大分県 S・A
私は九人家族を一人稼ぎの貧しき労働者でございます。入信以来八ヵ月難病治療につき三度御報告させて戴きましたが、今度は待ちに待ったる貧からの解放につき再拝して御礼申し上げますと共に、あらゆる経済面の不幸に嘆かるる方々の御参考までに敢えて拙文を綴らせて戴きます。常日頃貧の解決に関するK会長先生やY先生の御指導に「自己の幸福を欲求するのみでは真の幸福は得られない。先ず他人を喜ばせる事に努め、且つは御献金御用金等神様の御事業に専心協力する事である」との事伺って居りますので、先ず他人の幸福からとの見地から治病に関しては異常の熱意を以て努力、再三御報告の通り偉大なる御守護を戴き、病気等は日常何等の関心をせざる迄に確信を持たせて戴いて居ります。併し乍御献金の事に関しては、ここ10年来貧乏に喘いで居る為、つい悪い事とは知り乍ら怠り勝ちであり、到頭貧の解決までお願いするのが無理だとさえ考えた事もございました。
併し乍ら余りにも「金欠病」に苦しむ私の姿を見られ、Y 先生は「治病の方は今の儘で結構だが今一歩進んで、たとえ苦しい中からでも神様の事をキチンキチンとして御覧なさい。きっと変って来ますよ」と再三御指導をして戴きました。私も又貧に疲れ果てて居りましたので「よし、欺されたと思って(申訳なき事乍ら)一先ず道を変えて見よう」と決心し、「先ず神様の事を先に」をモットーとして実行に移したのが五〇日程前の事でありました。丁度その頃奥山で山製材をして居りましたのが、資金難の為失敗し、五ヵ年振りに「泣き面に蜂」の顔で引揚げて参りましたが、この就職難と金詰りの時代に西も東も判らぬ様な田舎ぼけした私は途方に暮れてしまいました。すると帰郷二日目の朝、同教者の〇氏が今朝ラジオで聞いたからと、職業安定所の製材工一名の求人を知らして下さいました。早速安定所に当ってみますと、日下当市に建設中の興国人絹E工場の工事施行者H建設でございました。直ちに会社の庶務課長さんと交渉致しました処、今度初めて製材機を設置するとの事にて、当方の望み以上に何の苦もなくスラスラと話がまとまり、市内数百人の製材工より一級も二級も上の最高給を給され、他の日給に比べ私のみが月給制で、月四日間の有給休暇付きという誠に好条件に恵まれ、その上妻Nまでも女子としての最高給で同時に雇われる事となりました。又工事完成の暁には新会社に引継いでやろうとの事であります。すると私が直接指揮を受ける製材係監督福岡県出身のBさんという方が、或日休み時間にやって来て「私は戦時中応召して鹿児島に居た事がありますが、当地出身で貴方と同姓のS君という大工の戦友が居り、大変な世話になったものだが貴方と関係はありませんか」との事、余りの事に一驚又一驚、私の弟Cは大工で、応召は鹿児島でありました。B氏は「奇遇だ奇遇だ」と言って大いに喜ばれ本工事現場内種々の職人の中で、製材工の君達の賃金がまだ安いと言われ、課長さんと交渉されてこの月末から二人共又々昇給と決りました。そしてこの五〇日余りの間に、貸し失いの金が俄かに入って来たり、売れぬとあきらめていた物が突然買手が来たり、不当な見込み課税の国税や事業税が七割方も減じるという、その他十指にあまる奇蹟がお願いもしないのに次から次と現われて、御神慮の程に驚き且つは感泣しているのでございます。ここに初めて一〇年の長きにわたり喘ぎ抜いた金欠地獄から救出され、朝な夕なに明主様の御高恩 に感謝の誠を捧げ、暗かりし家庭にも明るい笑い声が聞かれる様になりました。私と同病に喘ぐ金欠病の方々に特に次の事を強調おすすめ致します。
神様の御用金と他人を幸福にするというこの二事が実行さるるなれば、その御用金は幾十幾百倍になって手元に戻って来るという事実であります。幸福を求むる欲の為に神様のそろばんは上手にはじかねばなりません。経済に治病に御協力をしてこそ初めて神様から御褒美として両方共に御守護を戴くのではありますまいか。
人生行脚の道に迷う事勿れです。「御用大事に御献金」これです。貧を嘆く前に先ずこの二事の実行です。世界救世教信徒にはこんな有難い幸福への近道があるのです。
明主様誠に有難うございました。益々御聖業の一端に励まさせて戴きます。
(昭和二七年一〇月一五日)
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兵庫県 N・R
私達夫婦共、昭和二七年一月入信致し、昨年九月には御神体も御奉斎致し、一切が救われた喜びと共に、力強く頼るものを身につけた様な光明生活を、明主様の御守護の下に、運送店を業として居るものでございます。
この度大変な御守護をう致しました。曇り多き私共の大浄化を、奇蹟の感激と共に過させて戴きまして有難い事でございます。
事件は昨年一二月一〇日午後九時一五分頃、一日の仕事を終り、御礼の為御神前で善言讃詞を奉唱中、火事だと言う声で驚き外へ出て見ると、私方の運送用トラックのエンジン冷却防止の為かけてあったシートの下より煙が出ておりますので、急いでシートを取り外しますと一面煙に覆われて居り、発火場所をきわめるべく運転台を開けると同時に火が吹き始め、一瞬運転台が焰に埋もれて仕舞いました。愕然と致しましたが、その時同じ信者のK氏外数名の近隣の方々が駆けつけて下さいましたので力を得、皆様のバケツリレーで消火に努め、私は明主様の御守護を念じつつ御浄霊を、それこそ夢中で続けました。その間運転台横下にあるガソリンタンク(二〇ガロン五斗強入)に引火しないか、爆発しないかと、気が気でありませんでした。タンクの上に一枚の板が乗せてありましたが、その周囲まで火がついておりましたが、その爆発寸前を御守護により約一五分位で鎮火する事が出来ましたが、その時は既に腰掛は塵と化し、計器類は赤く焼け爛れておりました。考えて見ますと、発火した自動車は翌朝京都へ運送すべくコールタール塗りたてのドラム缶が満載されてあり、若しタンクに引火爆発すれば導火物ばかりの為燃え放題で、私外数名の命とまでは言わなくても大火傷は免れ得べくもなく、又並んでいるトラック二台リヤカー一台及び一米と離れておらぬ自宅までも寸時にして廃墟と化し、年末を路頭に迷ったであろう事を思うと、よくもあの火がタンクに引火爆発しなかったものだ、御浄霊をしなかったならば、この奇蹟は起り得なかったんだと、明主様への感謝の涙をどうする事も出来ませんでした。Kさんが「おっさんよかったなあ」と共に手を取り合って明主様有難うございましたと御礼申し上げると共に安堵した気持を筆舌に現わせないのが残念でございます。この様な被災の後に、ああよかったなあと、手を取り合って、大難を小難に振り替えて浄化して下さった事を喜び合える気持は、明主様を信ずる者のみの気持ではないでしょうか。こんな時無神論者にああ良かったなあ等と言 えば、一喝されるに決っています。
火が消えると同時に消防自動車が四台駈けつけて来て、早速原因調査を始めましたが、消防手の方々が皆唖然として、「これは不思議だ、これだけ運転台が燃えてるのにタンクは勿論荷物に火がつかなかったのは実に不思議だ」と驚嘆して居りました。
翌日専属の修理工場に相談致しますと、修理費一一万円と日数二週間と言われ、金も困るが、この年末二週間も遊ばす事は非常な打撃で困却して居りましたが、ふと車の購入先のT自動車会社へ代りの車を借りに行ったらと御念じしつつ御願いに行きますと、車を貸す事は困るが、会社の専属修理工場を紹介しようとて、そちらへ廻ると、「日数は三日位で、運転台は、一寸古いが二万八〇〇〇円位でしてあげよう」と言われ、私は二度吃驚、大火寸前を救われたばかりか、修理までに御守護戴けるとはと只々感泣の外はありませんでした。明主様有難うございます。この上は私の出来る限りの御用を戴き、御高恩の万分の一に御酬いさせて戴く覚悟でございます。
(K氏談)私は出火の瞬間、尿意を覚え、用便中にN家の出火を発見(信者の家の出火を、信者の私が発見し得た事も御守護と存じます) 火事だ! 火事だ!と連呼しつつ現場に駈けつけたのですが、あの際寸分の差、いや寸秒の差でガソリンタンクが爆発していたかも知れませぬ。助かる助からぬは全く一厘の差です。全く僅か九分九厘の最後の一厘のところで助かるものだ、信仰も中々このところまで、一厘のところまでは凡夫の事故分り難い事だと思いますが、何処まで明主様に御縋り申し上げ、本教の御力こそ絶対力だとの信念を厚くし、最後の最後まで信念を固くするより他に救われる道はないと痛感致しました。
何処までも明主様の御力、御浄霊の御力に御頼り申し上げます。
明主様有難うございました。
(昭和二八年一月二七日)
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神奈川県 O.T
明主様貧乏のどん底より現在へお救い戴きました御礼御報告申し上げさせて戴きます。
私は昭和二四年九月、妻と前後して入信させて戴きました者でございます。顧みれば二四年八月、最愛の長男(当時三歳)の病死、続いて長女(生後八ヵ月)の発病(当時の事は『栄光』紙五〇号に御報告させて戴きました)、重なる不幸に加えて失業に妻も子供も普段着の果まで売尽くし、裸一貫になりました。
瀕死の長女の姿を前にして死ぬまでに(医者にも見放され到底助らぬと思いました)一度でもよい自分の手で御浄霊をさせて戴きたいと思いつつも、その日暮しにも事欠く私達には御礼のお金など夢想だに出来ませんでした。併し亡くなった長男の霊をお救いさせて戴く為にも一日も早く入信させて戴きたいと妻と語り暮して居りました。或日(長男の三七日) 思いなくI先生より御礼を御立替して戴き妻が入信、間もなく(長男の最初の命日)私も或方より借用致しまして、入信させて戴きました時の嬉しかった事、天にも昇る心地とはこの事でしょうか。さしも大病の長女も、明主様の御力にお救い戴き、重なる御守護に感泣の外ありません。
入信当日にI先生からしみじみと「もう今までの様な悪い事ばかりは続きません。なぜってもうお光が二体貴方の家庭に入ったのですもの必ずお救い戴けますよ。しっかり明主様にお縋りさせて戴きなさい」とあの力強い一言、未だに身についております。私には一生忘れる事の出来ない一言でした。
二五年五月八日、漸くの事にて就職致しました時はもう貧乏のどん底にて着る物どころか食べる物もなく、お金は無く、最早一家心中の一歩手前の状態でした(当時の事は『栄光』 紙一四七号に御報告させて戴きました)。明主様の御守護によりまして八月には御立替戴きました二人分の御教修御礼も全部お返し出来、御屏風観音様をお祀りさせて戴く程の御恵を戴きました。その秋には又会社がK自動車工業よりN運送へと変る時にも一日も休まず就職致し、その上K社より退職金として一万三〇〇〇円戴き、それこそ神様の御恵と思い、早速光明如来様をお受けさせて戴きました(二階に人が住んで居りますのでお祀り出来ず教会にお預りして戴きました)。
N社より又駐留軍直用と職場の名が変り、変る度毎に、給料も上り、又数回に亘る大量人員整理にも御守護戴き、二七年二月には日浅い私に責任あるホーマン(班長)を任命され、感泣致しました。仕事上の段取りにも「明主様」と御念じさせて戴く事により忽ちスムースに解決致します。
又二七年一一月二〇日には三〇〇名の中一二〇名というこれ迄にもない大量人員整理に、それも日浅い人からという条件の下にたとえ班長であろうと整理され、そればかりでなく、古い方々でさえ格下げとなりました中に日浅い私は依然とし てホーマンとして務めさせて戴いております。これが御守護でなくて何でございましょう。
只々「明主様有難うございます」と申し上げるより外言葉もございません。無信仰の或る方は「矢張り御守護だなぁ」といい、又或る方は「やはり信仰している者の強みはここにあったのか」とも言われ、こういう言葉を聞きます度毎に妻共々嬉し泣き致すのみでございます。そればかりでなく、間違った時は何時でも私の所へ来なさい、引受けますと力強く言って下さる方さえありますので本当に安心立命と申しましょうか、何の心配もなく勤めさせて戴いて居ります。重なる御守護只々有難く厚く御礼申し上げます。
一二月には二階も借る事が出来〇日に二年越しで待望の光明如来様を御奉斎させて戴きました。その時の感激は筆や言葉では表わす事は出来ません。手の舞い足の踏む所を知らずとは、こんな時の言葉でしょう。只嬉しいやらで何回御神前に立ったり坐ったり致しました事か、夜もろくろく寝つかれぬ有様でした。今年のお正月程のどかな気持で迎えました事はここ数年来初めてでした。
これからもしっかり明主様の御教えを歩ませて戴き、御神徳を戴きたく、一生懸命御神業に御手伝いさせて戴きたいと存じます。
明主様有難うございました。
(昭和二八年二月一日)
(世界救世教奇蹟集 昭和二十八年九月十日)