寒冒(風邪)から肺炎、肺結核に至るまで

肺炎と結核といふ病気の初因は、勿論寒冒からである。といふのは折角寒冒といふ浄化作用が発生するや、医療は極力停止させやうとして、種々の手段を行ふ。其中の最も不可であるのは、薬剤と氷冷である。元来薬剤とは如何なるものであるかといふと悉く毒物である。にも拘はらず何故毒物を薬剤として用ひるやうになったかといふと、浄化作用停止に最も効果があるからである。

茲で、浄化作用なるものの本質を説いてみるが、体内の毒素を排除すべく生れながらに保有してゐる自然良能力である。従って此力の強弱によって、浄化力にも強弱が出来る。何よりも結核が青少年に多いといふ事は、浄化力が旺盛であるからで、壮年から老年に及ぶに随ひ、減少するのも其理由であり、又各種の伝染病が、青少年や小児に多いのも同様の理である。そこで病気即ち浄化発生の場合、医学は浄化を極力止めやうとする、それには何よりも体力を弱らせる事である。其唯一の方法として考へられたのが、毒物を体内に入れる事で、それによって体力が弱るから、浄化も弱り、病気症状も軽減するといふ訳である。又氷冷は何故不可かといふと、毒素を溶解すべき熱を冷すから浄化が弱り、元通り固まり、それだけ苦痛も減る事となる。勿論、湿布も同様であって、只些か異う点は、人体は不断に皮膚の毛細管からも呼吸してゐるのでそれを窒息させるから、其部の浄化は停止し、症状は緩和されるのである。特に近来注射が流行するが、之も毒分の強い薬は、服んでは中毒の危険があるから、皮膚から注入するのである。

寒冒に罹った場合、右の如く薬毒や其他の方法で、浄化停止を行ふ以上、保有毒素の大部分は残存し、再び固まって了ふと共に、新しい薬毒も追加されるので、寒冒に罹る毎に毒素は累加し、或程度に達するや、一時に浄化活動が起る。それが彼の肺炎である。何よりも肺炎の特異性は、喀痰が肺臓内に多量に溜る事で、其為喘音が甚だしいのである。喘音とは呼吸の度に肺胞が動くにつれての喀痰の響きである。又呼吸困難は喀痰多量の為、肺臓内の容積が縮小するから必要量の空気を吸ふには、頻繁に呼吸しなければならないからである。此理によって肺炎の場合、何等の療法もせず、自然にしておけば痰は出るだけ出て順調に治るのである。処が医療は凡ゆる手段によって浄化を停止させやうとする。何よりも肺炎に対しては医療は特に強い薬を用ひる。それは毒が強いからで、浄化停止に強力だからである。そんな訳で強い浄化と強い浄化停止とで、猛烈な摩擦が生じ、非常な苦痛が伴ふ。其為食欲減退、高熱による体力消耗等と相俟って、衰弱死に到るのであるから、医学の誤謬たるや言うべき言葉を知らないのである。

右の如く肺炎は強烈な浄化である事は体力が旺盛であるからで、体力の弱ってる人は浄化が緩慢に発る、それが結核である。そうして医師が初めての患者を診断する場合、種々な方法の中、今日最も決定的とされてゐるものはレントゲン写真である。之は肺臓内の雲翳又は空洞が写るからで、之をみて結核と断定するが、医学は之は何が原因であるかを知らない。そこで其原因をかいてみるが、最初液体となった毒素が、一旦肺臓内に侵入停滞した時、極力浄化停止を行ふ結果、喀痰は排泄されず、肺臓内に残存して了ひ、日を経るに従って固結となる。それが雲翳であってみれば、之は全く人為的所産と言えよう。故に最初の液体侵入の際は、肺臓は何等異状はないのである。そうして固痰の位置が比較的上部の場合は、肺炎カタル又は肺門淋巴腺といふのである。それと似たものに肺浸潤がある。之は軽微な肋膜炎又は肋骨附近に溜結せる毒素が浄化溶解し肺臓内に浸潤吐痰とならうとするので、此場合も医療は固めやうとするから容易に治らないので、何れも放任しておけば、順調に治癒するのである。

そうして一度結核と断定するや、寒冒と同様医療は極力浄化停止を行ふが、それに最も効果ありとされてゐるのが、近来熱心に推奨されてゐる彼の安静法である。処が此安静法が曲物である。何となれば仮に健康者が一ケ月も安静にすれば、運動不足で食欲は減退し、体力は減り、外出しない為顔色は悪くなり、目に見えて衰弱し、一寸動いても息切れをするやうになるので、言はんや病人に於てをやである。尚其上薬毒を入れられ栄養と称して動物性蛋白を多く摂らせるが、右は悉く衰弱を増させる方法であるから、結核患者ならずとも衰弱するに決ってゐる。

此様に衰弱法を行ふ結果、予期通り浄化力は極度に減退し、症状は減り遂に無熱となり咳も吐痰も無くなるので、之で恢復したと思って喜ぶが、何ぞ知らん実は浄化以前の状態に還元させたままで、而も反って薬毒は増し、体力は弱り、消極的小康を得た迄で、真に治ったのではないから、何かの機会に触れるや、俄然悪化し重態に陥り、遂に死に至る事が往々ある。斯ういう経路は医家もよく経験する処であらう。故に医学では決して治るとは言はない。固めるといふにみても明かである。又経過中に患者が偶々少し運動でもすると直に発熱する。すると医師は周章てて戒めるが、之は運動によって鎮静してゐた浄化が頭を擡げるからで、本当はいいのである。よく長い間掛って漸く治ったと曰はれ、ヤレ安心と普通の生活を始めるや、間もなく再発元の木阿彌となる事もよくあるが、之等も何年掛りで漸く固めた毒素が、俄かに溶け始めた為である。

以上によって明かな如く、今日の医療が如何に誤ってゐるかで、忌憚なく言へば医療が結核を増やしてゐると言っても過言ではなからう。 茲で、結核菌に就て大いに注意したい事がある。医学では結核菌は、伝染するとして恐れるが、それもない事はないが、大部分は自然発生である。前述の如く最初喀痰が肺臓内に侵入するや、医療は固めて出なくするので時日の経過につれて腐敗し、微生物が発生する。之が結核菌である。そうなった痰は悪臭があり、粘着力が強いものである。考へてもみるがいい。如何なる物質でも古くなれば腐敗する、腐敗すれば微生物が湧くのは物質の原則である。ましてや体温といふ好条件も手伝ふからである。之によってみても最初の寒冒時、肺臓内に喀痰が滞溜した時、極力出して了えばそれで済んで了ふ。それを一生懸命出さないやうにして腐敗させ、菌迄湧かせ、菌の蚕食によって空洞さへ作るのであるから、結果から言えば善意の加害的行為とも言へるであらう。此理に目醒めない限り、今後如何に多くの犠牲者が出るか測り知れないものがあらう。

また、肺浸潤は肺の外部にあった薬毒の固りが溶けて、肺に浸入し痰になって出やうとする病気で、之も自然にしてをけば出るだけ出て完全に治るものを、医療は固めて出さないやうにするから、結核に迄進展するのである。また、肺門淋巴腺と肺尖加答児は、首肩の凝りが溶けて肺の上部から浸入する、それを曰ったもので、之も自然なら簡単に治るのである。また、肺壊疽は肺の内部から外部へかけての腫物であり、粟粒結核は肺胞に出来た湿疹であるから、放っておけば血膿が出るだけ出て必ず治るのである。その他喀血及び血痰は濁血が出るので、結構な浄化作用であるから、医学でも喀血性は治りがいいとされてゐる。斯うみてくると結核は治るに決ったものであって、治らないのは医療が治さないやうにするのである。此事が分ったなら結核医学は百八十度の転換とならざるを得ないであらう。今日結核が益々増え、その対策に腐心し、莫大なる国費を支出しつつあるその無益なる努力は、到底黙視し得ないのである。

茲で菌に就て徹底的に説いてみるが、医学に於ては菌の感染を恐れ、菌さへ殺せばいいとして、全世界の学者は殺菌の研究のみに耽ってゐるが、此考え方こそ抹梢的浅薄極まるものである。といふのは菌の感染は結果の問題であって、根本は菌そのものの発生原の探究である。何となれば菌と雖も突如として空中に湧いたものでもなく、何処からか飛んで来たものでもない。湧くべき理由と湧くべき根拠地があって湧くのである。従って仮令菌だけ全滅させる事が出来ても、その根拠地即ち原地がその儘であるとしたら、無意味であるのは分り切った話である。では菌の発生原地とは一体何処にあるかといふ事が問題の根本であり、それが分ると共に、原地の潰滅も可能であるとしたら、茲に結核問題は解決するのである。それらを以下詳しくかいてみよう。

之を説くに当っては、先づ人間の霊に発生する曇りを知る事である。本来霊の本質は無色透明にして、最も稀薄な一種のエーテルである。此エーテルはその密度の高い事は、今日の顕微鏡の何百倍でも見る事を得ない程の超微粒子であって、それへ発生する曇りというのは不純水素の集合体であって、即ち純粋水素中に異物が混合してゐるのである。では右の如き不純水素が何故発生するかといふと、之こそ濁血の霊化したものである。既記の如く人間は霊主体従であると共に、霊体一致でもあるからである。此曇りが日を経るに従ひ、或程度濃度化するや、それへ一種のバクテリヤが発生する。此バクテリヤの本質は植物性無機物であって、之が又日を経て有機化するので、之が即ち黴菌の幼虫であり、育って一人前になったものが顕微鏡で見得る菌である。従ってヴィールスとは幼虫から菌になるまでの中間粒子であるから、顕微鏡では見得なくとも、確かに在る事は医学でも認めてゐる通りである。斯う分ってくると右の霊の曇りこそ、実に黴菌発生の原地である事は余りにも明かな事実である。以上によって、仮令、医学によって予期の如く菌を殺し得たとしても、肝腎な発生原地がそのままであるとしたら、後から後から無限に発生する以上、笊に水汲むやうなものである。それは今日迄殺菌薬や殺菌法が現はれても一時的で、いつか消えて了うのもそれをよく物語ってゐる。

医学上、結核は感染する事になって居るから、世人は非常に恐れてゐるが、何ぞ知らん、絶対に感染はしないのである。之に就て私の実験を報告する。それは私の家族五、六才から十七、八才までの子供六人、書生女中等四、五人居る。その中へ肺結核患者、之は私の診断ではない、某々官立の大病院に於て肺結核と診断されたものを約半ケ年、家族同様起居させたるも一人も感染せず、而も、右の如き結核患者を拾数年間に拾数人家族的に取扱ひしも右の如く感染の疑ひさへ些かなき事実は、感染しない事を證明して余りありといへよふ。又、之以上実験の方法はないであらふと思ふのである。勿論、消毒等は一切しないで、普通人と同様の扱方であった、従而、結核感染の試験ならば、私は固より家族の誰でもが何時でも実験の材料になるから、感染さしてやらふと思ふ人があったら遠慮なく申込んでもらひたい。何時でも喜んで応ずる事を明言しておく。

たゞ茲にいっておきたい事は、結核が感染するやうにみえる事実は確かにあるが、それは黴菌の為ではない。霊的作用によるので、それも如何程でも徹底的説明は出来るが、そういふ事に触れると現代人の多くは迷信的に解釈し、他の私の説まで疑ひを挿まれる危険があるから、それはわざと説明しない事にして置く。

右の如く、感染の危険なき病気に対し多額の国費を以て予防の施設をし、親子兄弟まで親しく接する事さへ危険とせられ、其他種々の社会的損失を数ふれば、此一事だけでも社会全般に知らせる事が急務であり、それが如何に国家的に利益なるか、蓋し料(ハカ)り知るべからざる程の大いなる事柄であらふ。文明各国は、結核予防施設のよろしきを得て、近年結核減少の趨勢を辿りつつありといふ報告によって、我国もそれにならふのであるが、何ぞ知らん之は皮相の解釈であって、実は根本的に間違ってゐるのである。之は実に予想も出来ない程の原因と理由に因るのであって、読者は先入観念に捉はれず、活眼を開いて読まれん事である。

近来、逐年に渉り文明国人の出産率の低下は熟知の通りであるが、此事と結核の減少とは正比例してゐるといふ事実であるにみて、如何に関聯があるかといふ事が判るのである。それは何かといふと、文明人の体位の低下が結核を減少させる事になるのである。何となれば、結核とは前項に述べた通り、旺盛なる浄化作用に因るのであるから、体位の衰退は自ら結核が発病し得ないのである。言ひ換へれば、青年が老年期の体位である訳である。故に、日本に結核が多いといふ事は、未だ国民に元気があるからで、従而、出産率も文明国中、最優秀といふ訳である。

毒素固結個所としては、頭脳を中心に首の周り、肩、肋骨附近、背部、腹部、股等の順になってをり、之によってみても結核の根本は体内全部といってもいいのである。此発見こそ全く世界的のものといってもよからう。

肺炎と結核(文明の創造 昭和二十七年)
結核の病原(医学革命の書 昭和二十八年)
肺結核(医学試稿 昭和十四年)
結核は絶対に感染せぬ(医学試稿 昭和十四年)
肺病(二)(医学試稿 昭和十四年)
肺炎(医学試稿 昭和十四年)