力のある神様である。

国常立尊が天下平定の御経綸を申附けられたが、最初は良く治ったが、余り厳格な神様故人民が窮屈になりし為、どうしてもやり切れん様になった。そこを見て取ったのが盤古神王の子天之若彦命である。この命が国常立尊を排斥する運動を起したのである。これに共鳴者が非常に多かった。

そして盤古神王を押立てんとしたが、盤古神王は善良でおとなしい神様で力がないから、此の神を立れば楽が出来るからと、看板に盤古神王を立て、実権は天之若彦命が握り世界統治をやられたのである。此の為国常立尊は隠退遊ばされたのである。この御隠退は東北へなされたと成っているが、世界から見ると日本であり、日本からすれば東北である。

日本の東北、即艮へ御隠退された為に此の神様のことを艮の金神と申上げるのである。日本の艮は何処か、北海道の芦別山に御隠退になられたのである。又一方幽界では閻魔大王となられたのである。神様は霊分身が御自由である為、幾柱にも別れることが出来るのである。

そこで伊都能売神様は、一方印度にて観音になられ、一方は兄の花姫尊(梅の花)となられて富士山に御鎮りになられ、又、一方は金龍となって近江の国の琵琶湖へお隠れになられたのである。其故富士山と琵琶湖を邪神に占領されたならば、日本は危険であるからである。富士山は何故大切かと言うと、人間で言うと富士山が臍であるからである。人間の体としても臍は一番大切な処とすればその意であるからである。この為兄の花姫と成られ、金龍となられてこの二ケ所を守られたのである。

豊雲野尊は国常立尊の妻神様であるが、夫神様の犠牲となられ坤の方へ御隠退になられた。坤の方とは鬼界ケ島の事である。日本の西南に当る処である。此の神様が思兼尊様である。又一方別れて木の花咲耶姫命になられて印度に行かれて釈迦となられたのである。木の花咲耶姫命の木の花は桜の花の事である。

天之若彦命が世界統治をされて一時は楽になったと喜んでいた所、天之若彦命は女狂い等始めた為又非常に乱れて終った。

天之若彦命の奥方の若姫岐美命は非常に貞節な方であったが、何時の間にか素盞嗚尊と恋愛関係を結ばれた。素盞嗚尊は其時朝鮮に居られたので、烏となって行って逢われたのである。於加良洲明神と言うのは此の神様を祭られたのである。其後に春日明神となられたのである。

音姫尊は素盞嗚尊の奥方であるが、是が乙姫の事である。天照大神様の妹の為弟姫と言うたのを音姫又は乙姫と申されたのである。この神様は観音様と非常に関係のある神様である。

音姫は非常に嫉妬深い神様で、遂に嫉妬の余り龍神となり海の底へ隠れられ、和田津海の神、大和田津海の神、海原姫命とも言うて海底へ龍宮城を造られたのであるが、是は霊界での事であって、海の王様となられたのである。

音姫は非常に欲が深く、又非常に強かったから、世界の宝を集めて海に隠れたのである。宝と言っても霊的の事である。其の為地方にある鉱山が出なかったのである。その宝を以って天下の権を掌握しようとかゝったが、女であるから駄目であった。致し方なくその時の支配者を援けたのである。

(昭和十年八月五日)

神界の支配者 盤古神王大自在天

此神が金が必要の為龍宮の乙姫の宝を要する為に、乙姫から貰って来たのである。此の何千年来乙姫が実権者であったのである。上記の如く音姫の世を観ているというのが観世音であった。時期は約三千年で九千年六千年三千年となっている。

(音姫の世を観る)

国常立尊が天照大神から命ぜられた時が九千年前である。音とは日即ち統一の形である。要するに立即ち龍が世界を統一するという字であるから、音姫が天下を統一している事になるのである。龍が天下を統一した時は暗となるのである。又闇である。ヤミの字には必ず音の字が附いているのを見てもよくわかる。字は皆意味があって出来ているのである。

乙姫の統一した間を「暗の世」と言う。乙姫ともかくのであって、此の乙姫の姿は黒龍である。黒龍は悪龍である。私は越智隆蔵氏方の龍神の池に黒龍の泳ぎいるのを見たことがあったが、

越智隆蔵とは乙姫の型である。乙の字が既に龍の形なのである。

乙姫の血即ち霊を持った龍を隠しているとか隠れているとか、治めている、右の様な意味にて正しく乙姫なのである。越智方に龍神のお祭りの時三、四尺の池を掘り龍神を祭った時池一杯に五分間位黒龍が泳いでいたので良く解った。

暗黒無明の世であると言う事は音姫(乙姫)の世であるという事である。観世音とは乙姫が世を支配している間の御名であるから、今後余り長い間使用する様なことはない。乙姫が神様に世を譲れば観世音とは言われなくなるのである。この意味に於ても遠からず観音会も会名の変る時が来ることが悟られるのである。又一名観自在天とも言い、印度では要するに観自在天なのである。

印度は大自在天が最高の神であるから、此の自在天の世を観ているという意味になるのである。日本では観世音である。是は前述の音姫の世を見ているのである。

日蓮上人に邪神が懸って此の立正安国論を説いたのである。此の邪神も龍神である事は立正の立で解るのである。立正安国論もあの当時であったから良かったのであるが、今日では駄目である。此の意味は「龍が神を止め暗黒の世とする」というのである。

観音様は円満具足という事になる。丸くて完全であるという事である。真丸という事である。

真丸はダイヤモンドをよく見ると解る。ダイヤは八角であるからその八角を取って行くと真丸になるのである。

ハッパ六十四角である。六十四角が真丸になるのである。

又三十三相というのが実は三十二相である。この三十二相は化身で、本体の聖観音を加えて三十三相というのである。

聖観音は決して化けないのである。六十四洲と言ふのが、此の意味に相通じている処がある。麻邇の玉-如意宝珠ともいう。神霊というのを神という。神というのは真丸な円満具足なる事である。

玉の横の丶を上に掲げると主になる。玉の字は非常に貴い字である。伊都能売とは円満滑脱である。玉はくるくる自由自在にどちらへでも転んで行く。神様に角があっては善良な神様とは言えぬ。丸くならねばならん。丸いから転るのである。自由無碍に転るのである。

法輪を転ずるとは観音様の事である。滑稽洒脱である。大いに笑わせるのである。観音行に近い人程丸いのである。どんな人にも合わして行かねばならんのである。怒るのは真丸ではない。人に突掛るのは角である。観音行は此の角が取れなければ丸くなる事は出来ない。又湿っぽくては駄目である。笑冠句を奨励するのは此の意味からである。笑ったり笑わしたりすれば、自然に天国状態となり、円満になれるのである。世界の平和とは争がなくなる事である。

(昭和十年八月五日)

御講話 (昭和十年二月十一日)

只今の東光男氏の講演は、実に面白う御座いました。余程老巧にならなければ出来ません。人を呑んでかからねば出来ません。

今日は紀元節のお目出度い日であります。紀元二五九五年でありまして、西暦一九三五年とて、是れも五年となって居ります。今年から五六七となり之が或重大な意味になります。

今東氏が、俺がやらなければ病貧争の無い世界とは成らんと申されましたが、私から申しますと、私が言うんじゃない、観音様がお前がやらなければ駄目だと申されるのであります。それはいささかずるいかも知れませんが、今迄の罪穢が出て亡びる者も打倒れる者も出来るから、岡田がやったとなると恨まれるが、観音様がやったのだと言えば文句はありません。

今日の紀元節についてそう思ったが、荒木大将や丸山鶴吉氏のお話を聞きましたが、非常に日本精神を高潮しておりましたが結構であります。これも非常に永久の流行であります。

私は今東氏のお話の通り、観音様の後の艮、観音様の艮に当る橋場で生れて丁度十五迄、浅草は東京の艮となります。又、東京は日本の艮に当り、日本は世界の艮であります。東と申しましても、太陽は東というよりは、艮によった方から昇ります。余程艮に縁があります。

浅草観音の御神体は、明治時代になくなっているという事は事実らしいのであります。彼方からも此方からも、これが浅草観音の御神体だと言って出たが、戦国時代には源頼朝や楠正成や徳川家康と言った武将が陣中へ祭っておりました。これ等は皆一寸八分の観音様の為に、所々から沢山出る訳であります。本当の御神体は浅草の橋場の私の生れた所の十軒ばかり先の長勝寺に安置してありまして、御開帳中浅草寺へお移しして居ったのであります。

私の曽祖父というのが、橋場から直き五六丁の処に浅草町と言う処があります。其処で質屋をして武蔵屋といって居りました。その当時その辺での相当の財産家で、義侠心に富み今の町長位の資格があり、人を助ける力があり、鳴らしたものでした。武蔵屋喜左衛門とて其界隈での幅ききでありました。

明治になるまでやっておりましたが、何だか知りませんが、其当時御神体を質に預けて、そのままになったのであります。尤も観音様は宮戸川へ流れて来て居たから、流れるのが因縁かも知れません。私の父の乳母が私の家に御神体があったと言っておりました。義理の父の兄が失敗して、それが人手に渡したかも知れませんが今はありません。

私の家の寺は三河島の観音寺で、自分は子供の時から観音様に非常に縁があると思いましたが、今になるとよく判った訳であります。

それから先程、荒木大将のことを申しましたが、そのお話の中に三種の神器というお話がありました。これについてお話申し上げます。

八坂瓊曲玉(ヤサカニノマガタマ) +
天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ) +となって居ります。
八咫鏡(ヤタノカガミ) +

これを仏界では、玉は観音、剣は阿彌陀、鏡は釈迦となります。これが三人のみろく様となります。これは、今迄誰も言った人はありません。

又、玉は日になり、剣は月となり、鏡は大地となります。これはよく間違はれて説かれて居ります。

玉は丸いものでありますから、太陽であります。月は本当の剣の形となって居ります。「つるぎ」をつめると「つき」になり、鏡は角が八つあり、八角の形となります。大地のことを、大八洲と言いますが、鏡は大八洲の形となっているのであります。

数から申しますと、玉が五、剣が六、鏡が七となります。これが三種の神器なのであります。

それから、日本が玉で、西洋が剣で、東洋が鏡となります。ですから、西洋は武力を使って他国を侵略する様なこととなるのであります。又、東洋は土だから年中蹂躙されて居ります。

印度の言葉は陰陽の陰、度は土が本当であります。「陰の土」であって、印度は一名月の国であるから陰であります。又、印度は土の国でありますから、陰の土と書くのが本当だと思います。

三種の神器は形態的の物質に限らず、凡ゆるものに三種の神器があります。舌から言葉が発せられ、舌は言霊の剣であります。舌の先で何でも問題を起すことも切ることも、威服させるのも舌の先で出来るのであります。よくあの人は舌が切れるというのも剣であります。

鏡は心の事で、心の鏡が曇るとよく写らんから、人に騙されたり致します。

三種の神器は至る所にありますが、一番大きいのが世界的の三種の神器であります。

神様で申しますと、玉は天照大神、剣は素盞嗚尊、鏡は若姫岐美尊となります。

尚又、主師親から申しますと、玉は主で、ゝを上へ打てば主となります。剣は師であります。鏡は親になります。丁度よく合って参ります。

釈迦が鏡でありまして親であります。阿彌陀も観音も下ではありますが、釈迦が親となるのであります。阿彌陀様も観音様も、お釈迦様が産んだわけであります。昔から偉い人を産んだ其の人が偉いというが、それは違います。ムッソリーニより母の方が偉いという人はありません。

「主師親」を一つにして権力をもって居られるのが、天皇陛下であります。これがわかれば、今言った様になるのであります。もっと分ければありますが、これ位にしておきます。

物質と致しますと御皇室の宝となります。

今言った様に、印度と言う字の様になっている字があります。これにとらわれて色々な事があります。

東氏が浅草観音の写真を写しましたが、浅草観音に「施無畏」と書いた額があります。観音様は「施無畏菩薩」というから書いたものかも知れませんが、意味が今迄判らん-。「施して畏れ無し」では判りません。これは当字であります。本当に解釈すると「施無畏」とは、言霊の霊返しで、セムはスとなる。畏はイで、イとは位であって、主の位であります。それを匿してあったのであります。「施無畏菩薩」は、主の位を持った菩薩という事であります。是れから斯ういう事になるのであります。

それから、この間も高天原のことを話しましたが、天の岩戸は何処かと言う研究がありますが、扉が信州の戸隠山迄飛んだのだから何処か関東にあるという説がありますが、これは何処にもあります。小さくは人間の心に岩戸があります。観音様の事を知って悟った人は、心の岩戸が開けたのであります。それですから、話しても観音様の事が判らん人は岩戸を堅くしめているのであります。話をしたり本に書いてあるのを見て開く人もありますが、開く人が少ないのであります。

心の岩戸に光を与えると一番早く開きます。一番の根本は、世界の一番根本の岩戸を開けることであります。今はあらゆる階級や国魂が締っております。岩戸が開けば、天照大神様が住まっているのであります。心の岩戸を開けば、太陽の光明を拝めます。観音様の光を感じて拝める人は、心の岩戸が開いているから拝めるのであります。

心と魂とは違います。人間の五体全部に行き渡っているのは、精霊でありまして、その中心が心であります。其故中心の心は芯であります。心の中に又、魂が入っております。魂は非常に小さいもので、心の百分の一であります。又、心は精霊の百分の一で、体からは千分の一でありますから、九分九厘と一厘となり、又、千騎一騎の事にもなります。千分の一の魂が、千倍の体を左右するのであります。

心の岩戸が開けるとは、魂を包んでいる心が開けるのでありまして、心の岩戸が始終堅くなって居ったのが開けるから、魂が光を拝む事が出来る様になるのであります。今迄の教や道徳では、魂迄届きません。心迄より届かなかったのであります。 それで、世界が精霊ならば、日本が心となり、東京が魂となるのであります。凡ゆるものが皆三段になっているから、これも三段になっているのであります。それから、この東京が精霊とすれば麹町が心であって、宮城が魂となるのであります。

それで、この精霊及び心と魂が、霊と体となっております。要之、天地となっているのであります。精霊の天は上半身、下半身は地であります。然し、下半身と申しましても、体半身ではなくて、首から上が天で、下が地であります。天の中心は脳髄の真中にあります。地の中心は臍であります。臍のことを中腑というのは、此意味であります。ですから中心が天地になりますから、魂が天地になります。別々の様ですが感合しております。

昔は腹で考えるという。今は頭で考えると言いますが、これはどちらでもあります。両方が感応し合って考えが出るのです。吾々が考へるにも、頭や腹で考へる様な気が致しますが、之は両方であるからであります。然しこの命令権は頭にあります。それは天であるからであります。未だ詳しく解けば説けるがその位にしておきまして、是をもっと徹底さして行きますと、天皇陛下のお働きに迄話がなりますから、面倒になりますから止めます。

観音会の仕事は、人間の心の岩戸を開ければ、世界中開かれるのであります。宇都売之命が踊って神々様を笑はせますが、観音会には笑が必要なのであります。何故かと申しますと、議論や説教では岩戸は開けません。笑はにこやかであります。笑い合う様でなければ心の岩戸は開けません。議論や小言では逆に岩戸が締ってしまいます。観音会は話などせず、祭らして拝ませればよいと云うのであります。藪から棒に祭れと云っても駄目でありますから、御神徳話をすればよいのであります。それで話が出来るのであります。

今迄の宗教は教えとか説教とかで責めて行きます。理屈や言葉の数で責めるのであります。天理教では四時間でも五時間でも座ってやってますが、間違いであります。値打のないものは説明がいりますが、価値のあるものは説明はいりません。話をすれば判ります。大いに笑う気分でなければ駄目であります。本当の岩戸は開けんのでありますから、観音会では笑冠句を奨励して居ります。

他では此の催しはやりません。 キリストは笑は罪悪だ。笑い合う処罪悪生るという、牧師の説教は、まるで泣声をしています。これでは岩戸は開けません。大いに笑って大いに朗かでなければ駄目です。朗かな人の事を明るいと言いますが、明るくしていねば天国は開けません。

「光明世界」でお読みになったでしょうが、阿呆文学は長く続ける心算ですが、此次は、「目下罪障消滅中」というのであります。其次は、「大千誤魔化し世界」だから、本当の事を言うと自分が暴露されるから、言う事が出来なかったので、あらゆる世の中の事が皆誤魔化しになっているから、迷いを生ずるのであります。

仏教でも何でも、判った人がないから山へ籠ったり、断食をしたりして、難行苦行しても稍近い所まで行くが、結局は今一歩の所で判らない事になってしまったのであります。坊主の堕落は、物が判らないから半やけになるから、あのようにだらしが無い事となります。今度は判らない事を世の中に知らせるのであります。私が、これから話をするのが、第一歩であります。

阿彌陀様が一番偉いと言う人と、又、お釈迦様が一番偉いという人がありますが、皆間違いで、誤魔化しであります。東氏の言われた奉仕的大安売も、高いものを売りつけ様とする手段より外ならないのであります。

仏教に限らず、総て世の中の事が皆其の通りであります。皆誤魔化しであります。 私が段々世の中の事を暴露致します。それには、第一に怒らん様に滑稽に言うのであります。滑稽に言えば笑いながら其の人達が改心致します事になります。

観音様は世の音声を観ると解釈している様ですが、世の音声を見て総てを悟って済度すると言ふが、観音様はつんぼではありませんから、音を見ないでもよろしいのであります。私は生れてから未だ曽つて音を観た事はありません。此の次は観音様のお話を致します。

今迄の世の中のあらゆる事は判らなかったから、皆誤魔化しで終って居ったのであります。誤魔化されて感心して随喜の涙を流して居ったのであります。 仏教の解説も皆こじつけであるばかりであります。そういう事を余程暇な人があったと見えて、盛んに奨励して居たのであります。禅宗の坊さんや信者達がよく言ふ、隻手(セキシュ)の声を聞くなんて真面目になってやっているんですから、人間も馬鹿馬鹿しいものであります。この隻手の声には色々解釈がありますが、私は、隻手では音はない、双手(モロテ)で音がするのであります。私は隻手では音はないと解釈いたします。

それから、よく聞く事でありますが、肉体はあるのでありますが、或人は肉体はあるが事実は空だといいます。

あの生長の家の谷口正治氏は大本時代に、私も知って居りますが、矢張りこれと同じ説でありますが、この谷口氏は病気は仮のものであるから心で健全だと思えば癒るというのでありまして、これ等が誤魔化しの第一等のものでありまして、斯ういう風に、今に至るものを変てこに、曖昧にしてゆくので判らなくなります。

親鸞の言った、「善人は救われる、况んや悪人をや」と言う事があるが、是れを聞いて信者が皆喜んで居りますが、是れが誤魔化しの傑作であります。此故に霊界に沢山居る悪魔が、世の中を悪化する様に出て来て、この連中に憑って活動するのでありまして、世の中を悪くする悪魔の仕組であったのであります。此の通り阿彌陀の悪の働きをやったのでありますが、それも天地経綸の重要なる悪の役割をしたのでありますが、結局、これも善になるのであります。

阿彌陀の陀の字が非常に悪の働きとなるのであります。陀の字の阝(コザトヘン)を虫偏にすれば蛇になります。是れを以て悟れば良いのであります。今度は阿彌陀様が改心するのであります。マッソンを拵えたのは、奥の院に阿彌陀様が祭ってあったのであります。

今迄は、観音様より上にいて人々に拝ませて居たのでありますが、阿彌陀が下に降って観音様より下になれば、五六七の世となるのであります。此の様な例は何程でも沢山ありますが、善悪を判らない様にしていたのでありまして、南無阿彌陀仏を称へさえすれば、悪も救われると言うが、之が悪人を作る事が多くなるのであります。 出来た悪を救うよりも、悪を最初から作らん様にするのが、本当の教であります。この様に根本が大変に違うのであります。

救世軍が年の暮に鍋を出して、正月の餅を配る事をやり、又、不仕合せの者、罪人等を救うと言うが、其の根本に遡り、不幸な者が出来ん様にするのを考えないで救うと思っても根本から出ぬ様にしなければ、是れは根絶する事も出来ず、何時迄やっても際限のない事になるのであります。救うのも必要だが、この様な不幸な者の沢山出ぬ様にするのが一番良いのであります。社会事業は箆棒(ベラボウ)だ、一方で不幸な人を造り、それを救うのであります。それが出ぬ様にするのが本当なのだ。之が誤魔化しの世界なのであります。

悪の出る根本は何処にあるか、これは、支配階級が正しい行をするのが根本であります。宗教家や政治家は、良いことをせねばなりません。上流が濁れば下流が濁るのが当り前であります。総て源にあるのであります。源の人間が本当の働きをすれば善いのであります。処が、今の上流は、それをやるのが嫌なのだ。妾を置いたり、芸者買いをやったり、女子に手をつけたりする、斯ういう事が止められんのであります。根本を良くするのが嫌なのであります。

政治家も神様を祭り、政治を行う前に、先づ神を拝んで、然る後行えば良い政治が出来るからよいが、待合や料理屋でやらなければ、会議が出来ん、乱れているから本当の事が出来ません。自力更生、農村救済等と色々な事は言うが、農民が気の毒だから救わねばならんとすれば、先づ以て料理屋で食って居たのを三十銭位の弁当にするとか、先づ第一に、自分等が率先して是れを実行すればよいのであります。

世の中の人も競って之を真似るのであります。凶作地の話を待合でやるのでは問題になりません。何千坪かの邸宅を構え、祖先の関ケ原の戦の功名で公爵になり上っている人達が、教化運動の総裁でやっているが、自分の行を改めずに、人に行わしても駄目であります。悪人が出来るのは当り前であります。支配階級の人が、自分達の行を見せてくれて、世の中の人も見習う事で、納得するのであります。

国際聯盟の問題の時、満洲を日本が武力で取ったと言ったが、国際聯盟の人達は、自分の国では沢山の植民地を持っているのは何だ。皆武力で取ったのではないか。日本は満洲が日本の生命線であるから独立させたのだ。又、現在でも武力で圧(オサ)えつけているではないか。印度等でも少し騒動すれば、沢山な軍隊がどんどん虐殺する。日本で取れば文句をいう。実におかしいではないか。日本の満洲を取ったお手本は誰だと聞きたいのであります。悪人の出る根本は誰だ、やはり自分達の行動からではないか。之が誤魔化し世界の誤魔化し世界たる由縁であります。


北○は盤古神王系にして、南○は大自在天系なり。南○より出たる出口王仁三郎は大自在天にして、今の働きは大六天の魔王なり。それで大悪魔にはあれども、岡田仁斎先生を産みたるは、大悪魔の悪業を償いて余りある大功あれば、今後に於て改心すれば、又救われて元の霊魂に復帰する事を得るなり。素盞嗚尊の霊魂なり。

月は水なれば阿彌陀も水なり、阿彌陀仏を今に於て拝む者は、体中冷ゆるは当然なり。

日は火なり、観音様は日の神様なれば、冷ゆる人が観音会に入会して、観音様を拝めば冷も去り暖くなるなり。

月は阿彌陀仏にして大自在天なり。さればこそ六にして中界の魔王となるなり。大六天の魔王とは矢張り六なればなり。出口王仁三郎なり。又、猿田彦命が中界の魔王となると云ふ大本教のお筆先あり。これも此意味なり。猿田彦命は手力男命となる。昭和神聖会は此の働きなれば大六天の魔王の活動となるなり。則ち、出口王仁三郎の主催なればなり。

釈迦は悪少し、則ち教祖様の意味となる。

天若彦は七の霊魂なり。教祖様の夫なればなり。

三千年の桃の実とは西王母の事にして、現界の歴史である。仏教では胎蔵界と言う。彌勒の出現の時まで五六七を胎蔵していたのである。西王母は聖王母とも書く、伊邪那美尊の事である。今迄の世界は、伊邪那美尊の御経綸である。伊邪那美尊は西の経綸である。

西王母より生れて、いよいよ桃太郎となる。千手観音は桃太郎の事である。沢山の宝を取るのは、千手観音の手に沢山の宝を持っている。あれは今迄の世界の物は総て鬼ケ島の鬼が支配して居ったのを取返した事となるのであって、今迄のあらゆる権力を鬼が持っていたのである。今後鬼が改心する事になるのである。桃太郎に出られては迚(トテ)もかなわないといって降参するのである。

今迄の支配権は(支配権といっても霊的である)鬼が持っていたのを、いよいよ奉還するのである。

尉と姥とで世界の大掃除を致すことである。黄泉津比良坂(ヨモツヒラサカ)の戦は鬼と桃太郎の戦である。

桃太郎は桃の実である。千手観音である。応神堂の千手観音のお顔は若いが、あれは桃太郎の顔である。

黄泉津比良坂の戦は、一番初めは明治神宮の参道九鬼隆二子爵の家に行ったことである。青山隠田百一番地で、百一番は「桃のはじめ」と言う事、九鬼とは沢山の鬼の事である。其戦で勝って如意宝珠の玉を夫婦で持って来て呉れた。今でもどんどん第二、第三、第四と戦っているのである。

麹町へ出たのは、鬼ケ島の真中へ出て来た事である。

桃太郎は最勝妙如来である。必ず勝つのである。桃は三月三日に咲いて五月五日に実る。五月五日の鯉のぼりの事は非常なる意味がある。鯉は魚の観音である。真鯉の鱗は三十三枚である。

常磐津や長唄等には神秘が沢山ある。これは神様が準備して居られたのである。観音宗とか観音教とかいう宗教の今迄出なかったのは、又神様が取っておかれたのである。


今度の祝詞の中にある大千三千世界と書いてあるのも、今迄の三千大千世界となっていたのを逆にしたのであって、これは非常なる意味がある。大千のセンはスとなる、オスの意味にして男の事である。又、大のオオは王ともなる。三千はミスとなり、メスとなり、女の意味である。これは今迄女が上で男が下であった事になるのだ。嬶天下の意味にして今迄の逆の世の言葉である。いよいよ時節が来て大千三千世界となり、男が上になったのである。

釈迦とはサカの意味にして逆である。神様へ榊を上げる事も逆の木を上げた事で、逆の世を表わしているのである。

南無阿は間違いであり、南無妙も間違いで阿無南、妙無南とならねばならぬのである。要するに、今迄の仏教は間違いであるから、止めようと言う事になるのだ。南無阿とか、南無妙とか称える事は間違いの世を謳歌する事になるので、我々としては絶対にやめねばならぬ。南無と言う字は決して使用する事はいけない事になる、心すべきである。