一般に関する奇蹟 01

佐賀県 Y.M
謹んで御守護の御礼を申し上げさせて戴きます。去る六月三〇日午前一一時過ぎの事でございます。甲高い悲痛な声で近所の人達が私の名を呼びますので縁側へ出て見ますと、子供が、水死したとの事、素足の儘飛下りて行って見ますと、近所のSさんの三歳になる娘Fさんが流れ川に落込んで参っているのを祖母さんが引上げ、道辺で一生懸命蘇生させ様と打振ってみたが駄目ですと、近隣の人達数名に取囲まれ乍ら心配していられます。私の娘Aも殆んど私と同時に現場に駆付けて参りました。皆「もう駄目です。死んでしまっている。可哀相な事をした」と口々に言って居りました。余り強く振った為か肛門から排便して居り、体温は全くなく、唇は紫色に変じ、脈も無論ありません。

これはもういけないと思いましたが、娘のAは兎も角早く御願いする事です、と、合掌して直ちに御浄霊させて戴きました。御浄霊は一人でさせて戴くものと常々御導き頂いて居ましたが、無意識の内に私も御浄霊させて戴いて居りました。凡そ一〇分も経った頃でござ いましょうか、かすかに一回心臓の鼓動が打った様でございました。暫くすると三回続いて鼓動致します。また暫くして今度はワーンと泣き出し、心臓は確実に動き続ける様になりました。そして次第に血色を取戻して参りました。その時の嬉しさ、有難さは何と申し上げてよいやら、筆にも言葉にも 申し述べられません。眼頭がジーンと熱くなって参りました。「よかったよかった」と皆が自分の子が救われたかの様に喜び「貴方々が来て下さらなかったら恐らくFちゃんは甦って居ませんよ」と口々に感謝していられました。野良に仕事に出て留守だった両親は急報に接し「とうとう殺してしまった」と取りみだし、涙乍らに息もせき切って帰って来られましたが、この様子を見て二度吃驚でございました。尚、祖母さんは「孫を自分の監督不行届きの為殺したのだから、蘇生しなかったら嫁に申訳ないから自決を覚悟していた」と語られました。この奇蹟で貴い二人の命を救っていただきました。

常々私達一家が御道に入らして戴いているのを「真宗の家に生まれ乍ら外道に迷う」と笑っていられるのですが、この度だけは流石に涙を流して感謝して下さいました。

この奇蹟は、Fちゃんに対する御守護に止まるものではなく、ややもすれば薄れ勝な私達の信仰をより深くして下さる為の神様の大慈悲であり、奇蹟だったと一家御神前に額ずき御礼を申し上げさせて戴きました。只今ではこの奇蹟が村の話題として賑っている様でございます。

明主様御守護誠に有難うございました。重ねて厚く御礼申 し上げます。

(昭和二七年八月二〇日)

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宮崎県 N.A
本年一〇月二九日午後七時頃の出来事で、支部から帰宅の 途中、若いアベックと行合い、その会話の端が聞くともなく耳に残り、どうも心配になり、その足で市内都島公園に行き、 草原を見ますと、黒服学生風の青年が俯し苦しんでいる様子なのでございます。

最初は酔倒れかと思い、日暮の事で早く帰宅するように話しましたが、黙っていますから、触れてみますと、既に冷たくなっていますが、上半身はひどい痙攣を起しています。抱き起そうとしますと、クタクタになっていて私一人ではどうする事も出来ない状態でした。服のポケットから二冊の本がのぞいていますから、何気なく見ますと、『思想』と『死に到る病』という題字でした。アッ服毒だ! と直感しましたので、上向きに転じて上頭部と腹部を御浄霊さして戴き併せて祝詞を奏上さして戴きました。間もなく嘔吐を始め大量に二回吐き出し上半身を少し動かし、手足も少し動かせるようになり、上衣のポケットからアドルム一箱とカルモチン二箱を出しました。空箱です。確にこれをのんでいます。再びガクリと力抜けた様子なので、御守護を念じつつ、一心に御浄霊さして戴きますと、約一五分位でまた大量に吐き出しました。声も出るようになったらしい。市内H町○○○と言うI高等学校二年生であることが聞き取れました。

アドルム一〇粒とカルモチン六〇粒をのんでいるのです。一応、支部に連れて行こうと思いますが、体は大きくグニャグニャなので支部に走り帰り、Yさんを呼んで来て二人で支部に漸く連れ込み、約二時間御浄霊をさして戴きますと、続け様に黄色の液を吐き続け、洗面器に半分位になり、話も少々出来るようになって参りました。

事件が事件なので警察署に届け市内の日赤病院から医師が来て、御浄霊の結果であることは知らずに、吐いたようですから大丈夫助かりますと、内服薬を置いてかえりました。その中に母親と受持の先生とが駆けつけました。もう何でも話せます。母親は薬をのんだらと医者の置いて行ったのを勧め、手に持ったままオドオドして居ります。私は「もうのまなくてもよいでしょう、これまでになったから見合せたら」と申しますと「そう致しましょう」とそのままに済みました。

翌三〇日には元気になり一人で歩いて帰宅しました。母親の喜びに私もつり込まれました。一一月三日には学校の文化祭に、演劇部員として自分も出演するなど大元気になりまし た。本人もその家族も大喜びなのは勿論ですが、私には殊更感銘深いものがございます。 偉大なる御教の力を現実に見せて戴き、一層信仰を深めさして戴くことが出来ました。

この上は明主様の恩恵に浴し、尚一層この御道に進まさせて頂く覚悟でございます。

明主様、誠に有難うございます。

(昭和二六年三月二一日)

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岡山県 M.K
思い浮べれば人事の様にも思われ、又は夢の様にも思われます。私は二五年前に叔母の世話にて何も知らずにこちらへ嫁いで参りましたが、来ました翌日から主人は大酒を飲んで帰るのです。私はびっくりして泣いておりましたら、姑は私をなだめて下さいましたが、度々その様な事があるので、どうしたらよいものかと思案に暮れつつ日を送っておりました。 私の嫁入後二ヶ月にて実家の母は亡くなり、後には幼い弟が一人残り、私は途方に暮れましたが、いよいよ自分は運が悪いのだから、辛抱するより外に仕方がないとあきらめていましたが、度々飲んでは帰り、飲んでは帰り致し、遂に三ヵ年は過ぎ、「子供の無い者はいらん、帰れ」と申しますので、とうとう、母なき家に帰りました。がしかし、近所や親戚の人が度々来られ、すすめられるままに又嫁入先へ帰りましたが、こうしたことは二度や三度や四度ではありませんでした。遂には、それが縁のつなぎか妊娠し、昭和四年に女児を生みました。それから三年後に次女が生まれ、二人の子供の親となって居りましたが悪運はどこ迄続くか、昭和七年ふとした風邪が原因となり一〇月二〇日長女が死亡し、続いて一〇日後次女も又亡くなりました。やっとのことで、二児を恵まれた私は、僅か一〇日間に二人もなくしてしまったのでした。その時の私の心境、それは申すまでもございませんが、主人は以前にも増して酒を飲み、姑からは「お前が悪いから主人が仕事もせず酒ばかり飲むのだ」と言われ、私は「本当にこの世の中には神も仏もないのだろうか? 私のこの苦しみを知って下さる人は一人も無い・・・・・・」とつくづく思いました。

その後、間もなく姑は心臓が悪くなり、三ヵ年間病み、遂に死亡致しました。私は淋しさの余り親戚より二歳になる女児をもらって帰りました。舅は常に胃腸が弱く、あらゆる医療を施してもよくならず遂に中風となり、七年間苦しみ続けそして亡くなりました。

主人は年を取るに従い、益々酒癖は悪くなり、酒を飲んで帰っては私や子供をいじめ、くどくど言いながら又飲み、空いた酒瓶を持って私をたたき、外へ飛び出せば、追いかけて来る。酒が無くなれば「買って来い」と申しますが、近所に酒屋がないものですから行かないと、又酒を買って来ると言っては出て行きます。そして、二、三日すると、ブラリとボケた顔をして家に帰って来て寝るのです。その時はとても頭が悪いらしく、起きることが出来ないのです。「アア儂が悪かった。沢山の金を使い困ったことをした」とさも悔しそうに悲観しているのです。ですから私は腹が立っても怒る訳にもゆかず、「お金を使ったのは又働けばもどる。過ちをしていないから、まあ良いが」と慰めておりました。二、三日寝ると頭がハッキリするのか、真人間に返りやっと仕事をするかと思えば、又酒を飲みに行きます。お金が出来れば又虫を起すと言う風に、繰り返し繰り返し二六年も続きました。時によれば槍を出して納屋に入り、金剛磨でゴシゴシと先をとぎ、私を刺してやるとか、人を殺してやるとか申すのです。私もどうせ生き甲斐の無い命なら、汽車道かそれとも海の中へでも…………と思ったことも一再ならずありました。

併し昔から良い後は悪い、悪い後は良いと言う諺があるから、まあまあ頑張って生きておりさえすれば又良いことがあるかも知れないと、今日の日まで、生きて参りました。

丁度去年の秋の事でした。稲をこいでおりました処へ下町のNさんがお見えになり、そして色々と有難い御道の御話をして下さいました。「手を翳せば病気が治る」とか、「人間の 性質までも変る」とか話して下さるので、私は「そうですか」と聞いてはおりましたものの、そんな事があるものかと半分疑っておりました。その後、秋の取入れも済み、やっと 一息と思っておりましたら、又主人が虫を起し、沢山の金を使い、夜遅く自動車で帰り、家の前の細道まで乗り込みましたものですから、自動車は半分川へ落ちてしまいました。併 主人は知らぬ顔で又家の中で酒を飲み、そして頭から蒲団をかぶり足だけ出して寝てしまいました。後で自動車は近所の御方の御世話になり、雨の中をやっと引上げて頂きました。翌朝は例の如く頭が痛くて起きられぬと申します。そして先日のNさんの御話を思い出したのか、「Nさんへ頼みに行って呉れ」と申します。 私は「藺草を割っておるから晩に行く」と申しましたが「今すぐ行って呉れ」と申しますので早速行きました。するとNさんは御浄化でお休みになっておられましたが、「晩の七時頃に行ける様でしたら行かせて頂きます」と言って下さいました。併し晩の七時が来ましてもお見えになりませんでした。すると主人は「来て貰えば気の毒だから儂が行く」と頭を鉢巻でしばってNさんへ出かけました。出て行きましたもののどんな様子かと心配して居りましたが、しばらくすると「A先生に御浄霊して頂いた」と言ってケロリとして帰って参りました。そうして今までの大酒は狐の仕業であることが判りました。

今にして思いますとNさんが御話を聞かせて下さったのが私共の救われる第一歩でした。翌日は教会に御参りし、先生より御浄霊して頂き、それより大酒飲みも止み、私達もいじめなくなり、打って変り人間らしくなりました。

昭和二六年一月主人が入信、二月には私も入信させて頂き、三月一一日には有難い大光明如来様を御迎えさせて頂きました。神や仏に手を合わせた事の無い主人が毎朝毎晩、拝まねば食事もしない様になり、毎日人助けに歩かせて頂く様にな り、やがて一年になろうとしております。近所の方々は人間も変れば変るものだと、あきれております。

私と致しましても、結婚以来二五年間苦しみ悩み続けた生話はここに終止符をうち、待ちに待った幸福が訪れたのです。 私の喜び、それは何にたとえることも出来ません。唯々嬉し 涙にむせぶのみでございます。

現在では至らぬながらも主人は人助けに歩かせて頂き、私は自然栽培をさせて頂き、お道の御話に明け暮れする楽しい毎日でございます。明主様有難うございました。救って頂きましたうれしさの余り、乱筆をも顧みませずありのままをここに御報告申し上げ、御礼申し上げます。 最後にY先生はじめ諸先生、N様、皆様有難うございました。

(昭和二七年一 月一六日)

(世界救世教奇蹟集 昭和二十八年九月十日)