岐阜県 I.M
私達家族八人は、昭和二一年三月入信以来、数多くの御利益を頂き、家族一同、感謝の日々を過させていただいております。その喜びの一端を御報告させていただきます。
昭和二一年以前は、病人のたえまなく、お医者さんとも薬屋さんとも大の仲良しでした。村の人からも不思議に思われる程煩いました。子供も大へん体が弱く、滋養剤をのませているにもかかわらず、少しも丈夫になりませんでしたが、今では私の家には病神は去り、家中光明如来様のお光で明るい毎日を送らせて頂いて居ります。
私は特に次の如き尊い御利益をいただきました。それは、今年の四月一日、壁を修理するため、荷車に箱五箇をのせて、通称地獄谷と言われる狭隘な坂道にさしかかった際、後より馬車がやってきましたので、少し広い所で、馬車を避けるため車を止めていました。馬車が私の車の横を通ろうとした時、荷車の後にひっかかったのでしょう。私はハッとして「光明如来様、光明如来様」と念じました、ガラン! ガラン!と音が聞えるだけで、私はもうなにもわからなくなりました。私は車と一緒に一丈五尺余りもある石垣の下へ転落してしまったのです。
暫くして気が付いて見ると、私は一寸した木につかまっているではありませんか。私は我知らず「光明如来様」を唱えて居ります。車の梶棒に肩縄をしていたのに、どうしてぬけ出ていたでしょう。有難き光明如来様の御守護だったのです。有難くて有難くて涙が止めどなく流れます。馬車に乗っていた人や馬子は、石垣の下に落ちて、どうなったことかと思っていたのでしょう。「M、M」と私の名を呼んでおります。私は、その木のそばで「おーい」「おーい」と答えますと「おお」と、びっくりして「アッ、Mがよんどるぞ」と、叫びながら、下へ降りてきてくれました。そして、私の掠傷してない元気な姿を見て「全く不思議や、こんな高い所より落ちて、よう助かったもんや」と、高い石垣の上を眺め茫然としていました。
車はひっくり返り、梶棒は折れて居りました。箱の一つは鉄道よりも下の川原まで、飛んでいるではありませんか。折れた梶棒を引き、壁の土を取りに行き、土を箱に入れながらも、余りのうれしさに目頭はあつくなり、家内と共に善言讃詞を唱えさせていただきました。妹は、早速家にかえり子供等と共に、光明如来様に御礼申し上げました。
G先生が大光明如来様のお祭にきていただく時、現場をみていただきました。「Iさん、尊い御守護をいただきましたね」と仰言っていただきました。
私は、この偉大なる御利益をいただき、勿体なさ、有難さに、ただ黙ってはおられず、つたなき筆を顧みず、謹みて御報告させていただきました次第でございます。
この尊い御聖業に一日も早く、一人でも多くの人がはいれますよう念願いたして止みません。
明主様、有難うございました。(合掌)
(昭和二五年一一月一五日)
………………………………………………………………
神奈川県 K・K
『栄光』新聞第八二号に御発表の明主様の「神霊の実在科学で立証さる」という御論文を拝読し、それに伴なうN様のおかげ話にて、お守より発する光がレントゲンより強力である事が科学的に実証されております。
尚、昨年一〇月一八日熱海へ御参拝させて頂きました折にも親しく御光話を賜わり、本当にお光の有難さを沁々と感じました。処がそれと殆んど時を同じくして、私の子供も同様の奇蹟を体験させて頂きまして、一層の感激に打たれた次第でございます。次に御報告させて頂きます。
今年小学校四年の長男Hが一〇月初旬「レントゲンを撮るのだけれど」と言いにくそうに申します。実は子供は学校で裸になる時、お守様をかけていますので困っていたのです。子供がそれを申しますので、御粗末になってはと思い、当日はお守様を家へお納めして登校しました。半月程してから子供が、「お母さん、今日レントゲンの写真の結果を言われたけれど、僕の前の子などみなはっきり写っているのに僕のは二度とったけど二度とも写らないから君はもういいと言われた」と申します。アッやっぱり、とすぐに私は胸に思いました。子供の事ではっきりした状況は得られませんが、とにかく大勢の検査の中で二度共うつらなかったというこの事実。早速会長先生に申し上げました処「お守をかけていなくとも霊線によってつながっているからです」との事でした。何時如何なる時にも神様はこの様にしっかりと霊線を通じ御守護を下さり奇蹟を現わして下さる広大無辺なる御恵みを思うと、唯々有難く謹みて御礼申し上げます。神様は色々な奇蹟によって御守の偉力を一日も早く人間に分らせ、信じさせようとされ、そしてお救い下さるのです。お守様をいただき、神様の御袖に抱かれるものにとって、科学の力も原子爆弾の恐怖も何ら驚くに足らないという事はこれによってみても明々白々でありましょう。
私はじめ家族一同日々限りなき御恵みを頂きお救い頂いて参りました。重ねて又尊い体験を頂き光栄身に余る思いでございます。今後共地上天国御建設の御手足となって精進させて頂きます。右簡単ですが謹みて御報告申し上げます。
(昭和二六年二月八日)
………………………………………………………………
東京都 Y·T
生来病弱であった私はふとした事からA支部のN先生に御浄霊を頂き、只今では見違える位に健康になり引続きS中教会本部にお世話になり、微力乍らも御神業に励んで居ります。私の家では全部御教修も頂き、この夏は大光明如来様をお祀りさせて頂きました。数日前私用にて家に帰って見ますと母が驚いた面持にて私に申しますには四、五日前、御神前に善言讃詞を奉唱致しましておもむろに面を上げますと、大光明如来様の御文字より星の様な何とも言えない光がパッパッと飛び出て見えますので、早速その事を家中の者に話しますと、私の甥(一〇歳、教修を頂いて居ります)が「それなら少し以前に三回ばかり見た」と申しますのでどういうのかとききますと、或る夜、大光明如来様にお上げした品物をお下げに参りました処、お軸全体から星が降って来る様に見え、二度目は大光明如来様の「光明」の御文字が金色に光って見え、御軸の周囲を雀位の大きさの綺麗な小鳥が飛び廻って居たとの事、三度目は矢張りお供えしたものを下げに行きましてフトお軸の上を見ましたら、大光明如来様の「大」の御文字の所に一尺位の大きさの御姿をはっきり拝する事が出来たと申します。お姿の事は子供の事とて充分説明が出来ませんようなので、母が『奇蹟物語』の最初にお写りになって居られる千手観音様を見せました処、丁度同じお姿との事で、然も蓮華台は金色に光り輝いて居り、その廻り全体がまぶしい許りのお光が一杯で、余りの事に恐ろしくなって皆居る所へ逃げて来たと申すのでございます。私の家にこの様な有難い奇蹟のありました事を聞きまして私は唯胸が一杯になるような感激を覚えました。明主様が日頃申されます事が一々間違いのない事実である事を、今更乍らに分らせて頂きました。ともすれば弱り勝ちな私達を励まして下さるこの様な奇蹟の数々に私は愈々お道への信念を強く持ち、光明世界建設への一途な努力を致さねばらないものと痛感致す次第でござい ます。
(昭和二五年九月一三日)
(世界救世教奇蹟集 昭和二十八年九月十日)