原子爆弾に関するもの 01

熊本県 E.M
当時出張さして戴きました模様を御報告させて戴きます。

第一回日のE・Tさん危篤の電報で、Tさんの父母が病院に行かれたのでございますが、陸軍病院でも余り重態の為、手当の施し様もなく、絶体絶命の断定を下されたのでございました。Tさんのお母さんは、既に御道で御蔭を戴かれて居られましたので「この上はどんな方法をやってもよいでしょうか」と聞き許可を受け、当時福岡県〇町においでになったK先生に、御出張御浄霊の御願いの為、お父さんがO町に帰って来られたのでございました。そこに二度目の危篤の電報が参りました。

先生は「兎も角早速行って見る様に」と仰言いましたので、Tさんのお姉さんと弟、私の三人でその日に出発させて戴きました。

島根県浜田陸軍病院の門を潜ったのが、九月二日午前九時、その時は既に三度目の至急官報打電後で、陸軍病院より「三度目の電報発信は死を報ずるのと同じ事だ」と聞かされて居 りました。病態は酸素吸入を施し、全身硬直、爪の先まで紫色になり、意識もかすかな程度で、この時の状態は何と申し上げましたらよいものでございましょうか。

これは到底助かりはしないと思われました。病院としても、臨終を予期し、白衣の医者看護婦が十数名、寝台を取巻きなす術もなく、脈を取り乍ら只病人の刻々と死の姿に変り行く状態を茫然と眺めて居るばかりでございました。たまりかねたTさんのお姉さんは、「先生、何とかして下さい、御願いします」と私の手に泣き縋られるのでございます。この時私は、ふと、神様がこういう遠い所まで、わざわざ死ぬる姿を見せる為に、よこされる筈はないと思われて来たのでございます。そして明主様に御守護を御願い申し上げて居ります内に、とても力強く勇気が出て参りました。

院長に向い「もう駄目なんですか」と訊ねますと、院長「もう仕方がないでしょう」と申しますので、私「では何をやってもいいんですか」院長「何をやっても良いです」私「それでは私の思う通りさして下さい」と承諾を得て、即座に酸素吸入、氷冷を取除き、御浄霊をさして戴きました。五分、一〇分と段々硬直状態、呼吸、顔色等変って行くのでした。三〇分も経ったでしょうか。医者は一人減り二人減り、ほっとして気付いた時は、白衣の姿は一人も見当りませんでした。

それからは注射を断わり薬はその都度捨て、氷は魔法ビンに詰め、私共の食用にし、食事は普通食に変え(病院の反対により、手続きに三日後れましたので、その間私共の食料を病人に廻しました) 元気の恢復を計ったのでございました。それより猛烈な下痢、火傷の個所よりたくさんな排膿、部分的痛苦はありましたものの、御浄霊毎に良くさして戴き、一週間位の内に御不浄にも付添って行ける様になり、寝台の上で遊ぶ事も出来る様になりましたので、心にはかかりますものの先生に一週間だけお暇を頂いて来て居りましたので、後は姉さん一人に頼み、八日目にO町に帰る事に致しました。処が次の駅に行く内に汽車の切符を紛失致しましたので、これはこの儘御浄霊を続けよとの御気付の様にも感じさせて頂きましたが、ともあれ帰って見ますと「その儘御浄霊を続ける様に」との電報と行違いになって居りましたので、早速引返して御浄霊を続けさして頂きました。その当時食料は門外から色々運び、元気の恢復を計らして頂いて居りました。二、三日して私外出の留守中、病院から苦情が出て居りました。当時病院内では「E・T少尉が助った」というので、一大センセーションを起して居りました。院長の部屋に行って見ますと、威猛高に、院長「Eと言うんだね。E・T少尉の親戚か」私「親戚ではありません」院長「誰の許しを得てこの病院に入って来た」と言うのです。私「貴方が許されなければ入って来られない所ではありませんか。この通り門鑑も持って出入りして居ります」私は腹が立ってたまりませんでした。「何だ何度も会っているし、何をやってもよいと言ったではないか」と思いました。院長「絶対安静を言渡してある病人を動かしたり、胸の辺をおさえたりしているのお前か」と言うのです。私「おさえはしないですが、やっているのは私です」院長「小娘のくせにけしからん。田舎に帰って自分で治したとでも言うな、あの病人には貴重な薬を使用して治したのだ」と申しますので「ヘン、自分でサジを投げていながら。それからは注射一本してはいないのだ」と思うものですから、思わず苦笑しておりますと、院長「ここを何処と思っとる」私「ここは陸軍病院でしょう。私も泥坊でない限り、垣根越しでは入って参りません。貴方からあの病人はお預りしたではありませんか」と申します内に、傍に来て居られたTさんのお母さんが、私の袖を引き何かと院長の御機嫌を取られたのでその場は事なく済みました。病室に帰り、「これはいけない、ここまでよくさして頂いたのに、病院の面目の為、私達の手から病人を取る考えだ」と思われました。病院の方はお母さん姉さんにお頼みし、私はこれ以上居っては医者の心証を悪くする丈と思い、O町に帰って参りました。一方病院の方はTさんのお父さんが行かれ、裏面交渉をなし、退院許可書は獲得されたのでした。

院長から「可哀相だが、破傷風に用いたモヒ剤多量の為、体は使える様にはならない。頭部の脱毛状態も再び毛は生えない」と言われた言葉もそこのけ、今は黒々とした毛髪が揃い、手広い事業の若主人として多忙な日々を過して居られます。明主様愚かな私にもこうした尊くも偉大なる体験を賜わり、救世の御聖業に御使い頂きます身に余る幸福を、深く深く感謝申し上げさして頂きますと共に、今後共尚一層御使い頂きます様御念じ申し上げさして頂きます。

明主様有難うございました。

(昭和二七年四月三〇日)

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福岡県 E・T
私は昭和二〇年八月六日午前八時過ぎのあの広島に炸裂せる原子爆弾により、中心地より五〇〇米位離れた練兵場の真只中で爆風にうちのめされ、同時に被服に発火し、夢中で転げ廻り消火せるも、露出部に火傷を負いました。当時は見習士官で原隊は島根県浜田にありましたので、部隊前の浜田陸軍病院に入院を命ぜられたのであります(入院八月一二日)。以下は父の手記、当時の電報、親戚の言葉、自分の朧気乍らの記憶等を辿り御報告申し上げます。

病院内では私が一番重体だったそうで、一人一室の部屋をあたえられ入口には赤い玉(重病人の標)がつけられ、従って家からの付添も許されました。数日してから火傷より破傷風を起し体は硬直状態となり、軍医から絶対安静を命ぜられました。無論当時最高の権威を誇った日本軍医術の最善は尽くされたものと思います。その後三回に亘り、病院より至急官報による危篤電報が打電されておったのでした。

父の手記
「二九日午後主任軍医に御礼を述べ、経過と将来の見込を聞く。主任軍医曰く「現在の国内にては、手当の方法もなく、一〇人が一〇人、一〇〇人が一〇〇人死去せるをもって、その覚悟ありたし。尚E少尉は破傷風の恢復に重点をおき、高価な又民間では殆んど求められぬ血清薬を多量に注射すると共に、その硬直治まらざる為、モルヒネをこれ又多量に注射せる故、破傷風は今少し残っているのみなれど、ウラニウム原子浸透に対しては何とも致し方なし、又仮に全快したとしても多量のモルヒネの為モヒ中毒患者となるは必然なれば数年は父母の足手纏いとなるを覚悟せられたし」E「それでは此方の考える方法にて看護して宜しや」と問えば、主任軍医「宜しい。出来るだけ充分看護してやってくれ」との言に、愈々御浄霊のみに御縋りする外なしと妻とも意見一致、当時福岡県教導所のK先生に御願いの為、三〇日午前七時一三分浜田を出発す」

忘れも致しません九月二日、この日は自分でも難かしいと思われる位でした。後で聞きますと、呼吸困難で酸素吸入をし、顔も手も紫色になり、病院長始め、看護婦長、外科医官十数名が来て居りました。病院でも愈々駄目だと思ったのでしょう。それからどの位の時間が経ったでしょうか。折も折、遠路九州O町より、K先生の御指示により出張下されたE・M先生が到着され、早速御浄霊を戴きこれを起点にお蔭で然病態は好転していったのです。鳴呼私は当然亡き命を新しく生まれさして戴いたのであります。

明主様真に有難うございました。こうして過ぎし日の御報告をさして戴く内にお恥ずかしい次第ですが、今更乍ら崇高なる御恵みを賜わり、私事のみに過して参りました事を心か御詫び申し上げます。

それまで日に数十回の硬直も御浄霊の度毎に日増に柔らぎ、退院帰省後三日目より御教修を戴き、はや六年半一回の寝つく事もなく妻も迎え元気で仕事をさして頂いて居ります。尚私のノートにより、病院で大変重要視して居った様に思われました白血球の状態等を左記へ御報告申し上げます。

八月 五日 体重五一・三〇〇kg
八月 六日 広島幼年学校運動場引率中原子爆弾で負傷
八月 八日 トラックにて宇品に到着収容さる。
八月十二日 浜田陸軍病院に入院す。
八月十三日 白血球一六〇〇
九月 二日 本日より御浄霊を戴く。
九月 四日 白血球六〇〇〇
九月 五日 白血球八〇〇〇
九月一三日 本日より歩いて便所に行く。
九月一五日 体重四〇kg
九月一九日 本日より普通食となる。但しこれは公式の許しであって、御浄霊を戴く事になってより普通食とす。
一〇月 五日 体重四一・二kg
一〇月一三日 白血球八六〇〇、本日入浴許可あり。
一〇月二〇日 体重四四kg
一〇月二三日 退院
一一月 八日 白血球七二〇〇、佐賀県立病院にて計る。
一月 九日 体重五〇kg

普通白血球は六〇〇〇一七〇〇〇だそうで、広島から来た者でこの様にぐんぐん増えて行った者は珍しいとの事。途中八〇〇〇を超えた時など病院では驚いて、手を出そうとしたのをE・M先生は断乎とはねつけられ、御浄霊でおしとおさして戴きました。病院内で歩行出来た者でせいぜい三〇〇〇位だとの事でありました。現在は体重五八kgであります。

以上極めて簡略ではありますが、大要御報告さして戴きます。有難うございました。

(昭和二七年四月三〇日)

(世界救世教奇蹟集 昭和二十八年九月十日)