我救世教は、如何に深遠微妙にして、偉大なるものであるかをかいてみるが、之を読んだらどんな信者でも、驚嘆して口も利けないであろう。
抑々、神様の御経綸なるものが、人智を以てしては、到底想像もつかないものである事を知らなければならない。というのは今熱海に造営中の地上天国にしてもそうである。之は信者諸君も常に観らるる如く、土木工事が段々進捗するにつれて山の形状、樹木の位置、建物の予定地等は固より、遙か目に映る全景の美観といい、周囲の様相といい、観る度に変りつつある事に気付くであろう。特に石垣の多い点は、先ず日本一と言ってもよかろう。処がそれに要する石は、一個所から無限に出てくる、いくら掘っても尽きる事を知らない有様だ。斯んなに石の集積している処は、熱海中何処を探しても見当らない。実に不思議で、誰も驚かない者はない。此事だけにみても、神様は何万年前、已に計画され準備された事は一点の疑う余地はあるまい。又現在天国の周囲を取巻いている景色を見ると、色々な樹木のあり処、山の形状など、調和美がよく表われていて恍惚とする。そうして必要な土地は次々手に入ってくるから不思議だ。それも飛び飛びではない。隣から隣へと順々に広がってゆく。而も時もそうで、必要に迫ってくると売りたいと言ってくる。全く思い通りに運んでゆく。それから私が時々行って見廻るが、其度毎に新しい企劃が自から浮んでくるから、考える必要などない。楽なものである。
茲で最初に曰った驚嘆すべき、大経綸とは何であるかというと、熱海という日本一の景勝地の意味であるが、之はいつもいう通り、山水美、気候、温泉、交通の至便等々、凡ゆる条件が具備している。恐らく之程の景勝地は日本中何処にもあるまい。とすれば之は如何なる訳かを深く考えてみると、斯ういう事が判ってくる。即ち造物主が地球を創造された時、永遠な計画の下に設計をされた事である。恐らくそれは何百万、何千万年前の事であろうが、地球を御造りになる時、将来日本という世界的公園としての、パラダイス的土地を定められ、其条件として気候、風土、自然美等を、夫々申分なく具備され、時を待たれ給うたのである。勿論それが我熱海であり、次の箱根もその意味であり、富士山もそうであろう。特に熱海に至っては、最高最美の理想境を目標とされたものであろう。そうしておいて物質文化の進歩の程度が漸く天国建設に適するような状態になったので、茲に私という者を生れさせ、種々な経路を経て、熱海に住むようにされ、茲に御目的である地上天国の模型の建造に、着手されたのである。私は瑞雲山に立って、いつも風景を眺め乍ら思うのである。それは最古の時代私が神様であった時、将来の計画を立て、設計したものに違いない。見遙かす盆石の如き初島や大島、五つの岬、真鶴の突端、十国峠の山並、湖水と見紛うばかりの鏡の如き海原、特に熱海の山の美しさ、之が最高の神技でなくて何であろう。そうしておいて、二十世紀の今日、自分が人間に生れて、最初の計画通りのプランを実行するようになったのであるから、前述の如く奇蹟が多いのも当然と言えよう。
従って私の行っている事は、独り此小地上天国の事ばかりではない。他の色々な事業も、悉く万物を造られた時から準備されたものである事は想像され得るのである。
それに就ての、今一つの、重要事をかいてみよう。之は自画自讃ではあるが、私が文字をかいた紙を御守にすると、素晴しい治病力を発揮する。之はみんな知る通りであるが、此御守は、一時間に五百枚はかけるから、七秒で一枚という事になる。此七秒で出来た紙と墨の作品で、何千何万の人の命を救うのだから、其偉大なる神力は、何と説明していいか分らないのである。之は私が偉いのではない。私に其力を与え給う大神様の、素晴しい神力であろう。
(栄光百九号 昭和二十六年六月二十日)