一般に関する奇蹟 08

佐賀県 K・S
明主様限りなき日々の御守護真に有難うございます。本日その一端を謹みて御報告申し上げして戴きます。

私の妻Mでございますが、私の所へまいりました当時は背中が丸くかがんで居りましたが、御道に入らして戴いてより毎日「ゲップ」の御浄化により日一日と少しずつ伸して戴き、 今日では殆んど目立たないまでに真直にさして戴く事が出来ました。その間妊娠中は必ず胃痙攣を起し随分苦しんだものでございますが、それもすっかり無くさして戴きました。可成りひどい御浄化も無事起させて戴き今日に至って居ります。

私が昨年一一月箱根美術館御奉仕のお許しを戴きお使い賜わって居ります折、大浄化を戴き絶大なる御守護を賜わりましたが、妻もその間御浄化を戴き、勿体なくも一人ならず二人までも新しい生命を賜わり、有難さに只々感泣致すのみでございます。妻の出産予定は昨年一一月初めでございましたが、一向にその様な気配もなくのびのびとなり、私が箱根へ出発致します一一月二二日も何事もなく過ぎ、一二月二日となりました。朝妻は夜具を干すために裏の干場に出て竿にかけ様としました(干場は崖の上になって居ります)ところ、突然縄が切れてアッと言う間に九尺ばかりの崖下の溝へ転落しました。しかも丁度そこには流し用のカメの壊れたのがパックリロを開けて居ります。その上に真逆様に落ちたのでございます。

母や子供が飛び出して行ってみますと、妻は頭から血だらけになり乍らその場で自分で御浄霊さして戴いておりました。胸まで血だらけになって居りましたが、傷口は前額部を鍵型に一〇糎程で相当深く切れております。母が直ぐに御浄霊さして戴きましたが、子供が側で「ばあちゃん、力を入れたらいかんよ」と叫んで居ります。血は約五分位で止り、歩いて 家に帰り床につきました。弟はA町の支部に御出張お願いに飛んでゆき、実にてんやわんやの大騒ぎとなりました。やがて夜となりますと出産予定日を過ぎる事一ヵ月に及んで居り ましたお腹が急に痛み出し、程なく、しかも軽々と殊更肥え太った立派な男の児を安産させて戴きました。若しも御道に入らして戴いて居なかったなら今頃はどうなって居た事かと 思うとき、ゾッと膚に栗を生じます。実に明主様の御神徳の如何ばかり宏大無辺にあらせられます事か、お讃え申し上げる言葉も存じません。唯今では傷口もかすかにならせて戴き、 子供も日に日にすくすくと成長させて戴いて居ります。まことに拙き筆にて感激の万分の一も申し上げる事が出来ません。

明主様まことに有難うございました。この上共に御守護の 下一日も早く御聖業の御一端にお使い賜わります様伏して御願申し上げます。

(昭和二七年一一月一七日)

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岐阜県 M・S
日夜限りない御守護を戴きまして有難うございます。厚く御礼申し上げます。昨夕以来降りしきる雨は今朝九時になっても止む気配もなく、激しい雨音を耳にし乍ら新なる感謝の涙に咽びつつ、雨漏りに御守護を戴きました事を拙なき筆にて御礼御報告させて戴きます。

昭和二五年九月、この有難いお道に入らせて戴き、一一月M町の会長先生の御手より、有難い御守様を拝受致しまして以来、数え切れない程の病の浄化に御守護を頂きまして、心から感謝申し上げております。元々経済的の御浄化は厳しく、屋根瓦の破損を繕う余裕なぞ全然ございませず、少々の雨にもそれ馬穴よ、鍋よと大さわぎで、とりわけ夜中の俄雨には子供を起すも可哀相と、主人と二人で子供を布団にくるんだまま担荷を運ぶ様にして仏壇の間へ避難させたのでございます。金盥に当る雨漏りの音のみじめさ、いらだたしさは、御経験のない方にはお分りにならないと思いますが、侘しいものでございます。時には、余りに激しい雨漏りにたまりかねた主人が、雨中を屋根に上りすべる瓦を踏みしめて繕った事も幾度かございました。しかし、その場所はどうやらなおりましても他の瓦を踏み割ったりずらかしたりしては、結局場所が変るだけで雨漏りは依然として止まないのでございました。五月下旬の頃と思います。夜中にトタン廂をたたくはげしい雨音にフッと目がさめました。鳴呼、「また雨か」と暗い心でじっと耳をすませますと何時もの様に、ポツポツ、ポツポツと天井裏でいやな音が聞えて参ります。もうすぐ冷たいものが落ちてくるだろう、仕方がない、主人を起してまた子供達を運ばねばと思い乍ら起上がろうとしました。その時スーッと頭に浮びました数行の文字、それは、いつか『栄光』紙上で拝見しました神戸市のN様の御報告にある御神徳の数々、雨漏りまで止めて戴くとの記事でございました。明主様、大光明如来様、私も雨漏りは悲しゅうございます。あのお方の様にお救い下さいませ。いまだ主人をもこの御道に引入れる事もなし得ない罪深い私が、このような虫のよい御無理を申し上げては、申訳ないのでございますが、何卒何卒お願い致します。奇蹟をおあたえ下さいませ、お救い下さいませ、と、誠にもったいない話でございましたが床の中でお念じ申し上げ乍ら、今に今に落ちてくるであろう冷たいものがと、じっと天井をにらんで居たのでございます。ポツポツと音は相変らず聞えています。

けれども当然落ちなければならないはずの冷たいものは、雨が止むまでついに一滴も落ちてこないのでございました。あんなにはげしく聞えていた天井裏の雨水は一体どこへどうなったのでございましょう。その夜限りどんなに大きな降雨にも、子供を担荷のように運ぶ必要はなくなりました。そうして、長い長い梅雨も無事に過させて戴き、やがて程なく梅雨も明けようとするあの晩、何時もの様に仏壇に向い善言讃詞を奏げようとしました処、位牌の順位が乱れて居ます。人の仕業と直感しましたので、位牌の位置について御教えを敷きました通り諄々と主人に話したのでございます。ところが一向信じませぬのみか 「家は昔からこの通りだ、お前一人間違った事をするな」と非常に立腹するのでございます。私も余り情なくカッとしましたが、いやいやA先生が言い聞かせて下さったのはこの事だおこってはいけない、怒ってはいけない、と、懸命にこらえて逆わず、位牌はそのままにして御祈りの後で、「御承知の通りでございます。さぞ御不快の御方もございましょう。どうぞ主人に一日も早くこの有難いお道を夢でなりと知らせてやって下さいませ」と心でしみじみと御先祖様にお詫びのお願いをさしていただいたのでございます。そして何時の間に眠ったのでございましょう。母ちゃん冷たい、との子供の声にハッととび起きました。何時の間にか降り出した雨は天井の板目を通して蚊帳を濡らし、子供の夜着はもうかなりぐっしょり濡れて居ります。電光の様に頭にひらめいた事、それは宵にそのままにしておいた位牌でございます。蚊帳も夜具もそのままで仏前に飛んで行き「申訳ございませんでした。御先祖様たとえ主人がどの様に言いましょうとも正しい事は堂々と正すべきを、私の意気地のない故に御不快をおかけ致しましてすみません。どうぞおゆるし下さいませ」と詫びながら、元の位置に順序を正したのでございます。そして一生懸命善言讃詞を奉唱したのでございます。奇蹟は戴けました。あれ程の雨漏りも次第に細まり、果は一滴も落ちなくなったのでございます。この事実を目の辺り見て、流石の主人も二度と位牌の位置は乱さなくなりました。あの夜から今月まで七ヵ月余り、いかなる大雨にも馬穴の必要は更になく、只今も戸外に降りしきる冷たい雨音を耳にし乍ら家の中は温く、広大無辺の大慈悲に新なる感謝の涙流るるのみでございます。明主様有難うございました。

有難うございました。どうぞ何時までも何時までもお導き 下さいませ。

(昭和二六年一二月二五日)

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岐阜県 K・N
二月一二日の事でした。私の家へ二台のトラックが来ました。兄が新運搬に頼まれて来たのです。その時兄は私に一人では手が廻らぬから奥へ行って薪を積んで来るように命じました。五寸程の降雪でうすら寒い朝でした。二〇町程の林道の急坂路をスリップしながら上って漸く目的地に到着し、汗みどろになって運転手達と自動車一ぱいの薪を積んでロープを締め「実に立派な荷物だね」などと笑話を言ったのでしたが、私は余り沢山積み過ぎたのではないかと心配しましたが、運転手達は一向平気ではや出発の準備を始めました。私は知らぬながらもトラックの各所を見廻しておりましたが、エンジンが唸り始めたので運転手と助手の間に腰をおろしました。行く手はゴーゴーと飛沫をあげて流れる谷川で右は山という急勾配の下り坂を物の二、三分も走って行った時の事でした。急に運転手がアッと叫びました途端に「駄目だブレーキが切れた」と言いました。次いで急ブレーキを引いて見たが駄目らしいのです。自動車は益々加速度がついて来るのです。

私は心の中で、アア光明如来様どうぞ私共を……私は必死で手を合わせてしまいました。だが依然として自動車は物凄い勢いで走ってとまりません。運転手はもう駄目だ、ひっくり返して止めようと思ったのでしょう、急に右の山へぶっつけてしまいました。アッという間もあらばこそ自動車は谷川の中へひっくり返ってしまいました。途中の私達には後側のガラス が砕けてガチャガチャととび散るやらペンチ、プライヤ、スパナ等道具類がとび出して来るやら、目もあけられない程でおまけに腰掛が外れて体の激しい動揺に目も眩む程でした。漸く身体が落着いてみると車の油や、コールタールがタラタラと頭上へ降ってくるので、アア仰向きになったのだなあと初めて意識したのが可笑しい位でした。途端に私は運転手達の身の上を心配し思わずドキッとして見廻すと、私の足下に運転手が腹這いになっているのです。「どうだね、大丈夫ですか」と言うと「うん大丈夫だ」私はホッとしましたが、アア自分達は光明如来様の御利益で助かった、有難いと思う心が一ぱいになって来て、思わず「運転手さん僕は光明如来様のお守を持っていたから大丈夫だったんだよ」と言うと運転手さんは暫く沈黙していたが「オヤ助手公は」と言うと突然「光明如来様どころじゃない、オーイオーイ」と言って呼びました。私もフト心配になってしまいました。すると助手は道路上に靴を片方持って立っているのでした。「何うだね、どうして出て来たんだ」と聞く二人の言葉の終らぬ間に彼は「僕はねぇ、車体が横倒しになったトタンにドアーが開いて又一廻転する間にこぼれ落ちたんだ」と呼吸をはずませて言ったので皆一時にドッと笑ってしまいました。やはり それは助かった喜びから漏れた言葉なのでした。

私は昭和二一年の七月三〇日に揖斐郡T村のY先生のお家へお参りして、愛知県一宮市のW先生よりお光を拝受したのですが、それ以来Y先生および私の村(本巣郡S村)のH先生の御情深い御指導をうけておりまして、光明如来様の力徳と御慈悲のお話をお聞きしていたのですが、この度の様にハッキリと御利益を頂き御救いにあってはもう何も疑うことも出来なくなり、以来本当にありがたく感謝の気持一ぱいでお参りを続けて、先生から種々お話を伺うのが楽しみになり日々の家業も面白く送っております。私は何時も思うに自分はどうしてもっと早くこの道を求めなかったのか、又人間はどうしてこんな立派な御教えを御利益を御力徳を信じられないのかと他の皆様の事が思いやられます。謹んで御礼申し上げます。

(昭和二四年四月八日)

(世界救世教奇蹟集 昭和二十八年九月十日)