宮崎県 M.N
私は、或火災保険会社の地方営業所長として働いて居り、 昭和二一年九月、入信させて戴きました。
当時と致しましては、入信という一事が自分の将来の運命に、これ程の一大転換が約束されている事等、少しも予想して居りませんでしたが、悪魔の巣の様な暗澹たる病弱の一家 は、これを契機と致しまして徐々に、春風漂う一家と変らして戴いたのでございます。その後、大光明如来様、御屏風観音様の御奉斎、家族四人共教修を戴き、家族揃って一意信仰 の生活に没入させて頂きました。昭和二三年半頃から、会社の業績は段々調子よくなるし、物質の面に面白い程の御恵を受ける様にならして頂きました。私は何事も徹底する方で、 御神業の御用も、当時はこんなにも教会の御用ばかりに没頭して居ていいんだろうかと、自分ながら聊か不安に思う位の私でありましたが、今ではハッキリ御神業の御用を一生懸命 やらして頂いて居る時は、社業の方も調子よく進むし、何かの関係で御用が面白くない時は、覿面に、社業の成績が狂うという事を体験させて頂きました。
私は、仕事の特殊性から、毎月の給料以外に、相当の予期しない収入がありますので、その場合その額の一割以上を、必ず御神前に奉謝金として御礼さして頂く事にして居ります が、そうするとその翌日は、又予期しない金が這入って来ると言う工合に、つぎつぎと御恵を授かるのであります。何か大きな交渉事に打ち当った場合は、先ず、最初に或額を御用さして頂き、光明如来様に只管御守護の御願いをして、後は一切お任せ申し上げていると、問題はスラスラと予想通りに行く場合と、半頃までは順調に進み、思い掛けない難関が現われて、二進も三進も行かない様になる事がありますが、それでも、これは何か神様の御都合だろうと何事も御任せしていると、最後の五分間で有利に展開して、問題が解決する場合と、色々過程は違いますが、一番良い様にして下さると覚らして戴き、本当に何の憂いも不安もない、神様の御守護の中の生活に、毎日感謝して戴いて居ります。この様な調子で、社の成績は昨年同期の一ヵ月分の成績は、大概半月で挙げて仕舞い、毎月昨年同期の二倍以上の成績を示す様になりました。この事実が他の信者の信仰上に大きな影響を与えるのでございましょう。
一例を挙げますと、去る一一月一九日、入信後、日なお浅いが、熱心に信仰して居られるKさんを、教会の用件で訪問致しましたところ、Kさんは、沈痛な面で、「実は私は、一〇万円の銀行の手形期日が、明日に迫って各方面を極力集金してるけれど、どうしても見込が立たないのです。若しそれが旨く行かぬと銀行の信用を失い、致命的打撃を受けるので」と、苦悶の事情を披瀝され、「どうしたらいいでしょう」との相談なのです。そこで、私は「それなら、先ず御守護御願いの御玉串料を御神前に御上げし、一心に光明如来様に御守護御願いをしなさい。その場合、金が出来ぬと俺が困るからという想念でなく、商売が旨く行かぬと、御神業の御用が出来なくなるとの想念が必要です」と、私自身の信念と体験を話さして頂きますと、Kさんは、早速教会に御参りし御願いされました。とどうでしょう。その翌日、K さんは、息もせきせき、挨拶も抜きにして、「Mさん、出来ました。一七万円出来ました」と言って、私の所に飛び込んで来ました。余り唐突なので、私も面喰いましたが、銀行の金は一〇万円のところが一七万円出来たと、声を震わしての感激の報告なのです。偉大とも厳粛とも形容の出来ないこの報告に、一瞬私は胸を打たれました。その後、Kさんは、銀行の信用も倍加し、四〇万円の金を無担保で引出す事にも成功して頂く等、事業は益々堅実に上昇の一途を辿らして頂いて居るとの事でございます。
事業面に於ける御守護の一例を、簡単ではございますが、茲に謹んで御報告さして頂きます。明主様有難うございました。
(昭和二七年二月五日)
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新潟県 I.T
御神力、御霊光、御神徳、奇蹟、何と表現してよいか、一般人間の常識では考えられない御神力をまざまざと写真上に見せて戴き、感激の涙に咽びながらの、信者の報告がありましたので発表させて頂きます。
撮影場所 新潟県中蒲原郡N町
報告者 K・M
撮影者 近所の理髪店の若者(素人写真家)
撮影月日 昭和二五年一〇月一七日
大光明如来様奉斎 昭和二五年五月一七日
写真の子供 K・F(五歳、K・ M三女)
一〇月一七日午後、ブラリと素人写真家である近所の理髪店の若者が、カメラを持って遊びに来たので、家の内外で家族と共に様々のポーズで写して頂き、最後に午後三時頃大光明如来様の御前で二女A(六歳)三女F(五歳)が二人並んで撮り、家族全員フィルムのある限り写して頂きました。二、三日して早朝に全部出来上ったと申し、理髪店の若者が持って来ました。生憎その朝は多忙の為によく見ず、夜になって電灯の下で一枚一枚丹念に見て居りました妻が初めて発見して驚きの声を上げた。それは最後に大光明如来様の御前で撮った一枚が、何と言う奇蹟! 大光明如来様の「来」の字の経の棒の下部は、前に坐って居る子供の頭の蔭になっており写らないのが当り前でありますが、それが五尺も離れて坐っているFの頭部を透過して写真にはっきりと写って居る。然も頭髪より一段と濃くなって居るのです。何しろ名刺版の半分より小さいと思われる写真機の版なので、良く見ないと判りません。早速引伸しを依頼し、出来上った写真を見ますと素人乍ら相当良く出来、小型の版よりは一段とハッキリ撮れて居ります。
まざまざと見させて戴きましたこの御神力、昭和二〇年入 信以来、数え上げる事も出来ない程の数々の御神徳を戴き、 現在家族は亡兄の遺児を含めて一三名、時々御浄化も戴きま すが御浄霊のお力により、病気の心配は全然なく勿論医療費 は一銭も必要無く、 風吹けば風を楽しみ雨降れば雨を楽しむ、 満ち足りた安心立命の生活を毎日送らせて戴いて居ります。 見えざる物は信ずべからずを信条として、説けど耳を傾け 様とせず、浄霊の効果には目を蔽い、信じようとするより何 とか信じまいと努力する頑迷固陋の村人達、吾が近親、友人 達も常識で考えられないこの事実、この現実には驚きの眼をみはり、漸次頑固な唯物思想も融けつつあり、御神書、『栄光』新聞等求める人も多くなりつつあります。
雪に明け雪に暮れる越路の冬、頑なに凍る人の心暖い春の陽光に積り積りし越路の雪の融けるが如くに唯物思想にコチコチ凍る人の心の融けるまで、この広大無辺な神の大愛に全人類が目覚める迄、光明輝く地上天国御建設のその日まで、救われたこの絶大なる御神徳と喜びを一人でも多くお知らせしたいと頑張って居ります。以上(K・M談)
一一月三日当S支部の定例常会の時、Kさんよりこの御神徳写真の報告がありましたのですが、Kさんが大光明如来様を奉斎させて戴きましたのが五月一七日であり、月は違いますが、写真撮りましたのが一〇月一七日であり、因縁と申しますか同じ一七日です。
然も、写真に写り居ります子供さんは、八月一九日に日本脳炎というよりは、脳炎、脳膜炎、疫痢の合併症状の様な猛烈な全身浄化を戴き、正に九死に一生と申しますか、死の一 歩手前、最後の一厘のところで浄霊によりお救い戴いて居るのです。
八月一九日当S支部へKさんより電話あり、「子供がお浄化戴き様子が変なので浄霊は続けておりますが、だんだん悪くなるので今度丈は自分では自信が無いから直ぐお願いしま す」との依頼なので、早速汽車で出張しました。S駅とN駅の間約一〇里、汽車にて一時間、N駅よりKさん宅まで、越後平野の真只中一直線の田圃道を一里、午後五時とは言えど サマータイムの焼けつく様な真夏の炎天下、自慢の健脚に物を言わせて二十七、八分で到着、早速大光明如来様御奉斎せる神の間に苦しむ病人の様子を家族に尋ねると「前日より頭 と腹が痛いと言い出し高熱が出て中々下らない。丁度多忙の時期なので浄霊も充分に出来なかったのですが急に悪くなったので電話でお願いしたのです」との事、私が到着する前に数回引きつけを起し毒素は脳へ流れて居ります。
全身火の様な熱で体温計で計って見ますと、四二度三分、特に後頭部に大変熱があり延髄付近はコチコチに固く棒の様です。腹部の熱も物凄く、全身浄化です。本人は既に意識なく時々うわ言を言って居ります。早速大光明如来様に御守護御願い申し上げ、午後六時頃より浄霊を始めました。頸部、延髄付近は浄霊を暫く続けますと柔かになりますが、他の部分を浄霊しておりますと又直ぐ固くなる。又溶かす、又固まる。同じ事を繰返す事何十度浄霊の手を休めると脈は衰える、唇の色は悪くなる、熱は一時下っても直ぐ又出る、益々浄化は強くなる、全然手を休める事は出来ない。今まで数多くの脳炎、疫痢、脳膜炎、肺炎、ジフテリヤ等浄霊させて戴いたがこんな猛烈なのは初めてだ。今までどんな病気にも絶対自信もあり、又大抵の熱なれば二、三十分から一時間位の浄霊で下るのだが既に三、四時間経過しているが全然下らない。ふと大浄化の様を想像して慄然とする。不断の浄霊が肝要なる事を沿々味わいさせて戴いた。愈々こうなれば治るまで徹宵浄霊の覚悟を決め、御守護をお念じつつ襲い来る蚊軍と戦い乍ら脳へ侵入して来る毒素を溶かす、集る、溶かす、集る、を繰返し乍ら夜も二時を廻る。家人は前夜の看護に疲れてグッスリ寝入って居る。依然熱は下らないどころか段々悪化す午前三時頃突然痙攣と引きつけを起す。不断なれば高熱には引きつけは付物なので、驚きもしないが、余りにも猛烈な全身浄化なので愈々駄目か!と最悪の場面がチラリと頭を掠める。急いで家人を起して家内総掛りで浄霊だ。脈は衰え、唇は紫色に変り口よりは桃色様の汚物を吐いて居る。正に死相だ、最後の五分間だ、ここが頑張り処と家人を励まし明主様に御守護御願い申し上げ懸命に浄霊する。脈は衰えたがまだ絶えぬ。生か死か? 約一時間。四時頃より目脂が少し出て来た。それと前後して脈も活気付いて来た。もう大丈夫だ!
緊張に血走った眼と眼を見合わせ緊張の表情も安堵の吐息と共に無言の笑が洩れた。
救われたのだ。絶大の御神力、人間全生涯の中にこれ以上の喜びがあるであろうか。魂に染入る様な喜びをこの御道に生きる者のみが知る幸福を又味わわせて戴きました。地平線上に昇る太陽を血走ったドロンとした眼で眺めた時、毎日眺めて居る太陽ではありますが「よく出て来てくれました」と暗夜に光明を仰ぐ気持でした。
その後も浄霊は連続し、熱もそれを峠に下り始め正午過ぎる頃には意識も恢復して口も喋れる様になり連続一八時間ブッ通しの浄霊に死を覚悟した大浄化も、私が午後一時頃帰る頃には殆んど心配ない様になり御神徳戴き一厘の差で助けて戴きました。現在では浄化前より頭も明晰となり、人一倍元気で毎日過させて戴き感謝の日を送って居ります。それから二ヵ月、記念にと思い大光明如来様の御前で撮りましたる写真が、御守護により救われましたる子供を通じて見えざる物は信ずべからずの人達も信じざるを得ないこの事実のお力を写真上にありありと見させて戴き、信者達も今更乍ら知る絶大なる御力により一段と信仰を深めさせて戴いて居ります。レントゲン写真の逆の理が常識を超越して行われ、これから進み行く霊写真科学部面の一ヒントとなるのではないかとも想像されます。毎日数多くの御神徳戴いて居ります中より特に今回の写真は救世教信徒又一般の人達にもお知らせ致したいと、ここに御報告申し上げる次第です。
(昭和二五年一〇月三〇日)
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福井県 K・H
明主様謹みて御報告申し上げます。
入信以来数限りなく戴きました御利益の内なるものを一つ御報告申し上げさせて頂きます。
私は昭和一七年満州に渡り満鉄に入社致しまして一九年の一ヵ月間の休暇を許され二ヵ年ぶりにて内地に帰って参りましたところ幸い当県へS先生がおいで下され、尊い御守様を戴いて入信させて頂き再び渡満致しました。
S先生より直々有難い御話を承り、又御浄霊を戴き、天にも登る心地致し、子供の時より何時も思い浮べた空想が実現したるごとく喜びました。
在満中、月の三分の二は夜間勤務の鉄道作業に従事し疲れて帰って見ますと部屋に五、六人から多い時には一〇人位は私の帰りを待って居りました。
耳の悪い人、日の悪い者、体毒で顔一面お化けの様な幼児、寝小便する子供等々種々様々な病人を片っぱしから驚くべき早さで治させて頂き、又ある時は生命危険の婦人病をたった 四日間の御浄霊にて治させて頂き、また嬉しかった事は近所に住んで居た憲兵軍曹がアミーバ赤痢で六年間苦しんで居りましたのをわずか六日間にて治させて頂き、本人は言うに及 ばず家族の方から大変喜ばれました。
その様に奇蹟が次々と起りますので、この話が非常に拡がり、益々忙しくなりましたが、昭和二〇年現地召集となり、皆様から惜しまれながら入隊しましたが三ヵ月後終戦、それよりシベリアに入り、幾度と無く所を変り、重労働に服し、ソ連最後の地「ナホトカ」の海岸地帯にて土木作業を続けて居りました。
丁度復員する昭和二一年の秋、何時もの様に二里の山道をアメリカ製十輪トラックにて、つかれた体をやっと車上の人となり、同胞ら三十数名乗込み、ソ連人の運転にてトラックは動き出しました。
ある急な山道にさしかかった時運転をあやまり、何丈余もあろう崖を人諸共コロコロと海中まで落ち、乗組員は全部立って居りましたので、御重箱を伏せた様な形になり、私も一瞬大きな鉄鎚でなぐられた感じがして首が胴の中へめり込んだ思いがした事だけ記憶して居ります。
それから暫くしてやっと吾に返りあたりを見廻して驚きました。
彼方にも此方にも血まみれになって死んで居るもの、唸ってたおれて居る者、さながら地獄そのままでした。
私は早速その場にて首を動かして見ました。首も動きます。今度は両手を動かして見ましたがこれも自由に動きます。「助かった自分は助かった鳴呼有難い」と心の中で喜びなが ら、がまがえるの様に顔中土だらけになって、やっと道端まで這い上って来る事が出来ました。
そして体中を見ましたが少しも怪我らしい怪我はありませんでした。何という不思議な事実もあるものぞと、今さらながら光明如来様の絶大なる御守護に感涙致した次第でございます。
今日まで御礼御報告がおくれました事を衷心より伏して御詫び申し上げます。何とぞ御許し下さいます様御願い致します。
今後尚一層御聖業に働かせて頂きます事を御誓い申し、末長く御使い下さいます様御願い致し筆を止めさせて頂きます。
(昭和二七年一一月一〇日)