岡田茂吉

栄光

慢心取り違い

大本教の御筆先には慢心取り違いを一番戒めているが、全く其通りである。だから此言葉を頭に入れて、信仰者をよく観ると、思い当る点が寔に多いのである。それに就てよく斯ういう事がある。浄霊の場合馴れない最初の内は、自分にはそんな人の病気を治すなどの...
栄光

書に就て

いつも独得な観察と、軽快な文章を以て、本紙を賑わしている江川君が今度書と宗教に就てという感想文をかいたのを見て、私もそれに刺戟され思いついたままをかいてみよう。元来、書とは昔からよく言われている通り、其人の人格を筆によって表現するものである...
栄光

一の世界

抑々、現代文明を検討して見る時、その構成は唯物科学が基本であることは言うまでもないが、今それに就て詳しくかいてみよう。それに就て先ず知っておかなければならない事は、大宇宙の構成である。といっても人間に直接関係のない事は省き重要な点だけをかい...
栄光

栄光111~120号

■栄光百十一号 昭和二十六年七月四日・一の世界・書に就て・慢心取り違い・之が奇蹟でなくて何であろう・医学の盲点 二つの反対の例■栄光百十二号 昭和二十六年七月十一日・天国は美の世界・病気礼讃の弁・光が見える■栄光百十三号 昭和二十六年七月十...
栄光

唯物療法との比較

本教が常に唱える処の、唯物療法では駄目で、どうしても霊的療法でなくては、本当に治らないという事の実例として、左記のおかげばなしは、よくそれを物語っている。それは尿が閉止した病気で、其苦しみは大変なもので、原因は膀胱から尿道へ通じる口元に、血...
栄光

最後の審判とは

最後の審判とは、キリストによって発せられた言葉であるが、それは如何なる時期に、如何なる形によって表われるかという事で、キリストはそれに就て全然言われなかったから、今以て謎とされているのである。特に基督者は長い間此謎を解こうとしていたのは勿論...
栄光

無信仰者シャッポを脱ぐ

凡そ世の中をみると、大部分は無信仰者であるが、之も無理はない。明ら様に言えば、本当に心から信仰したいような宗教は殆んど見当らないからである。というのは奇蹟というものが、目立ってないからである。だから、無信仰者を非難する事は無理である。誰しも...
栄光

自分の悪に勝て

私は、此前悪に勝つという論文をかいたが、之は悪人に負けてはならないという意味であったが今度は他人事ではなく、御自分の腹の中に居る悪に勝たなくてはならないという事をかいてみる。凡そ如何なる人間では、腹の中ではいつも善と悪と戦っている。つまり仏...
栄光

神の経綸

我救世教は、如何に深遠微妙にして、偉大なるものであるかをかいてみるが、之を読んだらどんな信者でも、驚嘆して口も利けないであろう。抑々、神様の御経綸なるものが、人智を以てしては、到底想像もつかないものである事を知らなければならない。というのは...
栄光

地上天国を造る

左の論文は、前月廿二日、日比谷公会堂に於て本教講演会開催の砌(ミギリ)、何しろ録音や布哇ヘラルド紙等に掲載される予定なので、慎重を期し、前以てかいた原稿を持参した処、偖て私の時間となり演壇に登るや、自然に言葉が湧いて来るので、如何ともし難...